さて、明日くらいにはついに本が出るので、その話をしておきます。
自分の書いた本ですから、宣伝しないといけませんからね。
「誰でもヘミシンク3 あの世の会いたい人に会える本」 まるの日圭 著
ということで、私の本もついに3冊目。今回は、実は当初あまり書く気のなかった「あの世」の話ですね。向こうの世界、あの世の話は、古今東西、それこそ“腐るほど”出ていますので「今更書く必要ないだろうなあ」と思っていたのですが。
まあ、ヘミシンクきいて、向こうの世界に行った男の体験記を書いておくと、他の方の参考にもなるかなあ、ということでまとめてみた次第です。
今回は現実世界でのレトリーバルのリアルなやり取りなども載っていたりして。
ちょっとこれまでの本よりもリアル感(向こうの世界の話がリアルなのか?という突っ込み来そうですが)があるかと思います。
「怖くないあの世の話。」という立ち居地なので、怖がりな人にもおススメ。
あの世が、「ちょっと電車に乗ってすぐそこ」、みたいな、身近に感じていただけるといいかなぁ、と思います。
向こうの世界に移動した人が、みんな悪い人になるような昨今の怪談話は苦手です。
生きている人も、死んだ人も、同じ人間ですから。
みんなで仲良くしたいものですね。
さて、今日のヘミシンク。
今日は瞑想しかしておりませんで、ヘミシンクは昼寝の時に聞いたくらいですね。
瞑想、といっても、かなり迷走になってますけどね。
こうやって、雑念にまみれて、そして訳の分からないストーリーが流れていくのを見ているのも面白いものです。
グランドゴルフ場で、穴の中に落ちたらそこから繭になって出てきた話とか。
巨大な人の話とか、
まったくストーリーも何もないようなものも頭をよぎっていきます。
まさに起きて夢みているような感じですかね。
でも、「これも瞑想」と思ってやっていると、その雑念の流し方が分かってきますので。
自分の内面の整理にはもってこいだと思います。
「夢は経験で得られたデータを整理している」という話もあります。
ならば、瞑想で出てくるイメージも同じと考えると、雑念の海に流されさえしなければ、夢を見ているのと同じ効果が得られるのかなと思います。
混乱した頭脳を、整理するためにも瞑想。
朝の10分、5分でいいので心静かに瞑想していると、それだけで仕事の能率もあがってきますよ。
パソコンで言うと、メモリーがとハードディスクがいっぱいに作動している状態だと、新たなプログラムを立ち上げて作業せきませんよね。
画像処理ソフトを2,3立ち上げるといっぱいいっぱいになります。
でも、メモリーの空き領域を確保して、ハードディスクの整理もすれば、さっきまで使えなかったソフトが動き出したりします。
瞑想には、この整理するという意味合いがあるのだと思いますので。
忙しい現代人の脳内リフレッシュには、瞑想はおススメです。
瞑想、というと仕事サボっているような感じがあって、抵抗があるという方は 「脳内メモリーの最適化を行っている」と言ってみるのもいいかもしれません。
モノは言いようです。
まあ、そんななかで、大して面白くもないかもしれませんが、雑念の海から生まれたお話しを一つ。
瞑想中にストーリーが流れていったものです。全般的に、私の場合はそこの映像が見えている感じなんで、言葉にするとちょっとしょぼいかもしれませんが。
【石の神様】
ある山の中、街道沿いに一つの石像がありました。
それはもともと一人の神が横になって寝ている姿なのですが、長い年月を経て、今はすっかり苔も生え、その姿も四角い石のようになってしまっていました。
でも、毎日その前には、近くの湧き水を入れた器と、お供え物が供えてあります。
近くに住む若い娘が、その石像にお供えをしていたのでした。
雨の日も、風の日も、石像にお供えを欠かさずに。
ある日、娘がいつものようにお供えを持って石像の前にくると、そこには見慣れない男が居ました。
