豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

善いとか悪いとか言うけれど

2015-03-26 07:18:29 | 日記
・妻の『ダラックマのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。

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おはようございます。

今日は6時15分に目覚めました。

寒さに耐えながら洗面をしていると妻も起きてくる。

この生活パターンも、そろそろ1ヶ月。

洗面している横で洗濯機を回そうとしている千鶴さん。

ポケットに物が入っていないかチェックを要望される。

洗面を終えると座禅を15分。



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どうも気が抜けて背中が丸まっていたりする。

慣れてくると、どうしても気が抜けてくる。

その度に仕切りなおすのだが、今度は、妄想の世界に入る。

それでも朝、最初に座禅をすることで自分を思い出せる。

座禅を終えるとコーヒーを淹れる。

千鶴さんが「先に着替えをしておいたら慌てなくて済むんじゃない?」と言っていたが「そうだねー」と言いながら、そのまま玄関先へ。

太陽の光は明るいのだが、風が冷たい。

目の前にある樹の花が咲いている。

小学生の頃からある樹なのに、名前を知らない。

新鮮な朝の空気。

煙草に火をつけようと思ったが、ライターがうまく点かないので、本を読みながら、家へと一旦入る。

で、読書を終えて、ブログ更新です。


毎日書いてくると、どうも、アイデアに詰まりますが、何があるだろうか。


評価についてですが、つまり、良い悪いという判断はルールや常識、道徳、法律、習慣等々によっては決まりません。

もちろん、そうやって、今あるルールは守らなければいけませんが、だからといって、そのルールは宇宙の法ではないのです。

人間の関係性、つまり、自己と他者の必要性、社会から生まれたのが常識です。

しかし、宇宙の法というのは、出来損ないの、どうしようもない「だめま」にも、厳然として差別なく働いているんです。

縁起というのを因果と捉えて、いいことしたから、いいことがあった、悪いことをしたから罰が当たったとか言ってみたり、最初から物事は決まっていると言ってみたり、している人がいますが、そんなものは頭の世界から見ているから、そうなるんです。

目の前に自然があって、それが現生しているのは、私があるからである。

これは「いい、わるい」は関係ないのです。

そして「神の意志」とか「因果」の流れもないのです。

つまり縁起自体には「時間の流れ」はないので、ああしたからこうなったという意味ではないんです。

これあるによって、これありですからね。


まあ、僕の解釈ですから、違うかもしれません(笑い)


何が言いたいのかというと、良いことをしようという考え自体が悪いことを想定している分別なので、そんなもの自体を放っておくということが、悟りなのだということです。

何もしない。

そうして今、目の前にある自然が、自己である。

ここに線を引いているのが、自我なのだ。

命が全体に開花している中で、いいもわるいもないのである。

あなたは、最初から救われているのだ。

この世界において、自然にリラックスするには「頭の判断」をどうしても一回、落としてしまわなければならないのである。

気がつくために、一度、生まれたままの自然に戻ってみることだ。

ただ、こころとからだの力を抜くことなのだ。

人間は球体である

2015-03-25 07:17:47 | 日記
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おはようございます。

今日は6時ちょいすぎに起きました豊田です。

寒くて鼻水出てくる中、洗面をします。

妻(千鶴)も起きてきて背中を頭でゴンっとしてきた。

まあ、だるいので生返事。

洗面終えて座禅を15分しますが、集中力に欠ける。

心配事、不安が、霧をかける。



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悩み世界というか、妄念世界の引張りが、どうも強かった。

心の重みを空っぽにしないと、中々、難しいところがある。

座禅を終えるとコーヒーを淹れて、玄関先で読書です。

たばこもいつものごとく吸っているのだが、喉が、ちょっと炎症気味で気になる。

風邪かもしれない。

家へ戻って千鶴さんに朝食をお願いしてからブログの更新であります。

彼女も今朝、更新したみたいなので、よかったら読んであげて下さい。


さて昨日はすごい空想が湧いてきました。

それは人間は球体であるという空想であります。

まるで地球のような惑星体なのです。

これは、すごいと思って、インターネットで検索してみると、プラトンが『饗宴』という作品の中で、このアイデアを先に使っていたようだ。

ちっ、さすがはギリシア哲学だ。

まあでも、彼の概念は、人間は球体だったが、神に半分にされて、男女に分かれた。

それで、その半身を探しているのが恋愛だ、みたいな感じらしい。

が、フッフッフ。

この僕が見たのは、そんなもんじゃあ、あーりませんよ?

