今年は新しい仕事をいくつか引き受けていますが、
看護学校教員養成講座で「哲学」の講義をするという仕事を頂戴し、
3時間×5回の授業をやり、今日最終回を終えてきたところです。
(みんなお疲れー
これ読んでる?)
看護学校教員養成講座というのは、
看護学校で看護学生たちに看護とは何たるかを教え彼らを一人前の看護師に育てていく、
そういう先生たちを養成するためのプログラムです。
受講しているのは、看護師、保健師、助産師などを5年以上勤めた人たちです。
条件を満たしたばっかり(20代半ば?)のような方から、
ひょっとすると私より年上じゃないかという方まで、
幅広い年齢層の方々が受講しています。
今回は久しぶりの開催らしく、東北中から40名近い人が参加していました。
この講習の中身が超ハードで、哲学や心理学など基礎分野の科目から、
看護教育学や看護学校経営論などの専門科目まで、
全部で900時間もの授業を受け、教育実習もやらなきゃいけないのだそうです。
これをこなすため、5月から12月までの8ヶ月間、ウィークデーは毎日、
1コマ3時間(
)の授業を午前と午後に受けなくてはなりません。
しかも岩手や青森など福島市外から参加している人たちは、
アパートを借りて単身赴任で勉強に打ち込んでいるのだそうです。
私は看護学校で「哲学」や「倫理学」を教えたことがありますが、
今回この話をいただいて、何を教えようか少し悩みました。
看護学校では1時間半の授業を15回ほど行っています。
今回は3時間×5回ですから、看護学校の授業をそのままやるわけにはいきません。
悩んだ末、看護学校でやっている内容を、ところどころ省略しながら再現してみせ、
同時に、なんのためにこういう話をするのか、工夫している点はどこか、
どういうところに気をつけているか、などの解説を加えていく
というスタイルで授業をやってみることにしました。
やってみるとこれは、自分の実践を振り返る、とてもいい機会になりました。
難しい言い方をすると、メタ・レベルの視点をもてた、ということになります。
実際のところ、ふだんはただ授業をしているだけで、
自分の教授行為がどういう意味をもっているかといったことをほとんど意識していません。
しかし、それを解説するために、
授業している自分を外から見つめ直してみると、
(これがメタ・レベルの視点をもつということですね)
いつもは意識していないだけで、実はいろいろな意図やねらいがあって、
あんなことやこんなことをやっていたということがはっきりしてきますし、
せっかくそういう意図でやっているなら、
もっとこんなふうにやってみたほうがよかったんじゃないか、
という発見もできます。
それにしても教員の養成というのは、それ自体がメタ的な営みですね。
つまり、教育する人を教育するわけです。
私が勤める福島大学人間発達文化学類は元教育学部で、
人間発達文化学類と名前を変えた今も教員養成を大々的にやっているわけですから、
ふだんから私は「教育者の教育」をしているのですが、
学生相手だと、なんとなくそのメタな感じが薄れてしまいます。
それに比べて看護学校教員養成講座は、看護師の経験のある人たちが、
今度は看護師を育成する側になろうとする(それもすでにメタですね)、
そのために彼らに対して授業をするのですから、
とってもメタ・メタな感じが保たれるのです(オヤジギャグではありません)。
現在私は、2つの看護学校で毎年60名くらいの看護学生の教育に携わっていて、
まあたぶん私の授業のことなど覚えていてくれる人はほとんどいないと思いますが、
それでもその60名になにがしかの影響を与えられているかもしれません。
しかし今回のように、40名の看護教員の養成に関わって、
そこでこの40名になにがしかの学びを生みだすことができたら、
そのひとりひとりが、今度はぼくの知らない何百、何千人の看護学生たちを
変えていってくれるかもしれないのです。
養成講座に参加された方々が、
看護師としてお世話することのできた患者さんの数は限られていると思いますが、
彼らが看護教員になった暁には、教え子たちを通して、
何万人、何十万人もの患者さんのお世話をすることになるわけです。
そして、私はたった1回この講義を引き受けだだけで、
