「社会思想入門」 という授業で2回にわたってカントの話をしたときの2回目のレジュメです。
先日、1回目のレジュメと資料をアップしましたので、まだ未読の方はそちらを先にどうぞ。
カントのどこが好きって、理想の捉え方のところが一番好きなので、
前回の理想と現実の二元論の話、
そして今回の、現実と理想が食い違っているときにどうしたらいいかという話、
このへんの話は自分で書いた文章にもかかわらず、読んでるとテンション上がりまくるなあ。
この熱い思いが読者の皆さんにも伝わってくれるといいのですが…。
カント②「永遠平和への道 ―国際連合の理念と現実―」
Ⅰ.カントの抵抗のしかた
抵抗権・革命権を認めず、暴力的抵抗行為を否定して、平和的手段による漸次的改革を唱えたカントですが、果たしてそのような生ぬるい方法で現実を変えていくことができるのでしょうか。カントは「言論の自由こそは国民の権利を擁護する唯一の守護者である」(「理論と実践」) と主張したわけですが、その言論の自由すらをも許さずに、検閲などの方法によって思想統制しようとしてくる絶対主義権力が存在した場合に、カントは為す術を失ってしまうのでしょうか。
じっさいカントは1794年に、国王フリードリヒ・ヴィルヘルムⅡ世から直々に、「宗教・神学に関する著述や講義を今後一切行ってはならない」 という勅令を下されてしまいました。これは平穏だったカントの人生の中でも最も劇的な、そして最も危険な事件でした。
当時のプロイセン政府はルター教会と結びついていました。フランス革命の勃発前から、フランスでの啓蒙主義運動の高まりに対抗するように検閲令や宗教勅令を発して、ドイツでの啓蒙思想の流行を抑えようと必死になっていました。これに対してカントは、理性宗教の立場を唱えて、特定の宗派 (啓示という歴史的事実に依拠する経験的宗教) を越えた普遍的な宗教的連帯の必要性を訴えていたのです。カント自身は啓示宗教を否定したり批判したつもりはなかったのですが、政府はこれを危険な思想とみなし、カントには厳しい禁令が下されました。当時の人々はカントにさらに重い処分 (禁書、解雇、投獄等) が下されるのではないかと心配していたようです。
このような弾圧に直面してカントはどう対処したのでしょうか。カントはこのような状況下でも言論の力 (説得による理性的・平和的改革) を信じたのでした。翌1795年、カントは 『永遠平和のために』 を出版します。これが禁令後はじめてのカントの公的発言になったわけですが、その中身は徹頭徹尾、政治に対する哲学的提言 (理想主義的立場からする現実政治の批判) となっています。当時の政府が宗教的発言を禁じたのは、それが政治批判へとつながりかねないからでした。しかしカントはまさにその点を逆手にとって、自分が禁じられたのは宗教・神学に関する発言である、だからそれに関しては口をつぐみ、自分は法や政治を論じるのだ、と自己の行為を正当化しつつ、堂々と政治哲学書の刊行に及んだのです。たしかにこれは理屈上は合法的な行為でしたが、これを政府がどのように受け止めるかは明々白々でした。つまりこの出版行為そのものが、政府の蛮行に対するカントの抵抗だったと言えるのです。以下、『永遠平和のために』 の内容を見ていくことにしましょう。
Ⅱ.政治的最高善としての永遠平和
カントは理想的国家のあり方ばかりでなく、国際的な平和秩序の構築についても思索をめぐらせました。この点がホッブズやロックと決定的に異なる点です。カントは 「いかなる戦争もあるべからず」 と断言した、世界史の中でも稀有な思想家の一人です。カントにとっては 「永遠平和」 が政治的な究極目的です。『永遠平和のために』 はそのような理想主義的な観点から政治のあるべき姿を論じた書物でした。
この本の本論部分は2つの章から成っており、第1章は 「永遠平和のための予備条項」、第2章は 「永遠平和のための確定条項」 と題されていますが、これは当時の国際条約の形式を踏襲しています。第1章では、国家が行う個々の行為についてカントは注文をつけています。1つ1つ見てみると、そのどれもが、プロイセン政府のみならず、当時の諸国家が日常茶飯事のように行っていた政策を念頭に置いていることがわかります。裏切りや暴力的干渉をなくし、常備軍も撤廃していくべきだという主張は、当時だけでなく今日においてもひじょうにラディカルな考えだと言えるでしょう。かくして、たんなる一時的な休戦状態ではなく、まさに国同士の 「一切の敵対行為が終わる」 状態を作り出していくこと、それがカントの言う 「永遠平和」 という理想なのです。