心が世界を作りだしているというのは、真我の光、つまり心の力が、頭部の反射鏡に、つまり目覚めた意識に反映されて、まるで対象のように、自己の反映を見ているわけです。

まったく同じ場所にいるにも拘わらず、風景の側が、あっちからやってくる。

1ミリも動いてないようだ。

が、不思議に、この世界の奇跡が現前しているのは、なぜだろうか?

と、考えていたのです。

この心の中の、つまり、内部の宇宙というのは、円形ではないかと、閃いた。

実際、意識の鏡、後頭部の鏡は円形だし、心も、○だから、○が段々と縮小、または拡大していることで、世界と自己が現前しているのだ。

しかしこの○の外側がある、この、外側というのは、前から書いている背中の世界ですが、この背中の向こうの空間というのは、感情体のある場所だ。

この感情体の宇宙、つまり、別次元の宇宙から、この宇宙の螺旋というのか、○移動というのか、公転というのか、そういう、運動を見ると、球体ではないのかという疑問が出てきたのであります。

つまり、我々は普段の意識では、人間は、ここのこの形であると思っているが、実際は宇宙空間における太陽のような恒星なのではないだろうかということである。

この宇宙空間は、現在の宇宙の別次元、つまり不可視の宇宙空間。

感情の世界の宇宙空間である。

が、この不可視の宇宙空間は、実質の力としては、可視の宇宙空間よりも強い。

この背中から繋がっている空間において、気力と言うものが伝導しているのだ。

ここにおいて清々しさ、つまり、光を増すには、心→頭→世界の流れを明確に把握した上で、光が心から投射された、現行の『天』より降り注ぎ、自分の心の霧を霧散させるということをするといいのである。

これは心を空にして、エネルギーを、そこに満ちさせることだ。

それを齎すのは、意志だが、この意志というのは単に「清々しくあろう」という思いである。

清々しさだけが、この空間で力を持つのだ。


と、まあ、今日は空想炸裂でしたwwwww


でも、ある程度の人が読んだら興味深いこともあるかも? ね?

南無阿弥陀仏

2015-03-24 07:31:46 | 日記
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おはようございます。

本日は6時15分に起床しました。

昨夜、千鶴さんと言い合いしていたので、気分が優れません。

洗面しているとヌッと現れたのですが、まあ、特に反応せず、笑

座禅を15分している間も、どうも、この重い気を相手にしているような感覚で、どうしたものかと思っていた。

その後、玄関先で読書ですね。

コーヒーとたばこは、いつものごとく、自分を落着かせます。



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家へ入ると千鶴さんが作ってくれた朝食をいただきました。

ハムと目玉焼き、味噌汁、御飯。

まあ、朝御飯は作ってくれるから、感謝しとくかあ・・・・・・。


で、ブログの更新であります。

出勤までの時間がありませんので、慌てている訳ですが、何かあるかな。

そうそう、さっき本を読んでいて『阿弥陀』というのは、命の事なのですね。

つまり命の世界です。

よくお寺の看板なんかで『命を大切に』とか書かれていたりしますが、この命の事を阿弥陀様と言っていたのです。

ですから、南無阿弥陀仏とは、命の仏様に帰依しますという意味でしょう。

いや仏様の命に帰依しますという事だろう。

ですから、これは『自分自身に帰ります』という意味かもしれません。

生まれてからずっと人間やっているわれわれは、もはや、命である事を忘れているのでありますが、その、生きている自分、そして世界という全体性の、全一の命に帰る。

そうすると、その開かれた世界の中で、何があっても、それは与えられたものである。

けんかして怒ったり、褒められて喜んだり、何があっても、それは命の発露なのであるから、最初から、この命を仏様が生きている訳です。

ですから南無阿弥陀仏というのは、すごく明るい言葉なわけですね。

私を投出して、仏の命に帰る、まあ、消えうせるという訳ですから、これはインドなんかで言う神への明け渡しと一緒の意味です。

個人というものは、小さなちりのようなものですが、そのちりも、仏様の世界に投出されてしまえば、一三千大千世界の命を生きている訳で、この、事を、もう、昔の日本人は、みんな知っていたんだろう。

