・嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。
ブログ読者に人気の記事
おはようございます。
今日は6時に起床して洗面、座禅15分無事に終えました。
メッチャ寒いですね。
玄関脇で煙草&珈琲を楽しみながら、読書していましたが、凍えました。
妻が洗濯物を干していましたが、背中が丸まっていたw
昨日、人気記事を纏めていて、思ったのですが、老子って、意外に人気があるんですね。
まあ、僕の記事はウィキペディアのコピーですが、、、
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一冊だけ『老子道徳経』の訳を持っていますが、まあ、あれは『タオ』の働きについて延々と書いてあります。
で、柔らかいものが強いんだ、硬いものは強そうに見えて、弱いと、そんな感じ。
で、この柔らかいものというのは、なんだと言ったら『自然』であることです。
自分が自然にリラックスできているのは、頭の中の物事が落ちて、体から力が抜け切っているような状態のことですね。
これが強いわけです、笑
昨日、朝から晩まで、嫁様と罵り合っていましが、それで、頭にきて、いろいろと考えてしまうので疲れるわけです。
そうではなくて、自然のままに、任せておく。
もう、自分でどうにかしようとしても、諸行無常は向こうからやってくるんだから、どうしようもない。
それで、自分の力だけで生きているんではない。
タオの力が、コンコンと湧いてくるところで、生かされているのだ。
と、思って、肩の力を抜いて、考えないで、好きなことをする。
この『自然体』というのは、非常に、素晴らしい考えであると思います。
さすがは中国4千年の歴史!
偉大なる人物には事欠かないですなあ。
あ、そういえば『神様とのおしゃべり』も遂に買ってしまいましたw
前から気になっていたのですが、なんとなく、これを買ってはいけないと思っていたのであります(爆笑)
読んでみたら、面白かった。
まあエンターテーメントですが、無常というのは欲とは相反しますね。
いつか死んでしまう自分自身、というのが無常ですから、それであって幸せが、ここにあるという、そこが、仏教でしょう。
グルジェフさんでも、他人ではない、自分自身が、いつ、どうなるか、つまり、死んでしまうのかは、分からないのだし、もし、常に、このことを意識できれば、クンダバファ(緩衝器)を破壊できると書いている。
いつ、自分が自然に帰るのか、今なのか、それとも、肉体と共になのか。
自然体というのは、この、自我の働きを追わないということなので、つまりは一つ一つの物事が、そこで終わっていることです。
肩の力が入るのは、記憶からくる、怒りが、恨みが、清算されないからでしょう。
そういったものは、背中に残って、自我が、足掻いて、できている。
ありとあらゆる物事は、ぐるぐると変遷しており、同じときは2度とない。
考え方の変化ではなく、見方の変化ではなく、この、私の、自分自身の変化、トータルな変化だけが、真の、自然体である。
これは、思考、感情、動作、本能の各中枢部が、すべて、高次感情中枢、高次思考中枢、性中枢という、肯定的である自己意識の参入の中で各自の、役割を果たすことであり、それは、背面の自己が立っているということである。
そして力が抜けていることなのだ。
こころとからだの力がふーっと抜けきっているのが、自然体であり、高次中枢との繋がりがある状態である。
それは『頭』で、できることではない。
自己の分析、後追い、恨み、等々が落ちていくことなのである。
いま、このときに!
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おはようございます。
今日は6時に起床して洗面、座禅15分無事に終えました。
メッチャ寒いですね。
玄関脇で煙草&珈琲を楽しみながら、読書していましたが、凍えました。
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で、柔らかいものが強いんだ、硬いものは強そうに見えて、弱いと、そんな感じ。
で、この柔らかいものというのは、なんだと言ったら『自然』であることです。
自分が自然にリラックスできているのは、頭の中の物事が落ちて、体から力が抜け切っているような状態のことですね。
これが強いわけです、笑
昨日、朝から晩まで、嫁様と罵り合っていましが、それで、頭にきて、いろいろと考えてしまうので疲れるわけです。
そうではなくて、自然のままに、任せておく。
もう、自分でどうにかしようとしても、諸行無常は向こうからやってくるんだから、どうしようもない。
それで、自分の力だけで生きているんではない。
タオの力が、コンコンと湧いてくるところで、生かされているのだ。
と、思って、肩の力を抜いて、考えないで、好きなことをする。
この『自然体』というのは、非常に、素晴らしい考えであると思います。
さすがは中国4千年の歴史!
偉大なる人物には事欠かないですなあ。
あ、そういえば『神様とのおしゃべり』も遂に買ってしまいましたw
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まあエンターテーメントですが、無常というのは欲とは相反しますね。
いつか死んでしまう自分自身、というのが無常ですから、それであって幸せが、ここにあるという、そこが、仏教でしょう。
グルジェフさんでも、他人ではない、自分自身が、いつ、どうなるか、つまり、死んでしまうのかは、分からないのだし、もし、常に、このことを意識できれば、クンダバファ(緩衝器)を破壊できると書いている。
いつ、自分が自然に帰るのか、今なのか、それとも、肉体と共になのか。
自然体というのは、この、自我の働きを追わないということなので、つまりは一つ一つの物事が、そこで終わっていることです。
肩の力が入るのは、記憶からくる、怒りが、恨みが、清算されないからでしょう。
そういったものは、背中に残って、自我が、足掻いて、できている。
ありとあらゆる物事は、ぐるぐると変遷しており、同じときは2度とない。
考え方の変化ではなく、見方の変化ではなく、この、私の、自分自身の変化、トータルな変化だけが、真の、自然体である。
これは、思考、感情、動作、本能の各中枢部が、すべて、高次感情中枢、高次思考中枢、性中枢という、肯定的である自己意識の参入の中で各自の、役割を果たすことであり、それは、背面の自己が立っているということである。
そして力が抜けていることなのだ。
こころとからだの力がふーっと抜けきっているのが、自然体であり、高次中枢との繋がりがある状態である。
それは『頭』で、できることではない。
自己の分析、後追い、恨み、等々が落ちていくことなのである。
いま、このときに!