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朝からまだ仮組みで始動試験をしている最中の、手作り波動スピーカー 試作零号機から流れるメタミュージックの音を聞きながら。
今日は早朝から気持ちよくガイドイラストなど書いてましたが。
早朝が一番調子いいですね。
最近は寝起きも健やかなので、朝飯前にスピリチュアル仕事、という感じでやっております。
その後、「合間合間にやればスピーカーも完成させられるかな。」
と思って、仮組みをバラして朝にボディに色を塗りまして。
重ね塗りの重ね塗りで。かなり重たくなりましたが「スピーカーのボディなんだから」と勝手に重いほうがいいと思い込んでいるので。
外もがっちり塗ってしまいました。
あえて、刷毛の筋を残しつつ塗った感じですね。
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ちなみに、私がこちらのサイトを参考に作らさせていただいております。
http://www-prius.at.webry.info/201006/article_3.html
もっと読むと、はまっている人の進化の具合を知ることができますが。
私はまずは簡単なものから。
乾くまでは別の仕事して。
庭で取れた小さなスイカを妻が切っていたのでそれを食べていたりしましたが。
小さいのにちゃんと甘く出来てましたね。
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その間にスピーカーの銅線をハンダ付けしたりして。久々のハンダだったので、おそるおそるやりましたが、固定は無事できまして。
ターミナルと銅線もハンダで固定して。
その後は乾くのを待って、そのまっまだとちょっとさみしいのでペイントして。
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通常の方々は外にフィルムなどを貼って仕上げているかたが多い中、
私はイラストで勝負。
表には私が書いて、裏には子供に書かせて、いざとなったら「夏休みにお父さんと作った」という夏休みの工作の宿題にもなるかと思いまして。
ちなみに、スピーカーユニットのついている横板の固定は、最初にエアコン用の練り消しみたいなのを周りにくっつけて、それごとぎゅっと押し込んで。
はみ出したものを取り除いて、そこに木工用ボンドを流し込んだ感じです。
本来は隙間なく合わさるのが理想でしたが。
ボイド菅か、板か、自在キリのメモリが全て微妙に異なっていて。まあちゃんと確認してなかったのが悪かったんですけどね。
板と本体のあいだには2mmくらいぐるりと隙間空いてしまいましたしね。
その隙間埋めに、エアコンのパイプ隙間埋め用の粘土っぽいのを使って、それと木工用ボンドを併用しております。
コーキングも考えましたが、一回買うとほどんど残ったまま捨てることになりそうでしたしね。
コストパフォーマンス的にこの手法でやっております。
で、せっかくなので。とスピーカーの中に天然の水晶結晶を入れてしまいました。
「最先端の波動エネルギーを使用した」というようなことが、以前波動スピーカーの謳い文句に書いてあったので(今はその記述はないかな?)、じゃあ、水晶入れてみたらなんか変わる?と思って実験。
ひとつは、オモリの代わりでもありますけどね。
早速アンプにつないで、音を鳴らしてみましたら。
まずはスターダスト☆レビューのアカペラアルバム。
いやぁ、低音がさらに効くようになってて。仮組みの時よりも音質がしっかりした感じになってます。無塗装の試運転よりも2割マシくらい。
やはり外側の塗装の影響か、板の固定をしっかりしたせいか。
で、聞き込んでいるのですが。また音が安定してない感じはありますね。
妙な周波数の音が聞こえてきたり。
でも次に流すと消えていたり。
慣らしの状態でしばし流しておこうかと思います。
まあ、手間はかかりますが、低価格で作れるスピーカーはいいもんですね。
横では今も巡音ルカのCDが流れてますが。
自然でない音のほうが妙な音が出やすいので、チェック用にも重宝してます。
アカペラだとわりと問題ありませんでしたしね。
こんな感じで設置してまして。
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まあ、試作零号機、という事で実戦用ではありませんもので。
でも、すでに次回作が頭に浮かんでおります。
このオンキョーのステレオからもつなげるようなスピーカーを作ろうと思いまして。
3mmのピンから2またに分かれてLRにできるものを作れば、アンプ内蔵の機器のヘッドフォン口から音を取れる用になりますので。
今度はサウンドホールが胴体の中央に空くタイプにしようかな、と考えております。
申し少し装飾しないと、ちょっと横から見るとさみしいですね。
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ニミッタは、有分心の内部から現れ、その有分心は心臓部にあるので、敢えて試すなら「オープニング・ザ・ハート」の4枚目のフリーフローみたいなヤツかなぁ?
