・初めての方は、こちらもどうぞ!→『ようきてな』
・豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
・嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。
おはようございます。
本日は6時半に起床しました豊田です。
寝床で目を覚ましてから一体、どこから不快感が出るのかとぐるぐると探していました。
まず身体の「だるさ」があります。
この「だるさ」は、思考、感情が身体と繋がったから認識されたようだ。
ここで、ハッと思い出したのですが、確か、グルジェフさんが睡眠とは、各中枢部の連結器官が外れることで、ひとつ、ひとつの中枢部は休んでいないということを言っていた。
どうも眉間と首筋の後ろくらいから、意識が身体に降りてくると感じる。
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この起床時の本能的不快感は身体の疲れだ。
その本能が、不快感メッセージを感情中枢に訴えて乗っ取り、その感情中枢が、思考中枢を乗っ取るという連携で、まだ動きたくない、寒いから布団から出たくないと気分が悪くなるのである。
と、観察を終えて、洗面、座禅50分を行います。
今朝の座禅も集中力に欠ける状態で、とにかく動いてしまう。
どうにも違和感を感じて曲がっている箇所を直そうとしてしまうのである。
顔の左側が麻痺している感覚があり、その麻痺にエネルギーを通そうとして、奮闘したり、やはり左右のバランスの悪い、左側が後ろへ傾いているような体を元に戻そうとして、アレコレと動いてしまう。
そうすることで、姿勢と連動して、心もアレコレと動き出し、頭は価値判断を始める。
じれったい感じが続いた。
この心の落ち着きのなさがスーッと消えていかないと集中するのは難しい。
座禅を終えると千鶴さんが「ぬけさく先生の新ポーズ」とか言いながら、空へと目を注ぎながら、手足をグルングルンと回しているwwwww
「さあ! マーチンさんも早くやるなりー」と言いながら、何度も踊る(爆笑)
さっきから、横で「これは書いてはいけないなりー」と腕をとってくるので、このあたりでやめておきますw
玄関脇へ出て、読書しながら煙草&ブラックコーヒータイムだ。
と、思いきや、電話が鳴っているらしく、千鶴さんに呼ばれる。
誰かと思えば、南君ではないか。
そういえば、昨日も電話があったのだった。
しばらく歓談を楽しんで、また再来週に出かけようと約束を確認する。
亀山市に『コメダ珈琲』がオープンしたのだが、そこにいるようだ。
僕はまだ開店しているのを知らなかったので行っていない。
今日は、お休みなので行ってみよっかな。
電話を切って、読書をします。
悠聖が起きてきて日本間のガラス戸から千鶴さんと手を振っている。
なんという煌めく笑顔!
これぞ、人間の至福なのではないか。
千鶴さんが玄関脇まで連れてきて「おはヨーグルト」wwwww
僕「ああ、おはヨーグルト♪」
悠聖を抱っこしてあげてと言うので、抱っこして「狸の置物(陶器)」を見せていると「パパみたいなお腹だねー」と嫁が言う。
読書したいので早々に家へ戻して、続きを読みました。
それから戻ってブログの更新をしています。
昨日は買い物のついでに「さとりへの道 華厳経に学ぶ」(木村清孝)という『NHKこころの時代』の本を買ってもらい少し読み始めている。
楽しい。
こういう知らないことが色々と説明してある本はワクワク、ドキドキします。
日曜日なので、あとで、じっくりと味わいたいと思っています。
で、こういう本の中にはいろいろとお釈迦様の言葉が出てきて、それを神話的に解釈していくわけでありますが、仏にしても菩薩、如来にしても、ただ、あるがままの自分自身のことなのであります。
つまり、この、上に書いたような、しょうもない人間としての豊田君自身が、もう、そのまま、それなのです(爆笑)
豊田だけではなく、このブログに目を通しておられるあなたも、あなたの知っている人も、いや、人だけではなく、何もかも一切がそれなのであります。
石ころでもね(爆笑)
ですから、あの人が優れているとか、慈悲に溢れているとか、そういった幻想の中にあるのではなくて、ただ単の眼前の日常が如来なのです。
この如来は三千大世界に通じているわけですwwwww
しかも、この自分は、生まれたときから如来であり、いや、たぶん生まれる前も死んだあとも如来であり、仏であり、菩薩なのです。
誰でも、皆が、差別なく、そうなのであります。
どのような「人格」であろうと「本質」であろうとそうなのです。
しかし、それが、自分が自然そのものであることを認識せずに「思い」や「人格」の統制の中であくせくと活動して、苦しんだりしているわけです。
痛みではなく、心理的な苦にですよ。
それを見た釈迦が「奇なるかな、奇なるかな」と驚くのです。