髭と髪の毛を不精に伸ばしており、まるでさっき山から下りてきたかのような姿をしております。見た目が少し恐ろしく感じたので、娘はお供えを持っていく足が一瞬止まりました。
しかし、その男の様子を見て驚きました。石像に腰掛けて、お供え物を食べているのです。
その様子を見た瞬間、娘は大声を上げ、男を突き飛ばしました。男はいきなりの事で面食らっています。
娘は、この石像は神の像で、毎日ここにお供えしているのだと、激しい口調で男に言いました。男は悪びれもせず、「ハラが減ったんだ。石がモノを食えるわけではなかろう。少しくらいいいではないか。神というのならば、俺がすこしくらいお供えを食っても文句は言いまい。」と言います。
娘はその言葉にも怒り、男を睨みつけてから、あたらいいお供えを置いていました。
男は自分に対する気の強い態度や、器量のよさに惹かれて、この娘をすっかり気に入りまして、そのまま娘の夫になることになりました(一応、大人の童話ですが、夫となる経緯はオトナの想像で補ってください。)。
娘は子供を身ごもりましたが、毎日のように神の像にお供えを持っていくことは欠かしませんでした。
男は、山を切り開いては畑を開墾し、山を歩けばそれなりのものを持って帰り、猟にでればそれなりの獲物を持って帰るので、二人で暮らすには何の不自由も無い生活をしておりました。娘も、一人で暮らしていた頃より豊かな生活になってきたのです。
最初の印象からは感じられなかった、この男の細やかな心に気がつきまして。娘はすっかり男との生活に、満たされるものを感じております。
ある日、男は娘と石像の元へ行きました。娘は臨月も近いので、男が娘の体を気遣ってお供をしてくれているのです。
男は聞きました「どうして、このような身重になってまで、この石像にお供えをするのだ?」と。
すると、娘は「神様が良いご縁を運んできたのだから。お礼をしないと。」と言って笑って言いました。
そして、二人の間には娘が産まれ、子供の世話をしている間は、男が石像にお供えを持っていくことになりました。
そして、月日が流れ。遠くの国で行われていた戦が、この国にもやってきたのです。
男達は集められ、兵隊として戦う事になりました。
山で暮らす男も、兵隊として連れて行かれてしまったのです。
残された女と、小さな娘は男の残してくれた畑を耕し、長いこと男の帰りを待っていました。
ある日、女が毎日のように石像にお供えを上げにいくと、そこに男が座っていました。
女はお供えを投げ出し、男へ駆け寄りました。
体中傷だらけ、もうぼろぼろの状態でしたが、男は女を見ると少し笑いました。
女は男を助けようと努力しましたが、男は女と会えた事で満足し、そのまま息を引き取りました。
その日初めて、石像にお供えが置かれませんでした。
それから年月が流れ、ある日の事。
その石像に、若い娘がお供えを持ってきました。
すると、石像に腰掛けて、お供えを食べている若い男がいます。娘はカッとなって怒鳴りました。
「どこに座ってんのよ。父様のとこに!」
男はその声に慌てふためいて、食べていたものを喉に詰まらせながら石像から跳ねるように下りました。
そして、男は供えられていた湧き水を飲んで一息ついて。
「墓だったのか、それは申し訳なかった。」
娘は湧き水の入った入れ物を男からひったくって、
「墓じゃないわ。父様が最初と最期にここに座っていたから。ここは父様の座なの。」
「そうか、それは申し訳ない。何しろ、ハラも減っていたのでな。」
娘はツン、として、
「そう、食べたなら先に行ったら?」
男はこの気の強い、器量の良い娘が妙に気に入りました。そこで、
「どうだい?男手がいるなら俺を連れていかないか?」と声をかけてみたのです。
娘は、じっと男を見ました。
男はニコニコと笑っています。
悪い人では無さそうだ。娘はそう判断し、男を家に連れて行くことにしました。
