まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.哲学・倫理学で考える際に今までの経験やおいたちなど関係ありますか?

2013-09-14 19:44:04 | 哲学・倫理学ファック
もともとの質問では哲学は含まれていなくて、倫理学のみに関する問いでしたが、
哲学にも倫理学にも当てはまる質問ですので、一緒にして答えさせていただきます。
これはなかなかいい質問ですね。
なんとお答えしましょうか。

先週、哲学や倫理学はあらゆることの根っ子の部分を問い直していく、
常識や当たり前をすべて疑っていく学問であるとお話ししました。
だとすると、その人が属している国や時代や宗教、文化などに関わりなく、
哲学的思考、倫理学的思考は可能でなくてはならないはずです。
ましてや個人的な経験や生い立ちなどに囚われているようでは、
物事の根っ子の部分に迫っていくことができません。
実際、古代ギリシアや近代ヨーロッパで考え出された哲学・倫理学思想が、
現代日本においてもいまだに研究されているということは、
哲学や倫理学が、時代性や地域性や、ひとりひとりの個別性に縛られることなく、
普遍的に誰でもが共感、納得できるような答えを探究していたということの証かもしれません。
そういう意味では、哲学者や倫理学者が思考を進めていく際、
経験や生い立ちというのは関係ないと言いたいところです。

しかしながら、実際はそんなに単純ではありません。
いろいろな哲学者・倫理学者の思想を学び、
同時にそれぞれの思想家の出自や生い立ちなどを調べてみると、
彼らの思想にそうした背景がものすごく影響を及ぼしていることがわかります。
2回目の授業でやったように、人間は文化のなかで生きていますから、
自分が生まれ育った文化に大きく影響を受けますし、
人生のなかで経験した個人的出来事によって考え方も変わってしまいます。
根本的に何でも疑ってかかるといった場合にも、
ひとりひとりの経験や生い立ちからまったく離れて、
完全にフリーハンドで思索していけるわけではないのです。

さらに言うならば、哲学や倫理学が主に対象とするのは、
その思想家が生きている時代や地域における常識や前提であると言えるでしょう。
そういったものを敵として戦っているのが哲学・倫理学なのです。
敵と戦うためには敵と同じ土俵に上がらなければなりません。
敵を批判・否定するのだから (必ずしも否定するばかりとは限りませんが) といって、
敵とはまったく無関係でまったく無縁でいられるというわけではありません。
むしろ敵といろいろ共有しないと敵と対等に戦うことはできないのです。
というわけで最先端の哲学や倫理学はその時代の最先端と戦っていますので、
その時代の影響を免れえないわけです。

そして、それぞれの哲学者・倫理学者がその時代のなかで経験したことも、
その思想に影響を及ぼさないわけがありません。
特に、広範囲に影響を及ぼすような大きな事件があったならば、
それは多くの思想家に影響を及ぼすことになるでしょう。
古代ギリシアにおけるソクラテス裁判や近代ヨーロッパにおけるフランス革命、
20世紀の世界大戦やナチス・ドイツによるホロコースト、
今世紀に入ってからの 〈9.11〉 や 〈3.11〉 等々…。
これらを経験した人たちは、みんなが同じことを考えるようになるわけではありませんが、
その経験によって自らの思索に対してそれぞれ何らかの影響を受けたことでしょう。
もちろん、そんな時代を揺り動かすような大事件でなくとも、
それぞれの思想家が自らの人生のなかで経験したさまざまな体験は、
その人の思索をいろいろな意味で方向づけていくでしょう。
したがって、今回の質問には以下のようにお答えしておきたいと思います。

A.哲学者や倫理学者の経験や生い立ちによって、
  その人の思想のあり方が一様に決定されてしまうわけではありませんが、
  人それぞれいろいろな形で影響を受けたり方向づけられるという意味で、
  経験や生い立ちはその思想に大いに関係があると言えるでしょう。