分からんけど。
すべては素粒子、原子の塊でしかないわけで。
前田敦子は可愛くて、お婆ちゃんは醜いなんて、凡夫の見方でしかないわけですよね。
あと、パオ瞑想では胎児退行も行いますよね。
このCDは昨日、紀伊国屋でアクアビジョンの、見つけたんです。
集中して心が安定した”定”の状態にしやすくするために先に聴いておいて、後でアナパナや手動瞑想するのがいいと思ってます。
チャクラとかヨガのベースは、もともとヴェーダから来てるので、そこを超越していったブッダの修行の仕方に忠実であろうとする上座部の比丘は、(そのやり方を踏襲する限りは)おそらくヨガは、やらないでしょうね。
初期の頃は、クンダリーニを上昇させたようなとんでもない通力を持った人たちが、ブッダの弟子になった(ブッダ自身も最初は、ヨーガの師匠について苦行をやって、後にそれを捨てたと言われている。)ということですが、一般の庶民がサンガに増えてきたことから、まず戒律を定めて八正道や四念処の身念処からやらせたと言われています。
しかし、上級ヨガをさせたという記述は今のところ見たことがない。
やるにしても、実際に内分泌系や交感神経、脳内ホルモンに影響を与えやすいヨガの上級アーサナや火の呼吸などは、偏差を経験する人もいるようで、光のイメージの連鎖反応(ニューロン発火のチェーンリアクション)が止まらなくなったり、動悸が止まらなくなったり、身体や頭に熱が籠もりすぎたりしておかしくなる人もいると聞くので、きちんとした力量と経験のある指導者に付くのが強く推奨されるのではないしょうかね。
程度の差はあれ、ヘミシンクでも同じですね。
ヘミシンクのセミナーに出てちょっと一時期精神的におかしくなったという人を知っていますが、セミナー前に参加者のメンタルチェックをする訳ではないので、こういうことはあり得ます。
とは言え、こういうリスクは、どんなものにでもあります。
それ故に、私は独習する時は、出来るだけそれに関する本や心理学の本、脳科学の本なんかを読んだり、体験談を見聞したりして長い時間かけて徹底して情報を集めて、とことん考察しながら橋棒探渡で思考錯誤しながらじっくりと進めますね。
まぁこれが私なりのやり方。臆病なのでこれしか出来ないというのもありますけど。
だから、左脳の分析脳が強くなりすぎて、なかなか体験できないというデメリットもありますが、そこを補うのが左右脳のバランスを取るのに便利なへミシンクだと思って活用する訳です。
最近は、SAM(Spatial Angle Modulation)方式という新しい変調方式も加わったヘミシンク(?)CDも、モンロー研のホームページで売られていて、左脳用、右脳用、左右バランス脳用と3タイプあります。
これは、ロジャー・ペンローズが量子脳理論の中で主張している、脳のニューロンの微小菅(マイクロチューブル)の内部が意識の生まれる場であるという仮説に基づいて、コマ送りのような人間の時空間認識の特性に合わせてドップラー効果みたいなものを利用しつつ何らかの効果を得ようというものらしいですが、まだ良く分からない。
モンロー研自身が、MP3でネット販売していますので、「Chakra Attunement」というのを早速ダウンロードして使ってますが。
効果の程は、まぁどうなんでしょうかというところでしょうか。
こういったツールやヨガも自分の裁量で自由に試せるのが在家のいいところと言えばいいところかな。
もちろん結果に対する責任は自分で取るという覚悟で。
人生、半世紀以上生きてきますと、この因縁仮合の社会の中で出会う全ての事に対して向き合って、それを見つめ(観)つつも感じ尽くすことが出来て、気づきのニューロン発火が起こった時に8合目あたりまで行けているのではないかと感じることがあります。
富士登山なんかでもそうですが、8合目からが実際は長~いんですけどね。
でも、それも人それぞれ持って生まれた条件が違うので、どの環境が、どのメソッドが、どの順番が、どのルートが、正しい or 間違っているではなくて、畢竟、自分にとって意味があるかどうかということだと思いますけど。
と締めて、今度こそしばらくコメント控える戯論小僧。
ナレーションなしのへミシンクを聴きながら、アナパナをやるのはどうですかね? (やってみた感想としては違和感がありました。へミシンクを30分
くらい普通に聞いた後、ヘッドフォンを外してアナパナをやるといい感じでした。)
また、チャクラの開発も関係しているような気がします。だから、私は頭立ちをやったり、マニプラを
開発するナウリをやったりしているんですけど。
どうして、比丘はヨーガをやらないんですかね?
