まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.なぜ上に立つ人は、自分の言うとおりにすれば大丈夫だと思うのでしょうか?

2016-04-18 14:49:05 | お仕事のオキテ
哲学に関する質問であるかどうかは別ですが、これ自体はとてもいい質問ですね。

こういう質問に対しても哲学的・倫理学的にお答えしてみましょう。

まずは上に立つ人かどうかは置いておいて、

そもそも人間というのは自己中心的に物事を考えてしまいがちな生き物です。

これはどうしたって仕方のないことです。

私たちは、自分の目で物を見、自分の耳で聞き、自分の鼻で匂いを嗅いで生きているのですから、

自分というフィルターを通してしか世界を受け取ることができません。

しかも人間は五官を通して世界をありのままに受け止めているわけではなく、

自分の好き嫌いや常識という網の目によって、世界を自分に合わせて変形させて受け取ります。

同じ緑色のキュウリを見たとしても、

Aさんはみずみずしいシャキッとした歯ごたえのさわやかな食べ物として捉えるかもしれませんが、

Bさんは鼻の曲がる悪臭を放つ意味不明の虫のエサと捉えているということがありうるでしょう。

AさんもBさんも、自分とは違う捉え方があると知るまでは、

自分の捉え方が唯一の正しい物の見方だと信じて疑うことができません。

2人とも自分の生まれや育ってきた環境のなかで培われた色メガネを通して世界を見ていて、

その色メガネを外したことがないのですから、

自分の見ている姿が物の正しい姿だと信じ込むしかないのです。

物の見え方だけですらこうなのですから、人間はどのように生きたらいいか、

どういうときにどういう行動をしたらいいか、といった人生に関わるような問題については、

よりいっそう人は自分の信念に凝り固まってしまいがちになります。

ましてや上に立つ人というのは、自分のやり方で成功して上に立てるようになった人たちです。

皆さんのようにまだ若くて社会に出たことのない人間であれば、

自分のやり方にいろいろと迷いもあるだろうし、絶対的自信は持てていないことでしょう。

しかし、自分のやり方でたまたま成功してきてしまった人たちは、

自分のやり方に自信を持ち、それが唯一の成功への近道だと信じ切ってしまうのです。

したがって、自分以外の人も自分の言うとおりにすれば大丈夫だと思い込み、

善意から自分の言うとおりにするように教えてあげているのです。

しかしよく考えてみれば、そのやり方はその人だから上手くやれただけかもしれませんし、

今はもうその時とは全然状況が変わってしまっていてそのやり方では通じないかもしれません。

哲学的にはこういうのは 「単称汎化の誤り」 と呼ばれています。

ある誰かにたった1回こっきり当てはまったケースにすぎないものを、

誰でもいつでも成立することだと強弁してしまう誤謬です。

まあ哲学 (特に論理学) を勉強している相手になら、

「それって単称汎化の誤りですよね」 とひとこと言ってあげれば、

相手はすぐに自分の過ちに気がついてしおしおと自分の言い分を引っ込めてくれると思いますが、

哲学や論理学をちゃんと理解している人なんてめったにいないのでそううまくはいかないでしょう。

先にも言ったとおり上に立つ立たないに関係なく、人間というのは自己中心的な生き物ですので、

自分の言うとおりにしておけば大丈夫だと言ってくる人がいたら、

「ありがたい教え、どうもありがとうございます」 と感謝しておき、

あとは自分の頭で考えて、本当にその通りにしていればいいのか、

それとも自分なりに工夫して所々アレンジしなければならないのか、

自己責任で物事に取り組むようにしましょう。

今回の答えは以下のようにまとめておくことにいたします。


A.そもそも人間は自己中心的な生き物なので、自分のやり方が正しいと思い込みがちです。

  ましてや人の上に立つ人は、自分のやり方で成功してきた人であるため、

  他人も自分の言うとおりにすれば大丈夫だと、単純に信じてしまうことが多いからです。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