Ⅲ.国際連盟の提唱
ところでこの永遠平和という理想的な状態をどうやって実現したらよいのでしょうか。永遠平和を達成するためにカントが考えた方策が 「国際連盟」 の創設でした。第2章の第2条項でこの問題が詳しく論じられています。カント以前の平和思想においては、いずれかの国家やいずれかの宗教が全世界を平定し、国境や宗教の違いをなくすことによって平和な世界が樹立される、と考えられていました。カントはこのような世界帝国による強権的な上からの平和樹立という考え方に反対します。諸国家にはそれぞれの国民としてのまとまりがあり、その自由 (自律) が尊重されねばなりません。対等な国家どうしが永遠平和の樹立のために一堂に会して、様々な利害の対立を話し合いによって解決しようと努力する場、それがカントの言う国際連盟です。これをカントは 「平和会議」 とも言い換えています。永遠平和は、このような強制力をもたない会議の場でのねばり強い話し合いによって築かれていかなくてはならないのです。
Ⅳ.永遠平和への道のり
このように強制力を持たない国際連盟を通じて永遠平和を樹立するなんて、とても無理な話のように聞こえるでしょう。カント自身もこれによってただちに永遠平和が実現されうるとは考えていません。しかしこれ以外の、力 (すなわち戦争) による方法では、原理的に平和を招来することはできないのですから、人類には他の選択肢はありえないのです。暴力の連鎖から脱却するためには、平和的手段によって平和を達成しようとしていく以外ないのです。とすると人間はこの課題を正面から引き受けて、どんなに遠い道のりであろうとも、どんな障害が現れようとも、ひるむことなくこの理念に向けて一歩一歩、歩みを進めて行くしかないでしょう。このようなユートピア実現に向けての無限に続く努力の過程、これがカントの歴史の考え方です。理想的な社会があっさり実現されるなどということはありえません。現実は常に何らかの欠陥を含んでいます。頭の中の純粋な理念に照らして現実を少しずつ改善していく長い長いプロセス、それが人類の歴史なのです。
先日、1回目のレジュメと資料をアップしましたので、まだ未読の方はそちらを先にどうぞ。
カントのどこが好きって、理想の捉え方のところが一番好きなので、
前回の理想と現実の二元論の話、
そして今回の、現実と理想が食い違っているときにどうしたらいいかという話、
このへんの話は自分で書いた文章にもかかわらず、読んでるとテンション上がりまくるなあ。
この熱い思いが読者の皆さんにも伝わってくれるといいのですが…。
カント②「永遠平和への道 ―国際連合の理念と現実―」
Ⅰ.カントの抵抗のしかた
抵抗権・革命権を認めず、暴力的抵抗行為を否定して、平和的手段による漸次的改革を唱えたカントですが、果たしてそのような生ぬるい方法で現実を変えていくことができるのでしょうか。カントは「言論の自由こそは国民の権利を擁護する唯一の守護者である」(「理論と実践」) と主張したわけですが、その言論の自由すらをも許さずに、検閲などの方法によって思想統制しようとしてくる絶対主義権力が存在した場合に、カントは為す術を失ってしまうのでしょうか。
じっさいカントは1794年に、国王フリードリヒ・ヴィルヘルムⅡ世から直々に、「宗教・神学に関する著述や講義を今後一切行ってはならない」 という勅令を下されてしまいました。これは平穏だったカントの人生の中でも最も劇的な、そして最も危険な事件でした。
当時のプロイセン政府はルター教会と結びついていました。フランス革命の勃発前から、フランスでの啓蒙主義運動の高まりに対抗するように検閲令や宗教勅令を発して、ドイツでの啓蒙思想の流行を抑えようと必死になっていました。これに対してカントは、理性宗教の立場を唱えて、特定の宗派 (啓示という歴史的事実に依拠する経験的宗教) を越えた普遍的な宗教的連帯の必要性を訴えていたのです。カント自身は啓示宗教を否定したり批判したつもりはなかったのですが、政府はこれを危険な思想とみなし、カントには厳しい禁令が下されました。当時の人々はカントにさらに重い処分 (禁書、解雇、投獄等) が下されるのではないかと心配していたようです。