水源禅師などパオの禅師からも、まだ徹底した瞑想実践による深い体験に基づく裏づけがない内に安易に語るなときっと言われるだろうしね。
上求菩提の光が宿っている人のような気がしたから、自分の未熟なコメントを返し続けたけど、私もしばらくは、自分の周りのクソ程もある煩わしさや苦悩を題材にヴィパッサナの四念処の実践に専念したいと思うし、ブログコメントは少し控えることにするよ。
もちろん”自分なりに”。そしてもがきながらね。
同意はしてもらえないかも知れないけど、どこまで行っても結局ぐるっと回って娑婆世界に戻って関わることになる気がするんだよね。
そういう意味で私ゃ禅的かもね。(笑)
たかがツールのヘミシンクも活用するよ。
取捨選択、観念工夫しながらね。
では、犀角独歩でいきませう。
#でも、ハンドルネーム合戦は完全に私の負けを認める。
#アカンてぇ、腹よじれるがな。才能あるよ。
そうですよね、だから、私もナレーションなしの
CDで瞑想するようになりました。実は結構、瞑想歴は長くて2003年頃のブレインシンクとか持ってるんです。新作でガンマー波のやつも出てるからそれも買って。これはチベットの慈悲の瞑想でよく出る脳波らしいですけど。
中沢新一とかゾクチェンとか読んではみたんですけど、まぁ、教学は役に立たないことが分かっているから、斜め読みで。所詮は在家を捨てて出家しないと本当の仏道修行は出来ないと思いますね。
まぁ、禅とかだったら、在家でも見性までは行けるかもしれないけど。でも、仕事を持ちながらだと。
本当に人生を賭けて、悟ろうとするなら、やはり、出家しかないと思います。
その時にあなたと同じようなこと言って質問して、渇!とやられたよ。
確か、密教の即身成仏は、梵我一如と同じで、アートマンを肯定したジャイナ教に戻っているのでブッダの教えから遠ざかっているのでは?って訊いたのだったかな。
そしたら、お答えは、「あなたは、密教の上辺だけ頭で理解して本質を分かっていない。」ってね。
それから、瞑想と洞察を重ねて行く内に何となく、水源禅師の言わんとしているところも分かったように思うのだけど、今度お会いしたら、また確かめてみようかと思うよ。
時々、日本に来られているみたいだしね。また、渇!とやられるかも知れないけどね。
でも、水源禅師は、結構ぶっとんだこと言うよ。講義録には残らなかったりするけど。
天上界がヘミシンクのどのフォーカスレベルかというのは、そもそもフォーカスレベルはモンロー研のロバート・モンローが体験して作った概念であって、GWとかGHのナレーション誘導が入っているCDだと、その世界観でのエクスサイズを強制されるだけの話だよ。
ヘミシンク自体は、まるの日さんも言っているように単なる音響技術で、変性意識に入り易くするツールであって、本来はモンロー研の規定したフォーカスレベルは、モンローが体験した世界観の一つに過ぎないはず。
そんなのは、個々の意識が作り出した世界が多くの人にシェアされて共有認識されているだけの集合的無意識の世界だよ。(唯識で言えば、倶有の種子。)
だから文化的な側面が必ず入っている。
