豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

リアル、そのものが『真実』なのだ(爆笑)

2015-03-08 09:01:56 | 読者に人気の記事
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おはようございます!

本日は6時に起床して、洗面、座禅50分を行いました。

そのあとで千鶴さんの朝食準備を手伝い、悠聖に朝ごはんあげました。

ご飯に、レトルトの離乳食をかけて、あとは、ヨーグルトですね。

嬉しそうにパクパクと食べてくれます^^

あとで僕達もテレビ見ながら食事を楽しみました。

千鶴さんはご飯で、僕はトースト2枚、あとはハムエッグとサラダです。



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悠聖くん、少し言葉が出るようになって、今朝も「パパ、ママ」と言っているような感じなのです。

相変わらず外へ出かけたがって、僕が、煙草を吸いに行こうとすると抱っこしてポーズですよw

か、可愛すぎる~。

少しだけ庭を散歩するくらいで戻ってくると「ウェーン」と泣かれてしまいます、笑

千鶴さんが「アンパンマンミュージアム」に連れて行きたいと言うので、僕は近くに動物園があれば、一緒に行きたい。

今日は日曜日だから、どこかへ、まあ、近くの公園でもいいけど、連れて行こっかな。


こういった普通の「自分なりの」日常が実存であるわけですが、実存哲学がうまく機能しないのは、一般化して、世間的に定義するからでありますね。

実存を哲学しても、分析が始まるので、実際の行、体験をその分析規定によって狭めてしまうのであります。

グルジェフさんが、神秘主義や現代の占い、降霊術や降神術、神智学協会等々を痛烈に批判するのは、現物としての生命をこえた、超自然基点の思想に重点を置くからであります。

この『超自然』を扱うのは、事実の生命体験における「言葉では定義不能な体験」を神であるとか、その他、霊性であるとか仮に命名しているわけですので、空想とか思念体・低次感情の中に事実にあるわけではないのであります。

ですから、こういったテーマで『神』が、とか、まあ、霊についてのみ、空想を逞しくしていく書籍やブログ等々は避けるに限ります。

少しでも精神世界の書籍を見れば一発で分かりますよね。

ここに現生している奇跡の力ことを『霊性』と言っているのです。

仮に!

これは確かに超自然ではあるのですが、その、超自然は自分自身の生命体験から外れた、なにやら、遠いもので、努力して手に入れたり、ある一定の選民だけが体験できたりするものではないのです。

そういった空想が、信じられるのは、頭の世界に住んでいるからであり、その頭の世界は実存のうちの一部でしかなく、それは全体があって始めて生まれている枝葉のようなものなのであります。

とりあえず、実物の日常生活を離れたり、現実を離れたりする『教え』や頭の中の空想だけで、努力しなければ捉えられない事象を基盤としている修行などは、絶対に、偽者です。

囲まれた空間の中でしか実現しない真理や奇跡は無いのです。

誰にも共通した、この世界の真実が、ここにある日常を離れるわけがないのです。

隔離や区別は、されないのです。

思いによって現実を変えるというのは、思いが魂に浸透するということであって、それが本質の生に従って運命を生きることを可能にさせるという意味なのだ。

これは現実的な私自身の魂なのであり、これが本質を生きることになるのだ。

その本質が、変わるというのは、どこかの遠い空間や未来でのことではなく、ましてや他者の意志に頼るのでもないのです。

自分が、今、右手を心臓の上においた時にある、この、実際、実物の魂自体が変性するというか、生まれもった実際の活動を始める、そこに復活するということなのである。

元からある活動が自然に戻るということであり、その活動が社会・人格の規制によって歪められているのを「神仏」の理に戻すことなのだ。

それを『神の復活』『預言者の再生』というのだ。


とか、まあ、これこそ僕の妄想ですがwww


なぜ実存哲学、宗教、スピリチュアリズム(霊性)等々に興味を持った人が、中々、一般の人々と変わらないだけではなく、それ以上に病的な心理状態になるのかというと『頭の中で自己を想起』しているからなのである。

それは、頭の中で「いまここ、いまここ」とやっているのと同じである。

言葉によってメッセージを伝える、受け取るということで、最初に、ある追加された、観念、見解が、それを聞いた人々の中に生まれる。

例えば『愛』という言葉があり、それは最初『物質』のような感覚で受け取られる。

愛情や、好き嫌いと同一のものであるとか、または、本能的欲望の発散のことであるとか、それ以外にも以前に頭の中で認知された『快楽体験』と同一視されることで理解されるのだ。

もちろん、伝える側の人は、その本来の意味で『愛』と書いたり、言ったりするわけではあるが、それを聞いた側の人が、体験に追いついていなければ、意味がないどころか、それ以上に、生活上における悪い結果が現れるのである。

僕がそうでしたから間違いありません(爆笑)


ですから、人によって、その話の内容が全然違う経典や、修行形態があるのは、そこには、必要とされるものが違っているという事実があるからです。

しかし、段階が違っても、教えが事実を離れるということはない。

たとえば基本というのは「私はここにいる」ということだ。

教えが、ここにいる実物、リアル、真実の私を離れて成立するわけがないのである。

真理の教えというのは、この事実のリアルを分析したりしている人間に、リアルをリアルのままに、あるがまま再認識させるためにあるのである。

しかし、最初は、このことを分析的に他者の頭へと伝えるしかないのである。

なぜなら、社会生活を送っていく中で、原始的な生活を営んできた人たち以外は、教育によって社会常識やら、他者依存を、頭に叩き込まれて、洗脳され、その頭の規制によって、本質を捉えられなくなってしまったからなのである。