このような弾圧に直面してカントはどう対処したのでしょうか。カントはこのような状況下でも言論の力 (説得による理性的・平和的改革) を信じたのでした。翌1795年、カントは 『永遠平和のために』 を出版します。これが禁令後はじめてのカントの公的発言になったわけですが、その中身は徹頭徹尾、政治に対する哲学的提言 (理想主義的立場からする現実政治の批判) となっています。当時の政府が宗教的発言を禁じたのは、それが政治批判へとつながりかねないからでした。しかしカントはまさにその点を逆手にとって、自分が禁じられたのは宗教・神学に関する発言である、だからそれに関しては口をつぐみ、自分は法や政治を論じるのだ、と自己の行為を正当化しつつ、堂々と政治哲学書の刊行に及んだのです。たしかにこれは理屈上は合法的な行為でしたが、これを政府がどのように受け止めるかは明々白々でした。つまりこの出版行為そのものが、政府の蛮行に対するカントの抵抗だったと言えるのです。以下、『永遠平和のために』 の内容を見ていくことにしましょう。
Ⅱ.政治的最高善としての永遠平和
カントは理想的国家のあり方ばかりでなく、国際的な平和秩序の構築についても思索をめぐらせました。この点がホッブズやロックと決定的に異なる点です。カントは 「いかなる戦争もあるべからず」 と断言した、世界史の中でも稀有な思想家の一人です。カントにとっては 「永遠平和」 が政治的な究極目的です。『永遠平和のために』 はそのような理想主義的な観点から政治のあるべき姿を論じた書物でした。
この本の本論部分は2つの章から成っており、第1章は 「永遠平和のための予備条項」、第2章は 「永遠平和のための確定条項」 と題されていますが、これは当時の国際条約の形式を踏襲しています。第1章では、国家が行う個々の行為についてカントは注文をつけています。1つ1つ見てみると、そのどれもが、プロイセン政府のみならず、当時の諸国家が日常茶飯事のように行っていた政策を念頭に置いていることがわかります。裏切りや暴力的干渉をなくし、常備軍も撤廃していくべきだという主張は、当時だけでなく今日においてもひじょうにラディカルな考えだと言えるでしょう。かくして、たんなる一時的な休戦状態ではなく、まさに国同士の 「一切の敵対行為が終わる」 状態を作り出していくこと、それがカントの言う 「永遠平和」 という理想なのです。
Ⅲ.国際連盟の提唱
ところでこの永遠平和という理想的な状態をどうやって実現したらよいのでしょうか。永遠平和を達成するためにカントが考えた方策が 「国際連盟」 の創設でした。第2章の第2条項でこの問題が詳しく論じられています。カント以前の平和思想においては、いずれかの国家やいずれかの宗教が全世界を平定し、国境や宗教の違いをなくすことによって平和な世界が樹立される、と考えられていました。カントはこのような世界帝国による強権的な上からの平和樹立という考え方に反対します。諸国家にはそれぞれの国民としてのまとまりがあり、その自由 (自律) が尊重されねばなりません。対等な国家どうしが永遠平和の樹立のために一堂に会して、様々な利害の対立を話し合いによって解決しようと努力する場、それがカントの言う国際連盟です。これをカントは 「平和会議」 とも言い換えています。永遠平和は、このような強制力をもたない会議の場でのねばり強い話し合いによって築かれていかなくてはならないのです。
Ⅳ.永遠平和への道のり
このように強制力を持たない国際連盟を通じて永遠平和を樹立するなんて、とても無理な話のように聞こえるでしょう。カント自身もこれによってただちに永遠平和が実現されうるとは考えていません。しかしこれ以外の、力 (すなわち戦争) による方法では、原理的に平和を招来することはできないのですから、人類には他の選択肢はありえないのです。暴力の連鎖から脱却するためには、平和的手段によって平和を達成しようとしていく以外ないのです。とすると人間はこの課題を正面から引き受けて、どんなに遠い道のりであろうとも、どんな障害が現れようとも、ひるむことなくこの理念に向けて一歩一歩、歩みを進めて行くしかないでしょう。このようなユートピア実現に向けての無限に続く努力の過程、これがカントの歴史の考え方です。理想的な社会があっさり実現されるなどということはありえません。現実は常に何らかの欠陥を含んでいます。頭の中の純粋な理念に照らして現実を少しずつ改善していく長い長いプロセス、それが人類の歴史なのです。