豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

悟れないテクニックで悟るのだ(爆笑)

2015-03-03 15:38:17 | 読者に人気の記事
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こんにちわんこそば。

昨日から深夜勤務になって、本日は14時の起床です。

いつものように洗面して、座禅を15分しました。

ブラックコーヒーと煙草の黄金コンビで読書という、僕にとっての至福のタイムを過ごしてから卵ご飯と味噌汁、梅干で食事をします。

朝から嫁様が、付き合っていた当時にプレゼントした指輪のチッチャナダイヤが取れて、行方不明だと言って落ち込んでいた。

まあ、小さすぎて発見できないのだろう、笑

でも大事にしてくれているのが、分かるから、嬉しくなります。



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僕が読書している間に、悠聖が外に行きたいらしく初めて靴を履かせていた。

昨日、西松屋で購入していたのだ。

ヨチヨチと歩く練習をさせてみるが、あまり乗り気ではないwwww

でも外の世界には興味津々らしく、凄く喜びます。

あとは、猫が好きで、DVDを見せると泣いていても直ぐに泣き止んでいる。


で、ブログ更新です。


僕は思ったのです。

様々に僕がしてみたことを書いてみるのも面白いのではないかと。

悟りなんていうのは掴まえられないもので求めても、求めている本人が忘れてしまわれなければいけないので、本当は「方法」なんてものはないのであります。

元々、あるものだから、到達するものでもないのであります。

しかしながら、理解するには、すこしだけ、日常から一旦遠ざかるような、つまり自己から一旦引き離すようなテクニックを使って、そのあとに、日常の奇跡に戻るのが、いいのではないかと思うのです。


まず第一に瞑想と禅定がありますね。

この技は、瞑想というのは想念を瞑るのであります。

座禅と違うと思うところは精神集中をする、その、ところだと思います。

様々にテクニックがあるわけですが、僕は、座禅のように姿勢を決めて、ただ、座っているのがいいのだと思います。

なにか、モゾモゾと自我の活動があっても、相手にせずに、ただ座っている。

姿勢はよく解説されているように、左足に右足を乗せる簡単なスタイルで、丹田に呼吸がおりるように背筋を伸ばして、顎を引く。

腰骨の曲がっている僕なんかは、腰の角度をまっすぐにしないといけないので、お尻が真下に着くように、何度か床に、侍って調整しています。

まあ、とにかく後頭部からお尻の下まで真っ直ぐにします。

これは誰か他の人に姿勢を見てもたったほうが、自分の歪みに気がつきます。

自分では、日常の姿勢なので、気がつかないのです。

そうしておいて、体の緊張している部分を確かめます。

いつもの安楽な慣れている姿勢ではないので、あちこちの筋肉が変に引っ張られたりして、緊張しているのです。

いろいろと確認してリラックスできるように整えます。

後頭部から背骨、床に着くお尻まで真っ直ぐなのは変えません。

肩とか首とか、足とか、まあ自然に出来るように調整をしていく。

その状態から息を深く吸って、丹田に入るように、何度か呼吸をして落ち着かせます。

そうしたら、不動の姿勢になって、一定の時間、座っている。


この座っていることが、もう、すでに悟りなのだ。


まあ、それはいいとして、次に禅定ですが、これは「いまここ」にあるという言葉と一緒であります。

一番分かりやすいのは、何かおかしなことがあって、心の底から笑っているときです。

この笑っている時には自己はありません。

つまり無我です。

このような、自己が行為と一体化している状態、風があれば風のみであり、鳥が鳴けば、その声のみがあり、といったような状態である。

まあ意図の無い無我夢中。

そういった状態はだれでも経験があるだろうと思います。

映画を見ていて熱中してきて楽しくって我を忘れるとか、ダンスを踊っていて集中してきて楽しくって我を忘れるだとか、まあマラソンしていて無になるとか、パチンコしていて無になるとか、仕事に熱中して無になるとか、まあ、そういった日常生活における、普通にある無心状態が禅定です。


この瞑想と禅定は、狙ってやります。

本来の実相は、このような、テクニックとは無関係に、誰にも差別無く、リアルに現前しているし、そこから離れないのですが、まずは、一旦、そこから離れるというためにしているのであって、決して悟るためにするわけではありません。