その頭に対して、説法がなされるわけで、それは、それしか方法がないのであるから、いいのだが、それを、聞いただけの人が、知的に遊び、頭の中で新しい概念を生み出し、それをあたかも真実-日常生活-のシステムのように、科学的に解説してしまう。

そうして、その新しい『教育』が人間に足枷を嵌めている。

これは悲劇を通り越して喜劇だと、可笑しくて、痴呆の為の乾杯をしてしまうグルジェフさんの気持ちは痛いほど分かります。

まだ痴呆の方が足枷がないだけ、救われているかもしれないというシニカルなニヒルな、表現ですが、そういう方が好きだったのでしょうね。

こういう表現は単に性格から出ているだけです。

深遠な意味は形の向こう側にあるのであって、誰でも知った人は同じ事を指しているのですから、外面の意味に囚われてはいけないのです。


例えば『人間は機械である』とはグルジェフさんの言葉である。

これは自然はそのまま人間であり、法と自己には差別はないのに、人格と習慣のパターンの中に埋没して眠りながら生活している人間は『人間中心主義(ヒューマニズム)』によって盲目になっているという心理的事実に対する痛烈な批判なのである。

それを聞いた人が、正に、人間は機械であり、これこれ、こういう風にできており、それは『真理』だと思い、また言い、考え、人に伝える。

しかし、これは、真理ではない。

この分析は、現状における心理の一片であり、つまり現代人の状況を傾向を一般的に概略して解説しているに過ぎないのである。


真理は目の前、この体、この思い、この一瞬から離れたことなどなく『超自然』も、この、いまここに誰にとっても現生している力のことなのである。

ただ、これが、社会・他者から与えられた人格の規制によって歪んでいるという事実もあるわけだ。

それは仮説の認知、観念、心理的な、頭の中だけでの偽の事実である。

その火に触れても燃え上がらないのです。

これが誰にでも当てはまるものではないので『真理』とは呼べないものだ。

これは『心理科学』なのである。


一般化された時点で、そこには、適用外の事実があるのであって、こういった規定や教え、システムは、人間本来の自然を表しているわけではないのである。

無理解な人格によって、歪まされた本質の現状を一般化して解説しているのだ。

この無理解が、苦であるがために、様々に、教えるわけである。

それを目にするのは苦しみなのだ。

まるで震災を見ているかのように、崩壊を目の当たりにしながら、何もできないように感じてしまうからである。

こういった教え自体が尊いわけではなく、この、ひとりの人間の『リアルな生』が尊いがために宗教があるのである。

ひとりの人間宇宙は、掛け替えのない、文字道理、奇跡に近い、神の恵みなのである。

それを勘違いした人が、例えば教えを振りかざして他者を惑わせ『リアルな生』を見えなくするとすれば、それは、盲目の人が盲目の人を導くと昔から言われているのである。


人間感情に触れたポップな表現や分かりやすい解説が真理なわけではない。

頭が納得することが、悟りではないのである。

頭が納得して終わるようなことなら、なぜ『始め無き悟り、終わりなき修行だ』という言葉が出てくるだろうか。

覚醒者であっても、なんどもなんども、ここに戻っているのである。


私は悟った、ハイ終わり!

なんてことが生きている限りは、あるはずが、ないのである。

リアルに帰るという、また思いに耽るという、この繰り返しがあるのだ。

覚者とそうでない人は、この事実を一度は見たかどうかの違いだけである。

見ても、見ていなくても見ているのは同じだ。

そこに気がついたかどうかだけなのであるので、全く事実には差は無いのだ。

同じ神の奇跡に満たされているのである。

その日常の奇跡を知らないがために、己の活動に心理的に苦しまなくてはならない。

そうして自信がなくなるのである。


これは心理的に苦しむことを言っているのです。

肉体の苦痛はあるに決まっています。

あるけれども、心理的に、そこから離れているわけである。

神仏への信頼であったり、また、祈り、禅定等々がそうさせるのであり、己が落ちるというのは、この全世界が生きることなのだ。

つまり『客観的世界の側から自己を生きている』ということなのである。

これが自灯明、法灯明なのである。


前にも書いきましたが、例えば、夕陽に感動した人が我を忘れているのが悟りと同じだ。

夕陽は普段、自己を置いた上で分析的に対象として見ている。

しかし感動して自己が落ちた人は、夕陽と自己に境目がなくなっているのである。

しかし実際には両者はある。

違いは、認識の中だけなのである。

認識や心理の傾向が、変わるということではない。

それ、そのものが、落ちているのである。


ハートの変革というと、この思いが変わることであるかのように感じるが、そうではなくて、ここ、この事実にハートが直に触れるようになることなのだ。

それは人格によって本質が規制されているところを外すだけなのである。

しかし、この本質の規制を外す前に、自覚が必要なのは、自覚がなければ、本質は、本能のままに生きてしまうからである。

理性→感情(本質)→動作が人間の姿であり、本能→感情(自尊心)→思考というのが現代人の病的傾向なのである。

この病的傾向は真理を指しているのではない。

ここで、いま、リアルにあることの理解を妨げている心理的要因を一般に解説して、指摘しているのである。

個々人によって、時代によって、これは様々に違うのである。

しかし事実は、人々によって時代によって変わることが無い「不動」の真理なのだ。

天(宇宙)と地(地球)は今、目の前で動いているのであって、それが真理なのだ。

正にリアル、そのものがリアルなのである(爆笑)