最初から仏、そのものである、全宇宙である人間が、そのことを知らずに、生きている。
なぜ知らないのか。
こんなに当たり前に、神仏に生かされて、ただ不動に、全世界を顕示している、全体的なる一切合切である自己が、その偉大なる姿をすっかりと忘れて、小さなこの身体のみが、自分だと思いながら生きている。
そうして、それを「無知であるがゆえに苦しむ」と言ったのであります。
縁起していることを知らないから「無知」が出てくるので、最初に『縁起』つまりは相似性について説き始めるわけですね。
何もしなくても、そこに花がある。
その花は、あなたがいて、そこにあるのだが、またあなた自身が、その花なのだ。
という、この不二である世界に、頭の分析が入って、あなたと花の相似性を分断させているのである。
ですから、法身というのは宇宙の働きのことである。
しかし、その宇宙とは、実質、あなたのことなのである。
これが、どちらか一方だけということにはならないのだ。
宇宙と人間は、ふたつでひとりなのである。
人格の優れた人がいたり、劣った人がいたりするという価値判断の向こう側に、この自然としての人間の姿があるので、そこに帰りさえすれば、すべての人に差別なく、この日常自体が奇跡なのである。
この奇跡を顕示せしめている、あなたは「人格」ではなく、その「本質」でもなく、それらを在らしめている神通力なのである。
で、あるから、この神通力の働きである、あなたは、この世界に生まれてはおらず、属してもいないのでありながら、不思議に、このひとつの体の顕現において、属せずして体感を得ているわけである。
神通力という言葉は、よく「超能力」と同じような意味合いで受け取られていますが、まあ超能力(催眠術)というものと同じではありません。
だいたいにおいて超能力と呼ばれているものは「催眠術」なんですが、この神通力というのは、その名の通り、神に繋がっているエネルギーのことなのです。
この神とは「自然」と「人」を顕示せしめている力です。
ここに繋がっていることは、すなわち、無知が滅していることなので、仏は神通力があると言われるのです。
イエスが行ったような奇跡を釈迦は見せていません。
しかし、このことを受け取る人たちは、すべてを神話化してしまい、事実としての自分自身から仏教を遠ざけたのです。
あんまりにも尊重しすぎるものだから、また、実際の事実と懸け離れた視点で描くものだから、現代人の科学とは、相容れない、空想であるとか、人間には目に触れることの出来ない、特別な修行を積んだ人だけのものだとか、また、穢してはならない、恐れなくてはならない、他にも、あーだ、こーだ。
となってしまい、まったくもって信じられなくなったか、もしくは、変な空想を膨らませるヤカラの住処にまでなってしまったのである。
実質の自分自身、つまり、あなたの心と、仏教で説かれている話は、まったく同じなのであって、謙遜したり、祭り上げたりしなくてもいいのである。
誰かが達成して、誰かが達成していないということは、ここではありえないのだ。
要するに、気がついていないだけなのだ。
では、どうやって気がつくのかという時には「自己が落ちる」しかないのである。
この自己というのは、頭の中で規定されている、自己なのだ。
そして、この自己を落とすには、どうすればいいかとなると、観察することから、始まっていくのである。
ラマナ・マハルシが指摘するように「わたしは誰か」と胸に問うことなのである。
最初は、客体化されたものは「わたしではない」と見ることである。
つまり、グルジェフさんのテクニックでもそうだが、思考、感情、本能、動作、性、の各中枢部を分類することが、自己の働きを自然に戻す、私自身に帰す働きをするのである。
この観察から、客体化している意識にまずは気がつきます。
この客体化している意識は、頭の後ろにあって遠景を映し出す望遠鏡のようなものであって、その望遠鏡に映る風景に光を与えているのが、自分自身の心なのです。
ここの部分を見るには、分類している頭を超えた意識体としての活動が、光であると気がつくことから始まります。
天の光とか光明というのは意識光のことなのです。
そうしてこの、白光、というか、透明な意志光が照らし出す、私の世界は、胸にある、私、それ自身が見せている夢「のようなもの」であると知るのですね。
客観意識の光源が、胸に眠る真我なのです!
そのあと、この胸にある私自身というものは、最初から、自我(エゴ)のコントロール下にあるのではなく、この真我自体が自然の一部、神の一部であると知ることなのです。
なんと向こう側から、最初っから、あるのです。
なにも努力しなくても、あるのです。
そこから目の前にある風景を見ると、なんと、風景の側が最初にあるというのです。
最初から、そこにしかいなかったのであり、その変幻無限の自然の側が、あなたを生きているのであり、そこに『差別』はありえないのです!
