今日は子供と近所の物産館に言ったら、ドクターフィッシュって言うんですかね?
あの足の角質(確執って変換された)を食べてくれる魚ですが。
あれが居て、体験できるというので、我が子とやってみました。
はだしになって、水槽に足を突っ込むと寄ってくるわ寄ってくるわ。
我が子のほうはあまり角質が無いのかあまり行きませんが、私の方にはわんさか寄ってきて。
足中魚にやられてました。ピリピリした感じがいして、こそばいい、という感じでもない感じ。不思議な感覚でしたね。
で、正直何も期待していなかったのですが。
5分間足をつけていただけで足が軽くなった感じがするのです。
「足が軽くなるくらい、そんなにいっぱい角質を食べられたのか?」
なんて訳はまりませんが。
そこの人曰く、血行が良くなるのでいいらしいということ。
古代クレオパトラも用いたというお魚らしいですが、なんでも美容の話は「クレオパトラ」と言ってしまえばみんな喜ぶと思っている感じもしますけど。
弘法大師の温泉!と聞くとありがたい気がするのと同じ効能かと。
まあ、そういう宣伝はさておき、効果は確かにあるので面白いですよ。
お近くにある場合はぜひご体験を。
顔をやってもらうと、たぶんつるつるになるんじゃないですかね。
妙に足の皮膚がつやつやしてますので。
さて、最近のヘミシンク体験、妻にも「最近探索してないの?」と聞かれますが。
最近の探索はちょっと文章化しにくい世界に入ってきておりますので。
どちらかといと禅問答系。
向こうからの情報は、ダイレクトなので。そのまま書くと凄い誤解を受けたりしかねないので、文章にできないところあります。
昔の人が「口伝」で宗教的教義を伝えたってのは良く分かる感じしますね。
たとえ話にするか、直接会って話すしか上手い事伝えられないですしね。
たたえば、今の自分が見ている世界がすべて「幻想」であるという話をすると、たぶん半分くらいの人が「自分の人生ってなんなんですか!」という話になりますので。
そのあたりも誤解無きように話さないといけなくなりますが。
たとえば、PC使って「あの人が好き」と書いてプリントアウトして、冷蔵庫の正面の壁に貼りなさい。
という命題を出されたとします。
その時、まず何のPCを使って、何のOSを使って、何のプログラムを使うか、というところから人それぞれ違ってくるわけでして。
さらにフォントは?文字の大きさは。使う紙は?
そして、プリンターの大きさは?インクは何色?
とか、いろいろと個人で差が出てきます。
そのうえ、冷蔵庫の何処に貼るのか。ノリかテープか、磁石か。
そして、どの冷蔵庫に貼るのか。
考えただけで無限です。
たまたま、NECのlavieのLL150/Wの白で、ウインドウズ7で、使っているソフトはワード2007で、出した文字がフォント15の黒で、明朝体で、プリンターもHPのやつで、冷蔵庫も日立のやつで。
と、まったく同じものを使って、まったく同じものをプリンターで出した人が数人いたとします。
そうなると、「その人達は同じものを感じて書いたのだ!」
とはたから見ると思われそうですが。
しかし、頭の中では「あの人」という好きな人を思い浮かべていたりするわけです。
すると、作業過程では全く一人ひとり違う世界を用いてその仕事を行っているようになります。
頭の中に存在する自分にしか分からない世界で世の中を見て。そこで自分の中でしか判断できない要素で判断して。
自分にしかできないもので書いてプリントアウトして。
自分の感覚で判断して張り付けたもの。
が偶然、第3者の目でみると「同じ結果」になった場合。
その人達は同じ事をしているとみなされる場合がありますが。
私が言いたいのは、その結果だけを見て判断するのが幻想であり。その過程でいろいろと考えている事自体もそこに存在しない幻想であり。
なんてことを考えると、世界のあり方をなんとなく感じてしまうのではないかと。
いままでは、その「出た結果」ですべて判断されていたものを、その「過程」をもってして判断する必要も出てくるのではないかな、と思うところ。
今回の命題で「PCはマックを使うとちょっとアヤシイ人に見られるかも」という概念があったとしますと。
マック使いが激減したりするかもしれませんよね。
人の思考に、「概念」、という枷が付くと、そこで人の選択肢は限られてきて、ある意味同じ結果を導きだす人が増えてきます。
その同じ結果を出す人を多くする事。これが「常識」とかそういう事なんかな、と思ったりします。
あ、別に常識を批判しているわけではありませんよ。それに、マック使いの人を非常識と言っているわけでもありませんよ(笑)。私もマック製品使ってますしipodですけど。
それはともかく。
同じ結果を見て安心するのが人間なので、ついつい、その「枷」を自分で増やして、周りに置いて、そして人生を過ごしているのですよね。
そういう自分の作った枷。
