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マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

令和維新のすゝめ (その1)

2020-09-05 11:23:37 | 改革
【はじめに】
 戦後の日本では「先送り」が当たり前の様になって来て、幾ら何でも直ぐに結論を出さないといけない問題が沢山溜まっています。 最近・新たに「米中冷戦時代に突入する可能性が有り」、「新型コロナのために、日本だけで無く、先進国の経済はガタガタになった」と言う重大な問題が追加されました。

 現在の日本を取り巻く状況は、幕末に似ている様に思われます。 明治維新は武力で国家体制を変えて、明治になって政治体制を改革し、産業を発展させました。 現在も大改革が必要ですが、武力は使えません。民主的な方法で政治/経済を大改革する『令和維新』を提案したいと考えています。

 今回は『令和維新』の第1稿ですが、私の考え方を理解して頂く為には、火縄銃の到来から現在までの日本の歴史を思い出して頂く必要が有ると考えました。 

【織田信長と火縄銃】
 1543年に種子島に漂着した船に乗っていたポルトガルの商人から、島の大名だった種子島時堯(たねがしま ときたか :16歳?)が火縄銃を購入しました。 島の鍛冶屋に国産化させ、家臣に火薬の調合を命じました。 その後・直ぐに大阪の堺と和歌県の根来寺近辺で、火縄銃が製造される様になりました。 そして、日本は世界最大の火縄銃の製造国になりました。 (当時は戦国時代で、全国各地で戦が行われていました。)

 織田信長は火縄銃の有効性に気付き、生産地を支配下に置きました。 他の戦国大名よりも格安の値段で入手出来た様ですが、それでも一挺が数十万円以上した様です。火薬に必要な硝石は全て輸入でしたから、非常に高価でした。

 火縄銃を本格的に使用した戦は、1575年の、織田・徳川連合軍と武田勝頼が戦った『長篠の戦い』です。連合軍の方は3,000挺程使用した様ですが、兵員数が二倍以上も有ったので、「連合軍の勝利が火縄銃による」とは断言出来ないと私は考えています。 火縄銃の射程距離は50~100m程しか有りません。

 それまでの刀と槍を使った戦では、なかなか決着が付きませんでしたが、火縄銃が採用される様になると短期間に決着が付く様になりました。 種子島で国産化した年から、関ヶ原の合戦(1600年)までは57年しか経っていません。

【江戸幕府の鎖国】
 1634年から江戸幕府は鎖国を始めましたが、長崎に出島を築造して、1636年~39年まではポルトガル、1641年からは当時・世界最大の企業になっていたオランダ東インド会社に限定して貿易を認めました。 これが、鎖国です。

 その後・直ぐにオランダ東インド会社は衰退し始めて、1799年には解散してしまいましたが、その後も(なぜか?)出島での貿易はオランダに限定しました。

 イギリスの第一次産業革命は1760年代から始まりました。そして、イギリスやフランスは強国になって行きましたが、オランダの地位は低下しました。 鎖国を続けたので、日本は第一次産業革命の情報を入手出来無かったのです。 (「第一次産業革命で強国になった国の情報が得らなかった事、英語、フランス語、ドイツ語の本が読めなかった事が、日本にとって大損失だった」と私は思います。)

 1865年頃から第二次産業革命が始まり、イギリス、フランス、ドイツ及びアメリカで化学、電気、石油、鉄鋼などの工業が発展しました。 明治元年は1968年ですから、第二次産業革命が始まったところだったのです。

【銃の開発競争】
 日本は鎖国をして、平和な国になったので銃の改良/開発には力を入れませんでしたが、ヨーロッパ諸国では戦争が絶えなかったので、種々の改良が継続的に行われました。 進歩は少しずつで、銃砲の画期的な進歩は19世紀に入ってからです。

【幕末の状況】
 アメリカのペリーが蒸気船でやって来たのは1853年です。この年から明治維新(1868年)までの『15年間』を幕末と呼びます。 日本にとって幸いな事に、アメリカで1961年から65年まで南北戦争が起こりました。

 下関戦争 :1863年5月に長州藩がアメリカとフランスと戦い軍艦を破壊されました。64年7月には、イギリス、フランス、アメリカ及びオランダの連合軍に攻められて砲台を破壊され、実力の差を思い知らされました。これ以降、長州は『攘夷』から『倒幕』に方針転換しました。

 薩英戦争 :1863年8月に薩摩藩が、当時・世界最強だった英国と戦争(薩英戦争)しました。 悪天候が味方してくれた事もあって、引き分けで終わったのです。 この事件によって、欧米諸国は「日本は侮れない国だ!」と認識する様になったのです。

【明治維新の前後】
 薩摩と長州は欧米諸国との戦争で、銃や大砲の性能の大きな差を実感しました。 「日本を欧米諸国に侵略されない為には、最新式の銃や大砲が必要だ!」と考える様になったと思われます。 アメリカの南北戦争が1865年に終わったので、余った新式の銃や大砲を幕府、各藩が多量に購入しました。 そして、内戦に突入したのです。

 大政奉還(1867年10月)→大政復古の大号令(67年12月)→鳥羽伏見の戦い(68年1月)→明治政府の設立(68年1月)→新政府軍が東進を開始(68年2月)→戊辰戦争→函館戦争の終結(69年5月)

