豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

偉大らしい覚醒者さまに、お金を出さなくてもできますよ、座禅は(爆笑)

2015-03-16 08:48:06 | 日記
・初めての方は、こちらもどうぞ!→『ようきてな』
・豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
・嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。



おはようございます。

本日は6時15分ごろに起床しました。

千鶴さんと少し語り合ってから、洗面、座禅50分を行います。

どうも落ち着きがない。

心がソワソワと動き続けていると深く入れない。

スーッと落ちるためには、姿勢も落ち着けなくてはならない。

動かないことであると理解しているのだが、心や身体が、ざわついている。



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座禅を終えると、読書しながら、煙草と珈琲を楽しみます。

朝の新鮮な空気、あたりの雰囲気が、匂いとして感じられる。

読み終えて、ブログを書こうと思ったが、妻が朝食の準備してくれたので、いただきました。

バタートースト2枚とサラダ。

昨日、親戚の叔父さんがバイキングで余った料理をたくさん持ってきてくれた。

サラダは、その残りであります。

まだまだ、あるw

おいしくいただいている横で悠聖は、教育テレビを見て、喜んでいる。


で、ですね。

今日も仏について、想像を膨らませてみたいと思うのであります。

「さとりへの道 華厳経に学ぶ」(木村清孝)を読んでいると、あちこちに「眉間の白ごう相から光明を放ち、三千大千世界一切を清める」とか、この「無量の功徳」とか「三千大千世界に等しき経巻は一微塵の内に在り」と凄い表現があります。

これを普通に読んで、眉間から太陽光のようなものを凄まじい果てにまで届かせて、世界全体を清浄にする、溢れんばかりの慈悲、この森羅万象の法は、小さな塵と等しいということなのですが、一体、どういうことでしょうか。

これは、あなたが今、現在、毎日、いつも、していることなのである(爆笑)

この話を聞いて、このように優れたことは、誰にも不可能であると、みんなが思ってしまうし、こういう心に訴える書き方は、信仰心には効果があるかもしれないが、実際に事実として、自分自身の生活の中に、真実を見るには、どうなのかとも思います。

眉間から放たれた光明というのは、智慧の光のことです。

これは、意識のことです。

そして、三千大千世界とは、次元を超えた宇宙全体、つまり時間をリセットした宇宙のありとあらゆる森羅万象、つまり法のことです。

これは、眼前の事実のことです。

無量の功徳とは、心の中にある虚心、つまり真我が、目覚めていることで、至福を体験しているということです。

これは、安心のことです。

そして森羅万象の法は、小さな塵と等しいというのは、この自己と全宇宙は同じ「こころ」であるということであります。

これは、縁起のことです。


そうして、こういった話が伝えたいことは、結局「こころ」なのです。

この「こころ」が、苦を滅尽させることを言いたいだけなのです。

日常を生きている上で、仏が目覚めているというか、認識されていて、その仏の心から行いが生じてくるように調整、準備していくのが修行なわけです。

修行して仏の心を手に入れるのではなく、最初からある仏を妨害している、生老病死に連なる自我の誤認識を正しい見方に戻すことですね。

これは、単に、自然である自己に帰るということなのです。


では、自然である自己とは何かといえば「計算のない自己」なのです。

これのたとえが赤ちゃんや幼児であったりするわけですが、赤ちゃんや幼児になるわけではなく、大人として、計算をしない自己であるようにするわけです。

もっと単純に言えば、あーだこーだ言わないというそれだけのことです。


物事が過ぎ去ってから、あーだ、こーだと批判している自己は、この仏の存在を見えなくさせているのであります。

ですから幸せになろうとする人は幸せになれず、幸せについて思量、計算していない人が、いつも幸せであるわけです。


また無我とか、涅槃等々の言葉にしても、大げさな分析や、いろいろな話がありますが、ようするに無我とは「分け分からなくなっている」ことであり、涅槃とは「生死前の未知世界」のことであります。

それは、同じことなのですwwwww

無我は認識が落ちることであると、言われて、これを気絶することであると思っている人もいるかもしれませんが、そうではないと私は聞きました。

これは分析、つまり分別のない状態のことなのです。

後追いの認識をせず、ただ、目の前の事実を、ありのままに見ることなのです。

これが、私だ、あれが、花だと言い出す前の事実ですよ。

これが同じく、涅槃です(爆笑)


そして涅槃とは真我のいるところです。

リアルな自己は、この世界にありながらも、別の次元にもあるわけですが、それが無量でありながら、一微塵なのであります。

普通は自分自身が涅槃で眠っているのです(爆笑)

そうして偽の主人(思考)が他者(感情)という部下を連れて、この、地獄で戯れているのです。

普段活動しているのはエゴのほうで、真我は眠っているのであります。

運転手、持ち主自体が、起動していないのです。

この眠っている真我、仏自体が目を覚まして「おおっ! ワシャア寝てましたがなあ!!」と言わなければ、普段の意味での自己は、この心の重心に気がつけない。

そして生きている中で、つまり諸行無常の中で、この真我や仏に投影された『我』という思いを消滅させるということが生死からの解脱なのです。


釈迦は、解脱のためには「貪欲を捨てなさい」と単純に説いているのです。

わがものという思いが、あって、これが、自己という分断を生んでいるのです。

本来は、自然の側が、この真我を生きているのです。

私の持ち物である真我ではなく、真我が私であり、それは眼前の自然なのですwwwww


なんか余計に複雑になってしまった気がするな・・・・・・orz


言いたいことはですね。

悟りとは、みんなが書いたり、言っているような、とてつもなく偉大で、達成不可能なことではないということなのです。

もちろん菩薩のような人でいるのは難しいですがね・・・・・・。

智慧の眼を開くまでは、そんなに難しいことではないのです。

事実の指しているところ、仏教の説いているところ、また、悟りについて、真我の覚醒についての理解、等々は、難しくないのです!