それが、意識がより精妙になっていくに従って、文化的なものや、いろんな澱が取れてより共通のものに収束していく段階の中のどこかを区切ってフォーカス(集中)して見て認識したものをフォーカスレベルって言ってるだけでしょ。
だから低いフォーカスレベル程、見え方がバラバラで、高いフォーカスレベルだと割りと単純に同じものが見える。
同じパオ式修了者でも、少しずつ違うことを言うのは頷ける。
”ヘミシンク体験だけ”で仏教的のニルヴァナまで行けるのかというあなたの疑問はある面正しいと思うよ。
これだとニルヴァナの手前まで行くのさえも自分の持つ内的リソース(能力)に大きく左右されると思う。
だからこそ、プラグマティックな体験至上の状態に留まらずに、一般的な基本と応用に使える何かメルクマールになるようなものとのリンクと落とし込みが必要なんだ。(その動きの徴候は既にあるように思うけどね。)
井筒俊彦なんか読むと、それは仏教に限らずイスラム教のスーフィーとかでも可能なんじゃないかと思えてくる。
今度、水源禅師にぶつけてみたいと思ってるけど。
長文書くきっかけをくれてありがとう。
所詮、パオ式終了していない凡夫の”戯論”と思っていただいて結構。
#しかし、ゆきりんナラテボー って思わず吹いてしまったではないか。HNも対抗したよ。
チベット密教もそう。やはり、別物と考えた方が。
例えば、フォーカス35をアーラーラ仙人のそれと結びつけられても。まぁ、モリケンさんなんかは道教の体験もしているから、リンクするといえば、いえるかもしれないけど。
http://www.amazon.co.jp/dp/4333023041/
事故によって全身麻痺の障害を負った青年が、失意の日々ののちに気づきの瞑想とであい、実践するなかでえられた心の自由。「体に障害があっても、心に障害を持つ必要はない」と気づいた時から彼の人生がどのように変化したか、彼の変化によってまわりがどう変化していったかを生き生きと伝えてくれている。
彼が出演したタイのドキュメンタリー。但し、タイ語。
http://www.youtube.com/watch?v=TaHynFqgkJA&feature=youtube_gdata_player
この辺りは我々、素人があれこれ教学を持ち出しても何にもならないでしょう。実際にパオメソッドを修了していないんだから。しかし、どうして、修了した四人の方はみんな、独立しちゃうのか?ということなんですよ。私は修了後も自分が無くなるまで
続ける人が阿羅漢になると思っています。もちろん、私が今、比丘になったって一生やったって、ニミッタは出てこないかもしれません。それでも比丘になるつもりでいますが。
あと、私、京都行きますから。色々と質問したいと思っています。レス、どうぞ。(いいですよ。)
ちょっと書き込みし過ぎた。
このブログでまるの日さんの体験をずっと読んでくると、パオ式修了者から聞く無処有処三昧と非想非非想処三昧なんかの無色界禅定に非常に似た体験をしていると思う。
だから、仏教的だと思うんだ。
では、ニルバナにいくもっと前に無くなるという"いま娑婆世界で感じている苦"をヘミシンクで無くせるのか。
それについては、まるの日さんも仏教の本を読んで、自分の体験と古典とを比べてみるつもりみたいなので、長い目で、その結果を待ってみたら?