あなた自身が、仏なのだから!!!!
・豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
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おはようございます。
本日は6時半に起床しました豊田です。
寝床で目を覚ましてから一体、どこから不快感が出るのかとぐるぐると探していました。
まず身体の「だるさ」があります。
この「だるさ」は、思考、感情が身体と繋がったから認識されたようだ。
ここで、ハッと思い出したのですが、確か、グルジェフさんが睡眠とは、各中枢部の連結器官が外れることで、ひとつ、ひとつの中枢部は休んでいないということを言っていた。
どうも眉間と首筋の後ろくらいから、意識が身体に降りてくると感じる。
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この起床時の本能的不快感は身体の疲れだ。
その本能が、不快感メッセージを感情中枢に訴えて乗っ取り、その感情中枢が、思考中枢を乗っ取るという連携で、まだ動きたくない、寒いから布団から出たくないと気分が悪くなるのである。
と、観察を終えて、洗面、座禅50分を行います。
今朝の座禅も集中力に欠ける状態で、とにかく動いてしまう。
どうにも違和感を感じて曲がっている箇所を直そうとしてしまうのである。
顔の左側が麻痺している感覚があり、その麻痺にエネルギーを通そうとして、奮闘したり、やはり左右のバランスの悪い、左側が後ろへ傾いているような体を元に戻そうとして、アレコレと動いてしまう。
そうすることで、姿勢と連動して、心もアレコレと動き出し、頭は価値判断を始める。
じれったい感じが続いた。
この心の落ち着きのなさがスーッと消えていかないと集中するのは難しい。
座禅を終えると千鶴さんが「ぬけさく先生の新ポーズ」とか言いながら、空へと目を注ぎながら、手足をグルングルンと回しているwwwww
「さあ! マーチンさんも早くやるなりー」と言いながら、何度も踊る(爆笑)
さっきから、横で「これは書いてはいけないなりー」と腕をとってくるので、このあたりでやめておきますw
玄関脇へ出て、読書しながら煙草&ブラックコーヒータイムだ。
と、思いきや、電話が鳴っているらしく、千鶴さんに呼ばれる。
誰かと思えば、南君ではないか。
そういえば、昨日も電話があったのだった。
しばらく歓談を楽しんで、また再来週に出かけようと約束を確認する。
亀山市に『コメダ珈琲』がオープンしたのだが、そこにいるようだ。
僕はまだ開店しているのを知らなかったので行っていない。
今日は、お休みなので行ってみよっかな。
電話を切って、読書をします。
悠聖が起きてきて日本間のガラス戸から千鶴さんと手を振っている。
なんという煌めく笑顔!
これぞ、人間の至福なのではないか。
千鶴さんが玄関脇まで連れてきて「おはヨーグルト」wwwww
僕「ああ、おはヨーグルト♪」
悠聖を抱っこしてあげてと言うので、抱っこして「狸の置物(陶器)」を見せていると「パパみたいなお腹だねー」と嫁が言う。
読書したいので早々に家へ戻して、続きを読みました。
それから戻ってブログの更新をしています。
昨日は買い物のついでに「さとりへの道 華厳経に学ぶ」(木村清孝)という『NHKこころの時代』の本を買ってもらい少し読み始めている。
楽しい。
こういう知らないことが色々と説明してある本はワクワク、ドキドキします。
日曜日なので、あとで、じっくりと味わいたいと思っています。
で、こういう本の中にはいろいろとお釈迦様の言葉が出てきて、それを神話的に解釈していくわけでありますが、仏にしても菩薩、如来にしても、ただ、あるがままの自分自身のことなのであります。
つまり、この、上に書いたような、しょうもない人間としての豊田君自身が、もう、そのまま、それなのです(爆笑)
豊田だけではなく、このブログに目を通しておられるあなたも、あなたの知っている人も、いや、人だけではなく、何もかも一切がそれなのであります。
石ころでもね(爆笑)
ですから、あの人が優れているとか、慈悲に溢れているとか、そういった幻想の中にあるのではなくて、ただ単の眼前の日常が如来なのです。
この如来は三千大世界に通じているわけですwwwww
しかも、この自分は、生まれたときから如来であり、いや、たぶん生まれる前も死んだあとも如来であり、仏であり、菩薩なのです。
誰でも、皆が、差別なく、そうなのであります。
どのような「人格」であろうと「本質」であろうとそうなのです。
しかし、それが、自分が自然そのものであることを認識せずに「思い」や「人格」の統制の中であくせくと活動して、苦しんだりしているわけです。
痛みではなく、心理的な苦にですよ。
それを見た釈迦が「奇なるかな、奇なるかな」と驚くのです。