それに気付くには自分がそれを実感して、体験する必要がありまして。
その過程を知るのにもいろいろな方法もあります。
その1つが「ヘミシンク的プロセス」となってきまして。
自分の枷は何かな?というのを自分の今の生以外から発見したり。
ガイドとのやり取り、非物質世界とのやり取りで学んだり。
現実世界での人とのやり取りで体験したり。
自分が作った「枷」というのは、自分の周りにいる人とのやり取りで、すでに表に出ているモノだったりしますからね。
それに気付いた時。
たとえば、自分では素敵なネックレスだと思っていたら。
隣の人が「その重りのついた鉄の首輪は思いでしょう?」と言われたら。
その本人は激怒するか、がっかりするかだと思います。
そこで自分が首に付けているものの本質に気付いて。それをどうにかするか、そのまま受け入れて人生を過ごすか、
その選択をする事になると思います。
それが、スピリチュアルとかそういうものの本質で。
霊的な現象とか、ガイドとか、過去生とか、そういうものはそれを知るための1つの現象と思うと、それほどたいそうなものでもなくなると思います。
その現象に意識を集め過ぎると、その現象に依存する事にもなりますし。
って、書いているうちにだんだんいろいろなネタに発展しそうになってますが。
まあ、最近の探索ってのはこう言う感じになってきていて、その「本質とは?」という感じの探索になっております。
ガイドとの対話もそう言う感じ。
ハイアーセルフとガイドの違いも、それも自分で作った枷だったりしますので。
その自分の「枷」を見て判断して、それから自分で考えて、行動して。その結果から次の行動をまた考えて。
まさにISOのP・D・C・Aです。
それを押さえておけば、ヘミシンクでも瞑想でも、宗教でも、その先に到達することは可能だと思いますね。
常に前に進む。少しずつでも、にじるようにでも先を見て、意識をそこに留めない。
これが私の出した、体験を進める最善の方法でもありますかね。
ま、興味のある人はISOの本でも読んで。
会社で嫌々やっている人は(私もそうでした。もう叫びたいくらい。)「これも人生を前に進める1つの知恵か。」とそのプロセスだけを学んで。
サラリーマンでもヘミシンク。
自由業でもヘミシンク。
公務員でもヘミシンク。
って感じで、自分の仕事と生活と、趣味と、すべてを上達させる基本を用いれば、仕事もヘミシンクも上手い事いくと思います。
なんでも基本は同じですから。
スプーン曲げでもエスパーカードでも同じですね。
それを特別視して「特殊な能力がないと、向こうの世界とアクセスできない。」と思ってしまうと、ちょっとそこから「枷」が新たに加わって、誰かにその枷を指摘されるまで気付かない事になってしまいますので。
だんだん、スピリチュアルな人というのはその「枷」を作らない生き方をされていく人なんだろうな、と思います。
私はまだまだ、そういう感じではないですけどね。
<8月>
『第二回全日本ヘミシンク独学者の集い』
癒しのひととき~ ヘミシンク&ヒーリング ~
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今年はヒーラー大集合!!去年とまた違ったメンバーですよ。
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なので、よりディープになってくるというか。
で、人に話すには共通の感性が無いといけませんので、それを探しながら話すような感じになるかと。
難しいものですね。
たとえれば、枷という ”心身の角質” を取って 心身ともに すべすべになりたいものです。
つまり、師が弟子の立ち居振る舞い、何を言わんとしてどういう言葉を使ったか、何をしたかを総合的に判断するようです。
例えば達磨大師から弟子への継承は「自分が悟ったことを言って見ろ。」と言われた弟子の一人が一礼後立っていただけで「お前が私の後継者だ。」と言われたそうでしたから。
長々とコメントしてしまいましたが、要は「直接接して情報を意図と共に受け取らなければ、それを言葉で他者に伝えようとする時に歪みが出る。だからヘミシンクで接した存在から貰う情報はC1で言葉では伝えられない。欲しければ自分で直接接触して自分で頂こう。」と言うことでいいのでしょうかね。
…かく言う私は未だにそうした形の接触を一度も記憶に残してはいないのですが…。
効果があるのですかね。
ま、気持ちの問題でもありますが。
良いと思えばいいのですね。
そういえば、弘法大師の湯というのは、全国どこでもありますね。
弘法大師が来たという、伝説もたくさんあります。
弘法大師という方は、健脚だったのですね。
あと百年もすれば、まるの日さんが入った湯とか、まるの日さんゆかりの里、まるの日さんが座った石なんていうこともあるかも。
じゃなかろうか、などという杞憂を
吹っ飛ばしてくれました。
まるの日さん、ありがとうございます。