アーティチョークを食いました。
話によると、「ふきのとう」みたいなものらしい、と聞いてましたけど。
確かにちょいと苦い感じが「ふきのとう」か。
写真は、ゆでる前ですが茹でた後も同じようなものです。
しかし、私は癖になる味でして。野草系大好きなので。
結局、食後に一個全部食べてしまいました。
なんか、こういうのは体に良さそうな気がするので、好きですね。
初アーティチョークはなかなかいい味でした。
旬の時期に、ちょっと食べるくらいがちょうどいい感じですね。
さて、話は変わりまして。
「で、結局その言葉では伝わりにくいものを、もっと感覚的に伝えるものは無いもんですかね?」
「芸術を見ると、そこにすべてが含まれている場合が多い。歌、曲、絵、なんでもそうだが、何かを表現しようとする媒体に、そこに伝わりにくい世界を表現しているものがある。」
「でも、それも絵とか曲とか、そういうモノを共通で楽しめる認識がないとだめでしょう?」
「しかし、言葉で伝えるよりも、広い範囲の人々に伝える事が出来る。古代の芸術作品を見ると、その時の人々の感覚や考え方が理解できたりする。
それは、理解が先にあるのではなくて、感じる事が先にあって。そしてそれを理解するために基準を作り、それを尊びだす。」
「結局同じじゃないですか。ある特定の基準の中にある人々しか体験を共有できないというのは。」
「芸術に基準を作ると、それは基準の中にある。しかし、芸術に基準を作らず、心のさまようままにただ楽しむことができれば、そこにある素晴らしい感覚を味わう事が出来るだろう。」
「たとえば?」
「美しい何かを見て、涙を流してしまう事はないかい?」
「確かに、そういう感覚はありますね。ハートが開いた感覚の初期に、道端に咲いている花を見るだけで涙が出てましたから。」
「そう、その感覚。それが大切なんだよ。体からあふれる喜び。世界の中に自分がいるのではなく、自分が世界である事に気づく喜び。
孤独ではない、つながりを感じる安心。
言葉ではどれもその一側面しか表すことができないが。芸術作品にはそれをすべて含んでいる。」
「でも、科学の世界はどうなんです?化学式とか見ると、それは完成した芸術のようにもみえますけど。」
「それを見て、心動かされる事あるかな?」
「上手い事くっつく事が『凄いなあ』と感心したことはありますけどね。」
「なら、それは芸術と言えるのではないかな。」
「本当に?」
「生物の体を見た時は?」
「内臓の配置とか、血管の繋がりとかみるとその素晴らしさにびっくりしますよね。」
「では、それも心動かされたのなら、芸術と言えるのではないかな?」
「それ言うと、なんでも芸術で、そこにはすべてに向こうの世界的なものを表現したもの、って事になりますけど。」
「そうだよ。すべてに、それは気付かれないくらい小さなところから、見上げるほどの巨大なものまで。そこにはすべてに基準以上の何かが表現されている。それに気がつくと、素直に心動かされたりするものだよ。」
「それって、つまり、普通にこの世の中を生きていれば、向こうの世界の感覚を理解できてくると言う事ですか。」
「そう、自分の心動かされるもの、事に注意を常に向けていれば、それは次第に向こうの世界と同じ感覚となっていく。」
「じゃあ、スピリチュアルで非物質世界に行った話とか書く必要ないんじゃないの?」
「しかし、君たちは基準がないと理解できない。共通の近い基準を持つ人物のいう話を聞いて、そこから心動かされるようになる場合も多い。
だから、いろいろな話が必要になってくる。」
「でも、何が正しいとか間違いとか、そういう話題にすぐなりますけど。」
「基準があって、世の中が存在しているのではなくて、世の中が先に存在して、基準は後から作り上げられる。それを理解しておけば、何を言われてもさほど影響ないのではないかな?」
「ま、自分がどういう基準の中に存在しているかを知るのが、一番難しいのかもしれませんけどね。」
「そのために、他人がいるのだよ。」
と言う事で。
昨日の続きの話でした。
普段の生活の中で「何かに気がつく」ことで言葉に出来ない、ならないものを得ることが出来るということでいいのでしょうか?
そういうものを食べる機会も、前世の何かを思い出すきっかけかも知れませんね。^^
バカですね、空気読まないにも程がある…仕事中にこんなこと考えてるから主任さんに怒られんのかな?夜勤明けでアタマ疲れているみたいです、おやすみりやまzzz。
今度阿蘇行く時は買ってみようかな?
練習してフランス生活を楽しみたいものです。
これひとつで数日暮らせるし(^o^)
今日のお話、思いっきりハートチャクラに響きました。
涙が出ます。
やっぱり芸術やっててよかった☆
数学の微分計算のように “限りなく近づく” という表現を使うと、つまり、例えて言うならば、我々は 一つの 渦巻き銀河という囚われの中に存在していて 常に流動的な時間の流れや存在の動きの中で “静止した基準” という幻想に縋って生きているのですね。
つまり、基準と言うものは人間の “都合” であり “欲” でもある訳ですね。
しかし、その渦巻き銀河自体は、調和したものと言いますか 完成したものと言いますか、とにかく、星が生まれて最後には 銀河中心部のブラックホールに のみ込まれて無くなるという運命にあり、そこでは 銀河を形成している星々は最終的には、プラスマイナス “0” で 広大な宇宙の中の ある空間において完結するのですよね。
その生まれている 限りある時間の中において、人間で言うならば 苦しみや悩み喜怒哀楽を “経験” しているのですよね。
しかし、宇宙銀河から見れば その “苦しみや悩み喜怒哀楽” も “完結への通過点” と言うことに成るのでしょうね。
苦しみや悩み喜怒哀楽の 我意識要因となる過去生の囚われを解放するということは “完結への近道” ということに成るのでしょうね。
だからと言って早く死ぬという事では無くて、一つの苦しみからの解放ということに成るのでしょうね。
つまり、生のエコロジー的な。
誰でも余分な苦しみを生きるエネルギーに使いたくはないですよね。
だからこそ、へミシンクがあるのでしょうね。
そこで多くの気付きを得られればそれでいいのかな、と思います。
「東方不敗」マスターアジア風斎藤一人さんバージョン、面白いですねぇ。
私も会議中はそういう事考えて一人でニヤニヤしていることありましたよ。
アーティチョークは、結構食べるところ無いので。
もしも値段が高ったら買いませんねぇ、
しかし、こういうハーブ系好きなので。なんかあるのかもですね。
アーティチョークのおいしさもそうですが、感覚で得られるものが、一番いいのかな、とも思います。