最初から仏、そのものである、全宇宙である人間が、そのことを知らずに、生きている。
なぜ知らないのか。
こんなに当たり前に、神仏に生かされて、ただ不動に、全世界を顕示している、全体的なる一切合切である自己が、その偉大なる姿をすっかりと忘れて、小さなこの身体のみが、自分だと思いながら生きている。
そうして、それを「無知であるがゆえに苦しむ」と言ったのであります。
縁起していることを知らないから「無知」が出てくるので、最初に『縁起』つまりは相似性について説き始めるわけですね。
何もしなくても、そこに花がある。
その花は、あなたがいて、そこにあるのだが、またあなた自身が、その花なのだ。
という、この不二である世界に、頭の分析が入って、あなたと花の相似性を分断させているのである。
ですから、法身というのは宇宙の働きのことである。
しかし、その宇宙とは、実質、あなたのことなのである。
これが、どちらか一方だけということにはならないのだ。
宇宙と人間は、ふたつでひとりなのである。
人格の優れた人がいたり、劣った人がいたりするという価値判断の向こう側に、この自然としての人間の姿があるので、そこに帰りさえすれば、すべての人に差別なく、この日常自体が奇跡なのである。
この奇跡を顕示せしめている、あなたは「人格」ではなく、その「本質」でもなく、それらを在らしめている神通力なのである。
で、あるから、この神通力の働きである、あなたは、この世界に生まれてはおらず、属してもいないのでありながら、不思議に、このひとつの体の顕現において、属せずして体感を得ているわけである。
神通力という言葉は、よく「超能力」と同じような意味合いで受け取られていますが、まあ超能力(催眠術)というものと同じではありません。
だいたいにおいて超能力と呼ばれているものは「催眠術」なんですが、この神通力というのは、その名の通り、神に繋がっているエネルギーのことなのです。
この神とは「自然」と「人」を顕示せしめている力です。
ここに繋がっていることは、すなわち、無知が滅していることなので、仏は神通力があると言われるのです。
イエスが行ったような奇跡を釈迦は見せていません。
しかし、このことを受け取る人たちは、すべてを神話化してしまい、事実としての自分自身から仏教を遠ざけたのです。
あんまりにも尊重しすぎるものだから、また、実際の事実と懸け離れた視点で描くものだから、現代人の科学とは、相容れない、空想であるとか、人間には目に触れることの出来ない、特別な修行を積んだ人だけのものだとか、また、穢してはならない、恐れなくてはならない、他にも、あーだ、こーだ。
となってしまい、まったくもって信じられなくなったか、もしくは、変な空想を膨らませるヤカラの住処にまでなってしまったのである。
実質の自分自身、つまり、あなたの心と、仏教で説かれている話は、まったく同じなのであって、謙遜したり、祭り上げたりしなくてもいいのである。
誰かが達成して、誰かが達成していないということは、ここではありえないのだ。
要するに、気がついていないだけなのだ。
では、どうやって気がつくのかという時には「自己が落ちる」しかないのである。
この自己というのは、頭の中で規定されている、自己なのだ。
そして、この自己を落とすには、どうすればいいかとなると、観察することから、始まっていくのである。
ラマナ・マハルシが指摘するように「わたしは誰か」と胸に問うことなのである。
最初は、客体化されたものは「わたしではない」と見ることである。
つまり、グルジェフさんのテクニックでもそうだが、思考、感情、本能、動作、性、の各中枢部を分類することが、自己の働きを自然に戻す、私自身に帰す働きをするのである。
この観察から、客体化している意識にまずは気がつきます。
この客体化している意識は、頭の後ろにあって遠景を映し出す望遠鏡のようなものであって、その望遠鏡に映る風景に光を与えているのが、自分自身の心なのです。
ここの部分を見るには、分類している頭を超えた意識体としての活動が、光であると気がつくことから始まります。
天の光とか光明というのは意識光のことなのです。
そうしてこの、白光、というか、透明な意志光が照らし出す、私の世界は、胸にある、私、それ自身が見せている夢「のようなもの」であると知るのですね。
客観意識の光源が、胸に眠る真我なのです!
そのあと、この胸にある私自身というものは、最初から、自我(エゴ)のコントロール下にあるのではなく、この真我自体が自然の一部、神の一部であると知ることなのです。
なんと向こう側から、最初っから、あるのです。
なにも努力しなくても、あるのです。
そこから目の前にある風景を見ると、なんと、風景の側が最初にあるというのです。
最初から、そこにしかいなかったのであり、その変幻無限の自然の側が、あなたを生きているのであり、そこに『差別』はありえないのです!
あなた自身が、仏なのだから!!!!