本当に以上。
ヘミシンクなんかいくらやったって、どんな体験をしたってそれだけで、結局苦しみはやはり無くならないよと。
これは、ブッダが王宮を抜け出した後にアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタの二人の仙人から指導を受けて、無処有処三昧と非想非非想処三昧を体得したけれども、それらの無色界禅定は、一時的な集中体験であって、禅定から抜けた後には、やはり「苦」は依然として残っていたので、別の方法を探求したというのと同じだね。
ブッダは、最終的にヴィパッサナで解脱するんだけどね。
それなら、話は分かるし、あなたもヴィパッサナをコツコツやっていくのがよろしい。
ただ、ニルバナに行かないと"いま娑婆世界で感じている苦"は、なくならないというのは違うよ。ニルバナにいくもっと前に無くなるんだ。
そして存在の前提となる渇愛(タンハー)につながる無明がなくなって始めてニルバナに入ったと言えるんだ。
まぁ、私が言っても説得力ないならパオの指導者に直接聞けば分かる。いま日本にミャンマーから指導者が来てるよ。
それが出来ないので、まるの日さんに体験してもらった上で、自分にフィードバックしてもらって効果を確認して安心してパオやりたいのなら、きちんとまるの日さんに礼を尽くしてお願いなさい
(きいてくれるかどうかは分かりませんし、君が同じ体験ができるかも私には分からないけど。)
それが筋というものです。
それも出来ないなら、こんなところに書き込みせずに自分でリスクを取って日々パオを犀角独歩なさい。
以上。
まるの日さんがパオメソッドを修了させられるくらいの力を持っているなら認めますよ。まずはアナパナをやって欲しい。
結局ね、ニルバーナに行かないと苦しみは無くならないんですよ。幸福度というのはどれだけそこに近付いたかによって決まると思う。
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi12.html
好きです、これ。
そういう覚悟が出来ているなら、テーラワーダ読んで理解しろというコメントは控えた方が良いでしょうね。
相手には「自分なり」を許容しないということになりますからね。
スマナサーラ長老もいっているように医療というのは金儲けなんです。特許があるから、最初は高額になるんです。その結果、貧乏人は治療を受けられない。
違いますか?
無常も無我も苦も思い通りにならん。それを思い通りにいかそうとするところに苦が生じる。そんなのいわれなくても分かっています。例えば、今日も
俺は阿波おどりにいって浴衣ガールと来てる奴を見て嫉妬を抱きます。でも、不浄隋観で見ていくと
そいつらもいつかは別れるんだな。(笑)
だから、不浄隋観の瞑想さえ出来れば異性に対する欲はコントロール出来るといえるね。日本ではなかなか出来ないけど。前にもいったけど、俺は俺の
波羅密があって、俺なりにやっていくしかないんで。謝るって何を謝るの? 具体的に指摘してよ。
書いているのは批判までであって誹謗中傷などしてないぜ?
意欲なくなったら生きている意味がないですしね。(^^)
執着が全ての元凶である、とは多くのスピリチュアルなことをやっている方々が書いておりますし言っております。
私も、さもありなん。と思いますが
しかし、執着もまた、世の中を動かす原動力にもなりますので。
「執着がダメ!」
となると、否定形でまたちょっとずれて行きそうな感じにもなりそうなので。
「自分が世の中を動かそう」と思うのであれば、執着と上手に付き合っていく間合いを自分で学ぶことも大切だと思います。
家族が結核で亡くなった、だから勉強して、結核をなくす薬を開発した。
という場合は、執着から発生した理由付けによって、世界を救う事にもなっている訳ですから。
全てにおいて「間合い」が大切で。それを知るには、やはり人との接触であり、意見交換であり。
人と人との間合いが、そのまま自分の執着にたいしての間合いだと私は思っております。
そこに現れて来る現象を、全て「自分の内面」として一度見てみると、新しい側面が見えて来る気がしますね。
ブログのコメント欄の限界だとおもいます。
そうであったとしても、それでも自分のこころの扱いは「犀の角のように独り歩んで」実践していくしかなくて、誰も代わってやることは出来ないんですね。
扱い方を学んだり、話を聴いてもらうことは出来てもね。
また評論家になってますかね?(^_^;)
