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日本国憲法 (その1)

2019-04-27 12:13:14 | 歴史
 今回から、日本国憲法についての私の考えを書きます。第1回目は、戦後の混乱した時代に、どのようにして”平和憲法”が成立したのか?についてです。

【私と憲法】
 私は工学部出身です。日本国憲法の単位を取ると教師の資格が得られたので、友人・数人が日本国憲法を選択しました。彼らが憲法の話しをするので、私は、古本屋で六法全書の日本国憲法の所だけ立ち読みした記憶が有ります。

 日本は敗戦まで帝国主義一色だったと思っていましたが、「こんな内容の憲法を考え出せる人達が生き残っていたのだ」と非常に驚きました。父は士官学校出身の軍人で、我が家では”天皇”と呼ぶと、”陛下”と言い直せと言うほどの右寄りの人間でした。私の田舎では、1970年頃までは、どの家にも昭和天皇/皇后の写真を額に入れて飾っていました。まだ、明治憲法の下で生きていたのだと思います。

 恥ずかしながら、当時、私はGHQが作成した英文の憲法草案をベースにして、新憲法が制定された事を知らなかったのです。

(余談) GHQが1946年の2月に作成した、”憲法草案”は国会図書館がインターネット上に公表しています。『Constitution of Japan(テキスト) | 日本国憲法の誕生』で検索して下さい。

【憲法を読んで見ましょう!】
 憲法には難しい漢字や言葉は殆ど使用されていませんので、30分程で読めます、精読でも1時間有れば十分です。インターネットで『日本国憲法ー衆議院』で検索して下さい。是非とも、読んで頂きたいです。

(余談1) 憲法を読んだ方は直ぐ分かったと思いますが、公布日を明治天皇の誕生日『11月3日』(現在の”、文化の日”=昔の”天長節”=”明治節”)を選んだのです。半年後の施行日『5月3日』は”憲法記念日”となりました。

(余談2) どの国でも同じだと思いますが、国民とその国に滞在する人は、全ての法律を熟知していると言う前提になっています。(旅行者にも、その国の法律は適用されます。)貴方が逮捕されて、「そんな法律は知らなかった」と言っても通用しません。現在は、お金を出さなくても、所轄の省がインターネットに法律の全文を公開しています。

【戦後最初の衆議院選挙】
 私は、日本国憲法の制定過程を不思議に思っています。敗戦後も帝国憲法による衆議院と貴族院は存続していました。(1940年に政党が解散し、議員は翼賛会に合流して、いわゆる翼賛体制になっていました。)

 1945年末に、戦時中に帝国憲法下で選ばれた衆議院と勅選の貴族院が、帝国衆議院議員選挙法を改正したのです。この改正は大改革でした。①婦人参政権を認めました、②選挙権は25歳以上を→20歳以上に、被選挙権は30以上を→25歳以上に引き下げました、③大選挙区・制限連記制(れんきせい) を採用しました。(大選挙区制と制限連記制は、以前にも採用された事がありました。)

 戦争で男性は沢山亡くなっていましたから、有権者数は男性が44%、女性が56%でした。それまで選挙の経験の無い女性の方が多かったのです。そして、若者達は、急に選挙権が与えられて、戸惑ったと思われます。

 大選挙区制でしたから、定員が14人の選挙区も有りました。制限連記制で、有権者は3人に投票したのです。(つまり、一人3票投票しました。)

 戦後の混乱期ですから、全国的な政党を組織化する時間的/資金的な余裕が全く有りませんでした。その為に、地方政党が多数出来ました。

 1946年の衆議院選挙は、そんな異常な状況下で実施されたのです。

★ 1945年8月14日 :敗戦(ポツダム宣言の受諾)
★ 1945年12月 :衆議院議員選挙法改正
★ 1945年12月18日 :衆議院解散(幣原内閣)
★ 1946年2月 :GHQの憲法草案
★ 1946年4月10日 :第22回衆議院議員総選挙(帝国議会)
★ 1946年5月22日 :第一次吉田茂内閣・・・旧憲法下
★ 1946年11月3日 :日本国憲法を公布 
★ 1947年4月25日 :第23回衆議院議員総選挙(社会党・片山内閣誕生)
★ 1947年5月  :日本国憲法の施行