その40倍の数の看護学生や患者さんたちに関わることになるのです。
そう考えると、「教育者の教育」というのは責任重大な仕事なんだなあと思えてきます。
私がもたらした変化はひょっとするといい変化ではなかったかもしれません。
私がみんなに「考えろ、考えろ」と言い続けたおかげで、
東北地方では、何かというと考え込んでしまって、
看護がスムーズにできない看護師が急増中なんていうこともありえます(うう、笑えない)。
もしもそんなことになったら、どれだけ多くの患者さんが困ることか…。
できることなら、東北地方にはなぜか、
哲学者のように思慮深く患者さんの魂のケアをしてあげられる看護師さんが多いですねぇ、
なんていう噂が聞こえてくるようになるとうれしいんですけど。
あるいは、何年後かに私が搬送された先の病院で、
「小野原先生、初めまして。私は先生に直接教わったわけではないんですが、
看護学校の先生が小野原先生の話をしてくださって、
ブログなどを拝見させていただいていました。
先生の今回の病気は○○で、ちょっと厳しい状況ですが、
私たちが先生の最期の時間にお付き合いさせていただきますので、
哲学の話をたくさん聞かせてくださいね。」
なんていう教え子の教え子の看護師さんに最期を看取ってもらえたりしたら、
それは私の理想の死に方ではないでしょうか。
うーん。まあどっちにせよ高望みだよなあ。
ぼくごときの授業で人がそうそう変わるわけないだろうし。
でも良かれ悪しかれそういう可能性もまったくゼロじゃないということを考えて、
「教育者の教育」には心してかからないといけませんね。
そして、学校教員養成の場合は、学生たちの巣立っていった先に、
患者さんの数とはケタちがいに多くの子どもたちが待ち受けているわけだから、
ただの大学生相手の授業だなんて思わないで、
1回1回の授業に魂をこめないといけないよなあ。
二日酔いで授業するなんてもってのほかだ
と深く深く反省する今日この頃でした。
看護学校教員養成講座で「哲学」の講義をするという仕事を頂戴し、
3時間×5回の授業をやり、今日最終回を終えてきたところです。
(みんなお疲れー
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看護学校教員養成講座というのは、
看護学校で看護学生たちに看護とは何たるかを教え彼らを一人前の看護師に育てていく、
そういう先生たちを養成するためのプログラムです。
受講しているのは、看護師、保健師、助産師などを5年以上勤めた人たちです。
条件を満たしたばっかり(20代半ば?)のような方から、
ひょっとすると私より年上じゃないかという方まで、
幅広い年齢層の方々が受講しています。
今回は久しぶりの開催らしく、東北中から40名近い人が参加していました。
この講習の中身が超ハードで、哲学や心理学など基礎分野の科目から、
看護教育学や看護学校経営論などの専門科目まで、
全部で900時間もの授業を受け、教育実習もやらなきゃいけないのだそうです。
これをこなすため、5月から12月までの8ヶ月間、ウィークデーは毎日、
1コマ3時間(
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しかも岩手や青森など福島市外から参加している人たちは、
アパートを借りて単身赴任で勉強に打ち込んでいるのだそうです。
私は看護学校で「哲学」や「倫理学」を教えたことがありますが、
今回この話をいただいて、何を教えようか少し悩みました。
看護学校では1時間半の授業を15回ほど行っています。
今回は3時間×5回ですから、看護学校の授業をそのままやるわけにはいきません。
悩んだ末、看護学校でやっている内容を、ところどころ省略しながら再現してみせ、
同時に、なんのためにこういう話をするのか、工夫している点はどこか、
どういうところに気をつけているか、などの解説を加えていく
というスタイルで授業をやってみることにしました。
やってみるとこれは、自分の実践を振り返る、とてもいい機会になりました。
難しい言い方をすると、メタ・レベルの視点をもてた、ということになります。
実際のところ、ふだんはただ授業をしているだけで、