どちらか一方がなくなることはありません。
外側で起こる事に反応したとき、どちらを選ぶのかは自由だと思います。
このままではいけない、良くして行きたいと行動を起こすのはいいことだと思います。
「相手を叩き潰したい、罪悪感でいっぱいにしてやりたい」「あなたを大切に思う、だから苦言を言う」どちらの意図からおこすのかも、自由だと思います。
自分での内面で起きてる結果を、現実として見ているので、どちらも大切なプロセスだと思います。
それに対しては、拒絶せず受容して、そういうことあるよね~というように自分で接していくということですが、正に自己カウンセリング的なアプローチが必要なんでしょうね。
なかなか難しいですが。
"苦"があてはめられた原語の「ドゥッカ」は、"思い通りにならないこと"、"自己の欲するままにならぬこと"という意味であって、決して"苦しい"という意味はなかったのです。
(苦しいというのは、感受した後の心の反応に過ぎない)
だから一切皆苦も、原語では、サベー・サンカーラ・ドゥッカ = 諸行苦又は一切行苦= 人の生き方を含めて世の有様は、自己の欲するままにならない。が正しい訳です。
物事は移ろい行くもので常に変化している→それに対してそのまま変わらないでいて欲しいと執着する→しかし当然ながら自己の欲するままにはならない→結果、苦しみが生じる。(諸行無常)
人間も物事も独立して存在しているのではなくて相互依存の関係性の中で存在が成立している。→それに対して自分の想いだけで物事が変わって欲しいと執着する。→でも変わらない。→結果、苦しみが生じる。(諸法無我)
だから、人生の苦のもとは執着であって執着を離れれば、苦は消えて行く。
苦は、実在するのではなくて執着という因が世間の縁に触れて、それを拠り所として心の中に現れる泡ぶくのようなものである。
執着を離れれば、苦を成り立たせる原因はなくなるので消滅する。
これが、苦、集、滅、道の四諦の法門。
そういう制約条件の中でも、人生何かを達成出来た時には、喜びが生じて楽しくなる。
何時の間にかつまらない執着も離れている。
こんな構図ですね。
こんなささやかな苦の輪廻の解決の積み重ねが、より大きな輪廻の解決につながるのではないですかね。
だから、ブッダは、決して生きることは苦しみとは説いていなのです。
説いたはずが無い。
ただ、指摘させていただきたいのですが、子供が成長するする過程で一切何も教えず、間違ったことをしても叱らずに育てた場合、どうなるか想像するのは容易いでしょう。
その人の為にならんのです。
味噌も糞も区別がつかない方を放置しておくのが、スピの“愛”というならば、もう彼がどんなに馬鹿げたことをしても放っておくべきなのでしょうね。
もしどうしてもとおっしゃるならば、ジローさんがブログをつくられて彼にコメントを書かせ続ければ良いのでは?
自分なら嫌ですけどね。
毎日、一生懸命ブログを更新して、このようなコメントが書き込まれてゆくのは。
意識の深い所で、その人の許せない部分に、自分の許せない部分を投影しているのではないでしょうか?
そして大抵それは自分の親との問題や、現在の家族との問題だったりします。
あるがままを許せないと思うことは、その人の出来事を通して、自分では気付かない何かを見せてくれているのではないでしょうか?
しかし許せない自分でいることは悪い事ではないですよね?良い人だけの自分でいようとすると、悪い自分がいることを否定してしまいます。
良い、悪い、宇宙はあるがままを受け入れてくれています。
許せない自分を認めて愛してあげる。
自分を癒すことが出来たとき、他人のあるがままを受け入れることが出来るのではないでしょうか?
今どんなに荒れていようと、どんなにどん底でいようと、人を憎んでいようと、大切なプロセスではないでしょうか?
君の嫌いな「イジメをする者」と同じ心理構造と同じってことにさ。
ここは君のブログか?ツイッターか?
語りたいなら、自分のブログをつくりな。
客観性を身につけるべきだと思うよ。
“大人”だろ?
とにかく、まるの日圭さんとブログ読者の方には一度謝罪するべきだと思う。
教えていただき
ありがとうございます
m(_ _)m
部屋にすごくマッチしてますね
教えていただいた
サイトも覗いてみます
o(^-^)o
スピーカーは、手を入れて良い音にしてください。
あくまで、自分にとっての音ですが。
お嬢さんの彩色も、いいですね。
家族みんなで、一つのモノを作るのは、良いですね。