母親の待つ家へと。
<終わり>
と言う感じで。
まあ、短い時間で書いた話なんで、まとまりも展開もこんな感じですが。こういう流れのストーリーを見たという事ですね。
ヘミシンクやり始めて、ショートストーリー的なものが結構見えるようになっております。
過去生と違うのは、『自分の意識』が動いてない事なんですね。
今回もキャラクターが数名出てきますが、そのなかに私は居ませんので。
まあ、ちょっとした石像の小さな物語と、そういう感じです。
この話は過去から未来までつながっている内容なんですが、まあ、そのあたりは想像して楽しんでいただければと思います。
挿絵は以下の感じで。女と男の最初の出会いの場面ですね。
自分の書いた本ですから、宣伝しないといけませんからね。
「誰でもヘミシンク3 あの世の会いたい人に会える本」 まるの日圭 著
ということで、私の本もついに3冊目。今回は、実は当初あまり書く気のなかった「あの世」の話ですね。向こうの世界、あの世の話は、古今東西、それこそ“腐るほど”出ていますので「今更書く必要ないだろうなあ」と思っていたのですが。
まあ、ヘミシンクきいて、向こうの世界に行った男の体験記を書いておくと、他の方の参考にもなるかなあ、ということでまとめてみた次第です。
今回は現実世界でのレトリーバルのリアルなやり取りなども載っていたりして。
ちょっとこれまでの本よりもリアル感(向こうの世界の話がリアルなのか?という突っ込み来そうですが)があるかと思います。
「怖くないあの世の話。」という立ち居地なので、怖がりな人にもおススメ。
あの世が、「ちょっと電車に乗ってすぐそこ」、みたいな、身近に感じていただけるといいかなぁ、と思います。
向こうの世界に移動した人が、みんな悪い人になるような昨今の怪談話は苦手です。
生きている人も、死んだ人も、同じ人間ですから。
みんなで仲良くしたいものですね。
さて、今日のヘミシンク。
今日は瞑想しかしておりませんで、ヘミシンクは昼寝の時に聞いたくらいですね。
瞑想、といっても、かなり迷走になってますけどね。
こうやって、雑念にまみれて、そして訳の分からないストーリーが流れていくのを見ているのも面白いものです。
グランドゴルフ場で、穴の中に落ちたらそこから繭になって出てきた話とか。
巨大な人の話とか、
まったくストーリーも何もないようなものも頭をよぎっていきます。
まさに起きて夢みているような感じですかね。
でも、「これも瞑想」と思ってやっていると、その雑念の流し方が分かってきますので。
自分の内面の整理にはもってこいだと思います。
「夢は経験で得られたデータを整理している」という話もあります。
ならば、瞑想で出てくるイメージも同じと考えると、雑念の海に流されさえしなければ、夢を見ているのと同じ効果が得られるのかなと思います。
混乱した頭脳を、整理するためにも瞑想。
朝の10分、5分でいいので心静かに瞑想していると、それだけで仕事の能率もあがってきますよ。
パソコンで言うと、メモリーがとハードディスクがいっぱいに作動している状態だと、新たなプログラムを立ち上げて作業せきませんよね。
画像処理ソフトを2,3立ち上げるといっぱいいっぱいになります。
でも、メモリーの空き領域を確保して、ハードディスクの整理もすれば、さっきまで使えなかったソフトが動き出したりします。
瞑想には、この整理するという意味合いがあるのだと思いますので。
忙しい現代人の脳内リフレッシュには、瞑想はおススメです。
瞑想、というと仕事サボっているような感じがあって、抵抗があるという方は 「脳内メモリーの最適化を行っている」と言ってみるのもいいかもしれません。
モノは言いようです。
まあ、そんななかで、大して面白くもないかもしれませんが、雑念の海から生まれたお話しを一つ。