もう悟っているのだからwwwww

しかし、このような自我のあがきが、「思い」を落としたり、また、「思い」に触れたりという、この行ったり来たりを体験していくことが、実相としての生の現実、ただいまでしかなく、あるがままでしかない自己に帰るときの役に立つかもしれないわけです。


もうひとつは感情の問題であります。


ここでの「方法」は、圧倒的な自信です。

これは心理的な側面でありますが、毎日、人間は自分の本質に従って、様々な感情が沸いてくるわけです。

しかし「社会」という他者と自己との関係では「本質」のままに生きることは許されませんので、当然、抑圧された感情が生まれてきます。

人格が本質を抑制するということです。

それが「自己否定」されたと感じて、あれこれと思い悩んでいる、心の痛みくんの大きな原因となっています。

まあ簡単に言えば「社会、他者が、思うとおりにならない」ことに対して、心理的な痛みが生じてきて、マイナス感情が沸いていくるのです。

昨日の記事に書いたように、これも、あるがままであり、無問題なのですが、その無問題であることに気がつくために、一旦、非常にプラスのほうに傾けるというテクニックも有効であります。

あくまで一旦プラスのほうに傾くのであって、全能の神のような心理状態になったとしても、それが、悟りだとか愛だとか、そういうことではありません。

ここは直接ハートに作用させなければ、なりません。

頭で何を言っても、心の傷や、痛みは消えていかないからです。

本質を一番顕しているのは、赤ちゃんです(爆笑)

つまり思い通りにならなければ泣き、楽しければ笑いとストレートに自己の感情を表現しているのであります。

社会における観念規制がまだ発達する前だからです。

ですから、感情を一旦プラスに振るには「自分はOKである」と心底、心の底から思うように意図することなのです。

他人は他人で、それらの「考え」は完全無視です。

このときのポイントは、相手は「考え」を抜いた本質においては完璧であると見ることなのであります。

社会というのは、また常識というのは、必ず「見方」「考え」において形成されていますので、もしも、本質のままに生きたならば、凄まじい反発が起こるでしょう。

しかし、心底に自己を信じている限りにおいては、この反発など屁の河童の無敵状態に突入していくのでありますwwwww

これは、思い込むのではなく、心が素直であることが、純粋であることが、すべてですね。

人生劇場において、演技をしていても、心は素直に「思うが侭」にさせてあげるのです。

そうして、この「我がまま三昧」の中に感情がプラスに働くという作用が生まれるのです。


超簡単に説明すれば『自己中心的になる』ということであります。


他者の意見を全く尊重せず、他者の心の奥底にある本質、つまり幼児の心のみを見るのでありますから、まあ、普通に、楽しいと思います。

このときは絶対に自己批判をしてはいけません。

単に、自分はOkなのだという確信が大事なのであります。

あなたの本質は「神」の慈悲なのであります。

愛、そのものであります、等々の、そういったスピリチュアルが最大限、効能を発揮してくるところはここですね。


まあ、他人から見れば、迷惑千万、この上ないわけですが、一旦、こちらに行ってみるのであります。


さて、これらのテクニックを使った上で、自己が落ちるという経験をしていきます。

そうして、自己が落ちるが、また、直ぐに元に戻るという繰り返しをします。

そうして、また、自分の求めている『悟り』なんかには、いつまで経っても到達できないということを知ります。

そういった行為の中で、知覚されないことが、悟りであり、つまり、オレは絶対に悟れないということを知る。

その上で自己の「思い」を手放したり、また、戻ったりという、その活動そのもの、が、仏の世界と異ならないことを知り、また、自己が他者と異ならないことを知り、時間のないことを知り、最終的には「あるがままにあるがまましている」と知ることなのである。

あるがままでしかないのである。

つまり、今日書いたようなテクニックは悟るためではなく、そこに至って、自己が滅する境地になるのでもなく。

単に、最初から、事実から離れたことなど無く、永遠に、ここにあるということに「あっ」と気がつくことなのである。



しかし、ここに気がついても「その気がついた己」は、また、知覚外に行かねばならず、また、これ、この繰り返し、行ったり来たり。

その動き、諸行無常の動き自体が、いまここで、永遠なのである。