自分の教授行為がどういう意味をもっているかといったことをほとんど意識していません。
しかし、それを解説するために、
授業している自分を外から見つめ直してみると、
(これがメタ・レベルの視点をもつということですね)
いつもは意識していないだけで、実はいろいろな意図やねらいがあって、
あんなことやこんなことをやっていたということがはっきりしてきますし、
せっかくそういう意図でやっているなら、
もっとこんなふうにやってみたほうがよかったんじゃないか、
という発見もできます。
それにしても教員の養成というのは、それ自体がメタ的な営みですね。
つまり、教育する人を教育するわけです。
私が勤める福島大学人間発達文化学類は元教育学部で、
人間発達文化学類と名前を変えた今も教員養成を大々的にやっているわけですから、
ふだんから私は「教育者の教育」をしているのですが、
学生相手だと、なんとなくそのメタな感じが薄れてしまいます。
それに比べて看護学校教員養成講座は、看護師の経験のある人たちが、
今度は看護師を育成する側になろうとする(それもすでにメタですね)、
そのために彼らに対して授業をするのですから、
とってもメタ・メタな感じが保たれるのです(オヤジギャグではありません)。
現在私は、2つの看護学校で毎年60名くらいの看護学生の教育に携わっていて、
まあたぶん私の授業のことなど覚えていてくれる人はほとんどいないと思いますが、
それでもその60名になにがしかの影響を与えられているかもしれません。
しかし今回のように、40名の看護教員の養成に関わって、
そこでこの40名になにがしかの学びを生みだすことができたら、
そのひとりひとりが、今度はぼくの知らない何百、何千人の看護学生たちを
変えていってくれるかもしれないのです。
養成講座に参加された方々が、
看護師としてお世話することのできた患者さんの数は限られていると思いますが、
彼らが看護教員になった暁には、教え子たちを通して、
何万人、何十万人もの患者さんのお世話をすることになるわけです。
そして、私はたった1回この講義を引き受けだだけで、
その40倍の数の看護学生や患者さんたちに関わることになるのです。
そう考えると、「教育者の教育」というのは責任重大な仕事なんだなあと思えてきます。
私がもたらした変化はひょっとするといい変化ではなかったかもしれません。
私がみんなに「考えろ、考えろ」と言い続けたおかげで、
東北地方では、何かというと考え込んでしまって、
看護がスムーズにできない看護師が急増中なんていうこともありえます(うう、笑えない)。
もしもそんなことになったら、どれだけ多くの患者さんが困ることか…。
できることなら、東北地方にはなぜか、
哲学者のように思慮深く患者さんの魂のケアをしてあげられる看護師さんが多いですねぇ、
なんていう噂が聞こえてくるようになるとうれしいんですけど。
あるいは、何年後かに私が搬送された先の病院で、
「小野原先生、初めまして。私は先生に直接教わったわけではないんですが、
看護学校の先生が小野原先生の話をしてくださって、
ブログなどを拝見させていただいていました。
先生の今回の病気は○○で、ちょっと厳しい状況ですが、
私たちが先生の最期の時間にお付き合いさせていただきますので、
哲学の話をたくさん聞かせてくださいね。」
なんていう教え子の教え子の看護師さんに最期を看取ってもらえたりしたら、
それは私の理想の死に方ではないでしょうか。
うーん。まあどっちにせよ高望みだよなあ。
ぼくごときの授業で人がそうそう変わるわけないだろうし。
でも良かれ悪しかれそういう可能性もまったくゼロじゃないということを考えて、
「教育者の教育」には心してかからないといけませんね。
そして、学校教員養成の場合は、学生たちの巣立っていった先に、
患者さんの数とはケタちがいに多くの子どもたちが待ち受けているわけだから、
ただの大学生相手の授業だなんて思わないで、
1回1回の授業に魂をこめないといけないよなあ。
二日酔いで授業するなんてもってのほかだ
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と深く深く反省する今日この頃でした。