瞑想中にストーリーが流れていったものです。全般的に、私の場合はそこの映像が見えている感じなんで、言葉にするとちょっとしょぼいかもしれませんが。
【石の神様】
ある山の中、街道沿いに一つの石像がありました。
それはもともと一人の神が横になって寝ている姿なのですが、長い年月を経て、今はすっかり苔も生え、その姿も四角い石のようになってしまっていました。
でも、毎日その前には、近くの湧き水を入れた器と、お供え物が供えてあります。
近くに住む若い娘が、その石像にお供えをしていたのでした。
雨の日も、風の日も、石像にお供えを欠かさずに。
ある日、娘がいつものようにお供えを持って石像の前にくると、そこには見慣れない男が居ました。
髭と髪の毛を不精に伸ばしており、まるでさっき山から下りてきたかのような姿をしております。見た目が少し恐ろしく感じたので、娘はお供えを持っていく足が一瞬止まりました。
しかし、その男の様子を見て驚きました。石像に腰掛けて、お供え物を食べているのです。
その様子を見た瞬間、娘は大声を上げ、男を突き飛ばしました。男はいきなりの事で面食らっています。
娘は、この石像は神の像で、毎日ここにお供えしているのだと、激しい口調で男に言いました。男は悪びれもせず、「ハラが減ったんだ。石がモノを食えるわけではなかろう。少しくらいいいではないか。神というのならば、俺がすこしくらいお供えを食っても文句は言いまい。」と言います。
娘はその言葉にも怒り、男を睨みつけてから、あたらいいお供えを置いていました。
男は自分に対する気の強い態度や、器量のよさに惹かれて、この娘をすっかり気に入りまして、そのまま娘の夫になることになりました(一応、大人の童話ですが、夫となる経緯はオトナの想像で補ってください。)。
娘は子供を身ごもりましたが、毎日のように神の像にお供えを持っていくことは欠かしませんでした。
男は、山を切り開いては畑を開墾し、山を歩けばそれなりのものを持って帰り、猟にでればそれなりの獲物を持って帰るので、二人で暮らすには何の不自由も無い生活をしておりました。娘も、一人で暮らしていた頃より豊かな生活になってきたのです。
最初の印象からは感じられなかった、この男の細やかな心に気がつきまして。娘はすっかり男との生活に、満たされるものを感じております。
ある日、男は娘と石像の元へ行きました。娘は臨月も近いので、男が娘の体を気遣ってお供をしてくれているのです。
男は聞きました「どうして、このような身重になってまで、この石像にお供えをするのだ?」と。
すると、娘は「神様が良いご縁を運んできたのだから。お礼をしないと。」と言って笑って言いました。
そして、二人の間には娘が産まれ、子供の世話をしている間は、男が石像にお供えを持っていくことになりました。
そして、月日が流れ。遠くの国で行われていた戦が、この国にもやってきたのです。
男達は集められ、兵隊として戦う事になりました。
山で暮らす男も、兵隊として連れて行かれてしまったのです。
残された女と、小さな娘は男の残してくれた畑を耕し、長いこと男の帰りを待っていました。
ある日、女が毎日のように石像にお供えを上げにいくと、そこに男が座っていました。
女はお供えを投げ出し、男へ駆け寄りました。
体中傷だらけ、もうぼろぼろの状態でしたが、男は女を見ると少し笑いました。
女は男を助けようと努力しましたが、男は女と会えた事で満足し、そのまま息を引き取りました。
その日初めて、石像にお供えが置かれませんでした。
それから年月が流れ、ある日の事。
その石像に、若い娘がお供えを持ってきました。
すると、石像に腰掛けて、お供えを食べている若い男がいます。娘はカッとなって怒鳴りました。
「どこに座ってんのよ。父様のとこに!」
男はその声に慌てふためいて、食べていたものを喉に詰まらせながら石像から跳ねるように下りました。
そして、男は供えられていた湧き水を飲んで一息ついて。