生きている事、命が、尊い。


こういった事は、自己改造とは関係ないと僕はさんざんに思うのです。

改善ですね。

とにかく、ああすれば幸せになれるというのは『嘘』ですよ。

幸せになるのは人に聞いてもしかたないでしょうwwwww

自分自身であることで、自分自身が落ちる事であります。

究極的に、何をやっても、人間として生きている幸せにある訳ですね。


考え方をいじっても、無理やりの笑顔を作っても、そんなものは無意味ではないかもしれないけれど、絶対的な安心の世界には行けないでしょう。

それは条件を与えられているんです。

新しい条件、それを獄舎であるとクリシュナムルティなんかが指摘したのです。

絶対安心の境地というのは、もう、何があっても、落着いているという事です。

どこに『落ち』『着いて』いるのかというと、開かれた命の世界。

つまり、眼前の自己なのです。

自然体とは肩の力を抜くことです

2015-03-23 07:17:17 | 読者に人気の記事
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おはようございます。

今日は6時に起床して洗面、座禅15分無事に終えました。

メッチャ寒いですね。

玄関脇で煙草&珈琲を楽しみながら、読書していましたが、凍えました。

妻が洗濯物を干していましたが、背中が丸まっていたw


昨日、人気記事を纏めていて、思ったのですが、老子って、意外に人気があるんですね。

まあ、僕の記事はウィキペディアのコピーですが、、、



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一冊だけ『老子道徳経』の訳を持っていますが、まあ、あれは『タオ』の働きについて延々と書いてあります。

で、柔らかいものが強いんだ、硬いものは強そうに見えて、弱いと、そんな感じ。

で、この柔らかいものというのは、なんだと言ったら『自然』であることです。

自分が自然にリラックスできているのは、頭の中の物事が落ちて、体から力が抜け切っているような状態のことですね。

これが強いわけです、笑


昨日、朝から晩まで、嫁様と罵り合っていましが、それで、頭にきて、いろいろと考えてしまうので疲れるわけです。

そうではなくて、自然のままに、任せておく。

もう、自分でどうにかしようとしても、諸行無常は向こうからやってくるんだから、どうしようもない。

それで、自分の力だけで生きているんではない。

タオの力が、コンコンと湧いてくるところで、生かされているのだ。

と、思って、肩の力を抜いて、考えないで、好きなことをする。

この『自然体』というのは、非常に、素晴らしい考えであると思います。

さすがは中国4千年の歴史!

偉大なる人物には事欠かないですなあ。


あ、そういえば『神様とのおしゃべり』も遂に買ってしまいましたw

前から気になっていたのですが、なんとなく、これを買ってはいけないと思っていたのであります(爆笑)

読んでみたら、面白かった。

まあエンターテーメントですが、無常というのは欲とは相反しますね。

いつか死んでしまう自分自身、というのが無常ですから、それであって幸せが、ここにあるという、そこが、仏教でしょう。

グルジェフさんでも、他人ではない、自分自身が、いつ、どうなるか、つまり、死んでしまうのかは、分からないのだし、もし、常に、このことを意識できれば、クンダバファ(緩衝器)を破壊できると書いている。


いつ、自分が自然に帰るのか、今なのか、それとも、肉体と共になのか。

自然体というのは、この、自我の働きを追わないということなので、つまりは一つ一つの物事が、そこで終わっていることです。

肩の力が入るのは、記憶からくる、怒りが、恨みが、清算されないからでしょう。

そういったものは、背中に残って、自我が、足掻いて、できている。

ありとあらゆる物事は、ぐるぐると変遷しており、同じときは2度とない。


考え方の変化ではなく、見方の変化ではなく、この、私の、自分自身の変化、トータルな変化だけが、真の、自然体である。

これは、思考、感情、動作、本能の各中枢部が、すべて、高次感情中枢、高次思考中枢、性中枢という、肯定的である自己意識の参入の中で各自の、役割を果たすことであり、それは、背面の自己が立っているということである。

そして力が抜けていることなのだ。

こころとからだの力がふーっと抜けきっているのが、自然体であり、高次中枢との繋がりがある状態である。

それは『頭』で、できることではない。

自己の分析、後追い、恨み、等々が落ちていくことなのである。

いま、このときに!

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2015-03-22 10:44:59 | 日記
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