今日は東京某所にて、風水などをされている方、というか総合的にいろいろと見ることのできる方なんですが。
そのかたにサロンの感じとか、今後のことなんかを聞くことができまして。
結局、こういう精神的な領域で働く人ってのは、皆さん同じ事を言うのだな。
と思った次第。
結局、自分が安定することがすべてにつながっているのであって。
外から言われたから何かをするのではなくて。
自分の、自分で感じる方向性を見て進む感じでしょうか。
今回は、いろいろなキーワードがつながって。
「あ、自分の感じたまま、それでいいんだな。」
と思えるようになりまして、聞いてよかったと思いました。
たくさんの方に、同じようなことを言われてくると、そうなんかな、と思うところです。
趣味と実益を兼ねられる人ってこと言われましたが。普通は趣味と仕事を一緒にはできないということもいわれました。
自分の思考の基本が「自分のやりたいことで仕事ができると最高」というそういう考えなんで。
まあ、そのとおりにやっていいんだなと思えまして。
あせらず、やれることを積み上げていければいいかな、と思っております。
東京は、今回はかなり「新しい発展」のキーワードがあらゆるところに仕込まれていて。
人間は、認識できる世界と認識しにくい世界の境界に存在している「ゆらぎ」なのかな、なんて思ったりします。
そういうことを考えてしまうような。なんとも面白い感じでした。
見える世界と見えにくい世界。どちらもつながっていて、それを受け入れることで流れが見えるようになるもんですね。
モンロー研に行って思ったのが、CD聞いて、シェアするまでが体験になるんだな。ということ。
そこに集まったメンバーが体験、もしくは見えなかったことをシェアして。
互いに意見を言い合う。
それはじつは「自分以外も実は自分」もしくは「人の言葉もガイドの導き」「外にあることは、自分の内面の写し」と思えるようになっていれば、そのシェアしあうことが必要であるんだなと思うところ。
ただし、そこに愛がないとね、って事ですね。
東京変化の旅、は詳細後日写真入りでご紹介しますね。
そして、前に書いた続きでも
<まるの日圭 あの世ぶらり途中下車の旅>
さて、前回は橋のところとか、三途の川っぽいところ行きましたが。
今回はあえて洞穴の通路を見せてもらうことに。
「民族や宗教によって、なんでこうも見え方変るんですかね?」
とヘルパー先輩に聞くと
「それ自体が作られた認識だからだよ。」
というお言葉
「作られた認識?」
「もしも、君がこれから入るレストランの入り口が、流れ落ちる水の壁だったらどうする?」
「まず入りません。」
「どうして?」
「ぬれるじゃないですか。レストランに入るのに濡れる意味がわかりませんが。」
「でも、そこがレストランだといわれても?」
「滝をくぐる習慣は無いですからね。」
「君は、レストランで食事するには「普通の扉」を開けて入ると思っているが。もしも水の滝の壁がレストランの入り口だと認識している民族がいたらどうだろうね。」
「つまり、そういう認識の違いが、それだけ多くのあの世の入り方を作り出しているってことですが。」
「その人に合った方法で、違和感無くこちらに来てもらう。
そのためにはなんでもするよ。」
「それでは、人間達の意識が変化したら、そういうあの世への入り口も変化するんですか?」
「リフォームするさ。」
「そんなもんなの?」
「君らの世界だって、日々変化して、日々あたらしいにんしきが現れる。あの世もそれにあわせて変化する必要はあるし。もしくは・・・。」
「もしくは?」
「君らがこちらのリフォーム情報を先に察知してくれて、それで認識を変えてくれると一番楽だけどね。」
「じゃあ、宣伝しないとだめでしょう。」
「だから、君達みたいなの使って宣伝したりするんだよ。」
「私はあまり影響力ないですよ。」
「なんでもそうだが、いきなり増える必要はない。口コミが一番いい営業法って言うじゃないか。」
「あの世の情報も口コミですか。」
「口コミサイトがあって、君らはそこにアクセスしているようなものだよ。」
「なんか、ありがたみないですね。」
と無駄口言い合いながら来たのは洞穴っぽいところ。
奥に続く道の先に光が見えます。
実際は洞穴ではないんだけど。とヘルパー先輩。
自分の認識を開放していくと、光のもとへと到達するような感じになるそうで。
その準備段階がこの暗闇と光の世界のようだとか。
「その人それぞれに準備ということだよ。このあたりの認識は自分でいいように見ていればいいけどね。」
「そんなんでいいの?」
「君達がスムーズに以降できる世界観に合わせてアレンジするから君たちは安心してこっちに来て大丈夫だよ。」
「安心してっていわれてもねぇ。」
という感じで。
続いて、川を渡った対岸からの話は次回。
そういえば、この番組のナレーションの方、あの独特の声の方、亡くなられましたね。
もしかしたら、まるの日さん、その方にあえるかも。
「あらら、まるの日さん、まだここに来るのは、早いんじゃないですか。」なんて、言われたりして。
何はともあれ、阿蘇にお帰りなさい。
そうなると出来るだけ、お金をかけず、セミナーなり、ヨガの道場なりを探すべきなのでしょう。どうも、”みんなでやる”ということに消極的なのがいけないのかもしれませんね。これは改めるべき欠点ですね。もっと外に出ていくということが必要なのでしょうね。
御自身が求める成果とは別に、知らずに積んでいる徳も有ろうかと。ここを読んでる誰かさんの励みの種にはなっていますよ。
これも一つのヘミシンクの効用、と言ったら風呂敷拡げ過ぎですかね?