「墓だったのか、それは申し訳なかった。」
娘は湧き水の入った入れ物を男からひったくって、
「墓じゃないわ。父様が最初と最期にここに座っていたから。ここは父様の座なの。」
「そうか、それは申し訳ない。何しろ、ハラも減っていたのでな。」
娘はツン、として、
「そう、食べたなら先に行ったら?」
男はこの気の強い、器量の良い娘が妙に気に入りました。そこで、
「どうだい?男手がいるなら俺を連れていかないか?」と声をかけてみたのです。
娘は、じっと男を見ました。
男はニコニコと笑っています。
悪い人では無さそうだ。娘はそう判断し、男を家に連れて行くことにしました。
母親の待つ家へと。
<終わり>
と言う感じで。
まあ、短い時間で書いた話なんで、まとまりも展開もこんな感じですが。こういう流れのストーリーを見たという事ですね。
ヘミシンクやり始めて、ショートストーリー的なものが結構見えるようになっております。
過去生と違うのは、『自分の意識』が動いてない事なんですね。
今回もキャラクターが数名出てきますが、そのなかに私は居ませんので。
まあ、ちょっとした石像の小さな物語と、そういう感じです。
この話は過去から未来までつながっている内容なんですが、まあ、そのあたりは想像して楽しんでいただければと思います。
挿絵は以下の感じで。女と男の最初の出会いの場面ですね。
あくまで、貧乏症の人間が見たあの世、という感じですけどね。
童話、気に入っていただきありがとうございます。
本当はもっとストーリーを詰めるべきなんでしょうけど、時間ないものでこんな、かなりざっとした感じになっております。ちゃんとまとめてみると面白そうですけどね。
Lirioさん、さっそく感想ありがとうございます。
具合が悪いのに、お買い上げありがとうございました。
昨夜も息子の夢を見ました。(最近は、よく夢で会えるようになりました。)
初めて、あちらでのことを訊いたと思います。
「あちらでは幸せに暮らしてる?」とか、
「あちらに逝ったこと後悔してない?」とか、
大きく頷いてくれてホッとしたのを覚えていました。
早く、いつでも話せるようになりたいですね。
まるの日さんみたく、常時接続が目標です。
やさしい表紙の「誰でもヘミシンク3 あの世の会いたい人に会える本」。
しかも私の愛するソニア・ショケットの最新刊と一緒にこちらに表紙を向けてならんでいます。
ああしあわせ~~。
具合がわるいのに(笑)寄り道した甲斐がありました。すぐに買ってかえりました。読みました。泣けました。まるさん、ありがとう!
まるの日さんの新刊はアマゾンに予約してあるので届くのがとても楽しみです。
石の神さまは、その橋わたしなのでしょうね。
いよいよ、本が出るのですね!親しみやすいタイトルですから、今度こそは ちゃんとウチの近所の本屋さんにて会えるといいなあ。
もしや、次回の本は、まるさんの今までの童話集だったりして??
いつもなのですけど、期待通りの結末のような感じの話ではなくても、
ストーリー自体に何となく引き込まれます。
ずっと読ませていただいています。
最初の東京の時、参加したのですけど、
ずっと話がおもしろくて笑いっぱなしでした。
これからもがんばってください。
今から読むのを楽しみにしてます。("▽"*)
楽しみです。
怖くない、あの世の世界ですか。
死というものは、人間生まれたら、必ず死ぬので、避けられない問題ですね。
丹波さんみたいに、あの世は楽しいぞー、と言われても困りますが、逆に、怨念とか、呪怨とか、祟りとか先祖の祟りとか、言われても困りますよね。
よく、霊能力者が、先祖の祟りじゃなんて言いますが、先祖と言われても、何十人、何百人、何千人、何万人もいますからね。
祟りと言われても困りますね。
ということで、まるの日さんの、新刊本を読むと、そのことが一気に解決ですね。