・妻の『ダラックマのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
ブログ読者に人気の記事
おはようございます。
今日は6時15分に目覚めました。
寒さに耐えながら洗面をしていると妻も起きてくる。
この生活パターンも、そろそろ1ヶ月。
洗面している横で洗濯機を回そうとしている千鶴さん。
ポケットに物が入っていないかチェックを要望される。
洗面を終えると座禅を15分。
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どうも気が抜けて背中が丸まっていたりする。
慣れてくると、どうしても気が抜けてくる。
その度に仕切りなおすのだが、今度は、妄想の世界に入る。
それでも朝、最初に座禅をすることで自分を思い出せる。
座禅を終えるとコーヒーを淹れる。
千鶴さんが「先に着替えをしておいたら慌てなくて済むんじゃない?」と言っていたが「そうだねー」と言いながら、そのまま玄関先へ。
太陽の光は明るいのだが、風が冷たい。
目の前にある樹の花が咲いている。
小学生の頃からある樹なのに、名前を知らない。
新鮮な朝の空気。
煙草に火をつけようと思ったが、ライターがうまく点かないので、本を読みながら、家へと一旦入る。
で、読書を終えて、ブログ更新です。
毎日書いてくると、どうも、アイデアに詰まりますが、何があるだろうか。
評価についてですが、つまり、良い悪いという判断はルールや常識、道徳、法律、習慣等々によっては決まりません。
もちろん、そうやって、今あるルールは守らなければいけませんが、だからといって、そのルールは宇宙の法ではないのです。
人間の関係性、つまり、自己と他者の必要性、社会から生まれたのが常識です。
しかし、宇宙の法というのは、出来損ないの、どうしようもない「だめま」にも、厳然として差別なく働いているんです。
縁起というのを因果と捉えて、いいことしたから、いいことがあった、悪いことをしたから罰が当たったとか言ってみたり、最初から物事は決まっていると言ってみたり、している人がいますが、そんなものは頭の世界から見ているから、そうなるんです。
目の前に自然があって、それが現生しているのは、私があるからである。
これは「いい、わるい」は関係ないのです。
そして「神の意志」とか「因果」の流れもないのです。
つまり縁起自体には「時間の流れ」はないので、ああしたからこうなったという意味ではないんです。
これあるによって、これありですからね。
まあ、僕の解釈ですから、違うかもしれません(笑い)
何が言いたいのかというと、良いことをしようという考え自体が悪いことを想定している分別なので、そんなもの自体を放っておくということが、悟りなのだということです。
何もしない。
そうして今、目の前にある自然が、自己である。
ここに線を引いているのが、自我なのだ。
命が全体に開花している中で、いいもわるいもないのである。
あなたは、最初から救われているのだ。
この世界において、自然にリラックスするには「頭の判断」をどうしても一回、落としてしまわなければならないのである。
気がつくために、一度、生まれたままの自然に戻ってみることだ。
ただ、こころとからだの力を抜くことなのだ。
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おはようございます。
今日は6時15分に目覚めました。
寒さに耐えながら洗面をしていると妻も起きてくる。
この生活パターンも、そろそろ1ヶ月。
洗面している横で洗濯機を回そうとしている千鶴さん。
ポケットに物が入っていないかチェックを要望される。
洗面を終えると座禅を15分。
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どうも気が抜けて背中が丸まっていたりする。
慣れてくると、どうしても気が抜けてくる。
その度に仕切りなおすのだが、今度は、妄想の世界に入る。
それでも朝、最初に座禅をすることで自分を思い出せる。
座禅を終えるとコーヒーを淹れる。
千鶴さんが「先に着替えをしておいたら慌てなくて済むんじゃない?」と言っていたが「そうだねー」と言いながら、そのまま玄関先へ。
太陽の光は明るいのだが、風が冷たい。
目の前にある樹の花が咲いている。
小学生の頃からある樹なのに、名前を知らない。
新鮮な朝の空気。
煙草に火をつけようと思ったが、ライターがうまく点かないので、本を読みながら、家へと一旦入る。
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評価についてですが、つまり、良い悪いという判断はルールや常識、道徳、法律、習慣等々によっては決まりません。
もちろん、そうやって、今あるルールは守らなければいけませんが、だからといって、そのルールは宇宙の法ではないのです。
人間の関係性、つまり、自己と他者の必要性、社会から生まれたのが常識です。
しかし、宇宙の法というのは、出来損ないの、どうしようもない「だめま」にも、厳然として差別なく働いているんです。
縁起というのを因果と捉えて、いいことしたから、いいことがあった、悪いことをしたから罰が当たったとか言ってみたり、最初から物事は決まっていると言ってみたり、している人がいますが、そんなものは頭の世界から見ているから、そうなるんです。
目の前に自然があって、それが現生しているのは、私があるからである。
これは「いい、わるい」は関係ないのです。
そして「神の意志」とか「因果」の流れもないのです。
つまり縁起自体には「時間の流れ」はないので、ああしたからこうなったという意味ではないんです。
これあるによって、これありですからね。
まあ、僕の解釈ですから、違うかもしれません(笑い)
何が言いたいのかというと、良いことをしようという考え自体が悪いことを想定している分別なので、そんなもの自体を放っておくということが、悟りなのだということです。
何もしない。
そうして今、目の前にある自然が、自己である。
ここに線を引いているのが、自我なのだ。
命が全体に開花している中で、いいもわるいもないのである。
あなたは、最初から救われているのだ。
この世界において、自然にリラックスするには「頭の判断」をどうしても一回、落としてしまわなければならないのである。
気がつくために、一度、生まれたままの自然に戻ってみることだ。
ただ、こころとからだの力を抜くことなのだ。