【衆議院選挙の結果】
 1946年の衆議院選挙の有権者は、60%以上が初めて投票する人達だったのです。当選した議員の多くも、数か月前まで自分が代議士になるとは思っていなかったでしょう。

 選挙の2ケ月前に、GHQから英文の憲法草案が幣原内閣に提示されていましたが、新憲法について選挙で論じられた様子はありません。候補者の多数は、GHQの憲法草案を知らなかったと思われます。国の有り方を変える、重要な憲法の制定に関わるとは全く予想していなかったでしょう。

 466議席を争う選挙で、第1党は日本自由党(党首:鳩山一郎)=141議席、日本自由党(町田忠治)=94、日本社会党(片山哲)=93、日本協同党(山本実彦)=14、日本共産党(徳田球一 )=5、諸派=38、無所属=81、と言う結果でした。

 選挙後に第1党の党首だった鳩山一郎が総理大臣になるべく画策しましたが、公職追放になってしまいました。それで、浮上したのが吉田茂です。まだ、旧憲法下でしたから、元老達が総理大臣候補を一人に絞って天皇に推挙し、天皇は必ず認める事になっていました。現在では死語になっていますが、天皇が総理大臣を任命する事を『大命降下』と言います。

 吉田茂は、1945年12月に勅選された貴族院議員で、第22回衆議院議員総選挙で選出されたのではありません。吉田茂は、一貫して欧米との戦争に反対し、戦争中は平和工作をしていたので、GHQの支持を得て、総理大臣になったと私は見ています。第23回衆議院議員選挙で、高知県から立候補して、衆議院議員になりました。

 吉田茂は、幼くして莫大な養父の遺産を受け継ぎ、外交官になりました。中国→ロンドン→アメリカ→・・・→イタリア大使→イギリス大使→現在の内閣官房長官に相当する役職にも就きました。その経歴から考えて、戦後処理/GHQとの難しい交渉が必要な総理大臣に適任/最適な人物だったと思います。

(余談) 戦後の政治家で、吉田茂に代われる人が他にいたでしょうか?私は思い付きません。若い政治家や、政治家を志す人は、大学で勉強するだけで無く、世の中/世界を勉強して吉田茂に負けない様に頑張って頂きたい!

(余談) 片山哲は、私の高校の大先輩です。高校生の時に来校され、講演を期待を持って聞きましたが、感銘受ける様な話は有りませんでした。残念ながら、何も覚えていません。(1947年に実施された第23回総選挙で社会党が第1党になり、1年弱の短命でしたが、片山哲内閣が誕生しました。)

【なぜ国会が日本国憲法を成立させたのか?】
 吉田茂が組閣後、わずか五カ月強の期間の審議(?)で、新しい憲法を衆議院と貴族院で議決し、昭和天皇が1946年11月3日に公布したのです。

 私は、帝国憲法を読んだことが無いのですが、新憲法には(旧憲法には無かった)民主的な改革が多数盛り込まれている様です。GHQが強烈な圧力を掛けたとは言え、大半の議員達は古い考え方だったと想像しますが、民主的な国家になる事を要求した新憲法を承認したのです。不思議に思いませんか?

 吉田茂は天皇崇拝者だった様です。議員の多くも、同じ様な考え方だった様に私は思います。彼らにとっては、天皇制の存続が最優先課題だったのでしょう。 『今は、ガタガタ言わずに天皇制の存続を認めたGHQ案を呑んでおこう!軍隊の放棄などの問題は、将来憲法を改正すれば良い。』と考え、議決したと私は見ています。

(余談) GHQが憲法草案を纏める時、当然、天皇の戦争責任が議論されたと想像します。もしも、GHQが天皇をA級戦犯としていたら、多分私の父はマッカーサーの暗殺を企てたと思います。父は、戦争で多くの部下を亡くしていたので、天皇が崩御されたら(乃木将軍の様に)自決すると死の直前まで言い続けていました。幸いにも、昭和天皇の崩御の数か月前に逝きました。


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