最初から、それであるのだから、修行は、本来はいらないのです。

本当に、実際、難しいのは、気づいた後に、そこを生きることなのです。


社会(他者)からの教育(洗脳)があって、生まれ持っている自己(こころ)を見失ったがために、もう一度、故郷へと帰る、帰るように思えるというだけなのです。

エゴの側からは、そう見える。

しかし、これを一度達成しても、また何度でも、そこに帰るのであります。

なぜなら生きている限りは、煩悩があり、怒りがあり、欲望があるに決まっているからなのであります。

覚醒者であっても、何度も、何度も、帰っていたに違いないのです。


って、こう頭の中から書くと、めちゃくちゃ表現が微妙な部分があり、想像と比較が働いてしまうので、どうしても、そこには『嘘』が含まれてしまう。

矛盾が含まれてしまう。

「仏のことなんか考えないのがいい」というのが真実だが「仏であるように精進するのがいい」というのも真実なのであります。

ここにも『嘘』があるのです。

なぜかというと、精進もなにも、仏でなかったときなんか一回もないのです。

みんなが仏であれば世の中で笑いあえるわけですが、その、笑いあえる「こころ」は、常にあって消失しないのです。

だから、仏になるのではなく、ただ、思いが落ちればいいのです。


では、どうすればいいの? と頭が質問します。

そうすると有名な「いまここ」を生きることに尽きるのですが、この「いまここ」を頭の中にもちこんで、何をするときにも頭で統制して「いまここだ、いまここだ」と集中というか執着してしまうことではないのであります。

これはもう病気ですwwwww


今、「ここ」を生きるにはどうしたらいいの? と頭が質問します。

そうすると有名な「あるがままに」生きることに尽きるのですが、このあるがままに生きるということを頭の中で規定して「あるがままに、あるがままに」と自分をコントロールすることではないのです。


「どうすることもない」というのが、真実で、それは、どうすればいいのかと問うている、その人自身がいなくなることなのです。

最初から「いまここ」でしかなく「あるがまま」でしかないのに、「わがもの」という思いが、自己を改善しなくてはならないと奮闘しているのです。

それが私の責任だと言うのです(大爆笑)

そうして、その奮闘の中に○○○○主義や○○○○中毒が生まれて、思想・哲学から人を裁いたりして、挙句の果てには戦争したりしているのです!!!!


では、どうすればいいの? とあくまで食い下がるエゴくんw

そこで、グルジェフさんはモルモット達を絶望させることにしたのでありますね。


まず、自分というものを分析するのであります。

お待ちかねの、思考の大好物である分析を始めます。


①思考、感情、動作というものを見分けて分類する。

思考は比較(1、2、3、4を見分けている力)

感情は情緒(社会や他者との関わり。感覚の快・不快とは別)

動作は運動(生まれたあとで身に着けた動ごき)

であります。

そこに本能(生まれたときからある生理、反射機能)と性(男らしさ、女らしさ)の力を追加して、更に分析、分析していきます。


これに付け加えて、不快感の表現をしない、内的に考慮をしない、自己同一化しないという3項目があります。

感情、感覚が不快でも外には見せない(内側は不快でもOK)

自分の心の内側だけの物事を考えない(無欲であるか?)

自分自身を対象として突き放して見る(自分の言動を忘れない)


このことは、先の分析があって、初めて出来るのです。


このような活動が何をしているかと言えば、エゴ(わがもの)を削いでいるのです。

しかし、これは限定されたテクニックであり、人によって、様々に、合う、合わないがあります。

自己に絶望するこの道は、適さない人が、たくさんいるということです。


じゃあ、どうすればいいの?

どうすれば? を落ちるのに、誰にとっても、一番効果的なのは、何にも考えずにリラックスしているときか、なにかに強烈に集中しているときなのであります。

つまり『瞑想』か『禅定』なのです。

であるからして、究極的には、方法と言っても『瞑想禅定』しかないのです。

瞑想禅定することで、本も知識もいらないのであります。

なぜなら、こういった問題に関しては自分自身が知識であるからです。

汝、自身を知れ!

と偉大なる哲学者が言ったらしいが、それは、瞑想禅定することでしかないのです。


そして瞑想禅定の中でも、一番、優れているのは、座禅なのです。

座禅すれば、もう、それで悟っているのです。

気がついていないだけで、いつか、気がつくのですから、座禅して終わりですwwwww

偉大らしい覚醒者さまに、お金を出さなくてもできますよ、座禅は(爆笑)


ただ、座るだけです。