 「鳥羽伏見の戦い」の時、(私の知見では)倒幕側の兵員数は6,000人程で幕府側は15,000人程でした。幕府側も新式銃砲を多数所有していましたが、朝廷が開戦の翌日に『錦の御旗』の使用を倒幕側に認め、倒幕側を官軍、幕府側を賊軍とした事で幕府側の戦意を喪失させ、多数の藩が倒幕側に参加する様になりました。

 関東と東北では売謡曲節が有りましたが、「鳥羽伏見の戦い」から約1.5年後の函館戦争の終結で内戦は終わったのです。 それで、日本は、欧米諸国の植民地化の恐れが無くなりました。

(余談) 新式銃砲の射程距離、命中率、破壊力、銃弾の装着速度は、旧来の物とは比べ物になりませんでした。 幕末のたった3年(1865年~68年)ほどの間に、刀や槍は全く役に立たなくなりました。 幕府は1862年に陸軍を創設して、歩兵隊、砲兵隊、騎馬隊を組織して64年と66年の長州征討に派遣しました。 「余りにも急激な変化でしたから、多くの武士が、頭の中を切り替える事が出来ないで、明治時代を迎えたのだ」と私は考えています。

(余談) 彦根の井伊家は譜代大名です。井伊直弼が大老になって、1858年に改革派の人達を多数粛清しました。『安政の大獄』→59年に『桜田門外の変』で暗殺されました。 意外にも!彦根藩は「鳥羽伏見の戦い」の後、直ぐに新政府側に参加したのです。

【明治の富国強兵】
 明治政府の財政は決して豊かでは有りませんでしたが、高給を出して欧米諸国から優秀な技術者や学者を沢山雇って、技術を習得し、各種工場を建設し、大学を設立し、軍備を整備しました。

 その一例が1872年(明治5年)に設立された官営の富岡製糸場です。チマチマした物ではなく、当時としては世界最大級の機械式製糸工場を建設したのです。 急ピッチで富国強兵政策を進めました。

 当時の欧米諸国は、「隙あらば他国を植民地化してやる」と言う覇権主義でした。典型例がフィリピンです。 フィリピンは16世紀にスペインの植民地になりました。1899年(明治31年)に、スペインが勝手にアメリカに譲渡したので、アメリカの植民地になりました。

 欧米諸国で幕末に始まった第二次産業革命に日本も参入して、富国強兵政策は成果を上げる様になっていました。 そして、日本も覇権主義国家の仲間入りをしたのです。日清戦争(1894年~95年)→日露戦争(1904年~05年)→韓国併合(1910年)→・・・→第二次世界大戦への参戦(41年~45年)

(余談) 日本の国民の大半は、敗戦の教訓として「覇権主義=悪」と学びました。 然し、戦後でも覇権主義を唱える国は沢山有ります。 中国、ソビエト/ロシア、イラクなど。イスラエルの建国も一種の覇権主義だと私は思います。

【敗戦後】
 戦争が終わった1945年、日本の産業は壊滅状態だったと言えます。外地から沢山(500万人)引き上げてきたので、食糧不足になりましたが、食糧を輸入する金が有りませんでした。 日本は最貧国になってしまったのです。 国民の努力で少しずつ産業が復興していた時に朝鮮戦争(1950年~53年)が勃発してアメリカから多量の注文が入り、戦後の復興が軌道に乗りました。

 更に、1955年からベトナム戦争が始まり、アメリカからの注文が続き、金を得たので、ビルマ、フィリピン、インドネシア、ベトナム及び韓国に莫大な戦後賠償が出来たのです。

 第二次世界大戦後に、アメリカを中心に第三次産業革命が始まりました。原子力発電、コンピュータ、コンピュータを用いた装置の自動化などなど・・・。日本は第三次産業革命に成功した国の一つです。

 2010年頃から第四次産業革命が始まったと言われています。 最初が第5世代の通信システムですが、日本はこの分野では後れを取っています。 第四次産業革命は通信システムだけでは有りません、種々の分野の革命的進歩を意味します。 この技術革新に乗り遅れたら、日本は確実に衰退してしまいます。官民協力して推進する必要が有ります。

(私の予談と偏見) 私が大学を卒業したのは1971年です。当時、日本と欧米諸国との技術格差が大きく、財閥解体によって日本には巨大企業は存在しませんでした。 大手企業は欧米企業と技術提携して、支給された図面や資料で製造し、技術の習得に努力していました。

 国家予算はまだ乏しかったのですが、官僚が学会の重鎮達と相談して、研究・開発費を決めていました。 通商産業省の課長さんが毎年、企業の重役向け講演会で「来年は、✕✕の予算で、○○分野の研究/開発を支援する」と説明し、民間企業を牽引したのです。

【日本の経済発展と衰退】
 戦後、日本は欧米企業から取り入れた技術をベースに、創意/工夫を加えて工業を急速に発展させました。 日本の製品は『品質は劣るけど、安価』→→『安くて高品質、故障が少ない』になりました。 (現在の中国の様に)日本の貿易が黒字になって、アメリカは日本に種々の圧力を掛けてくる様になりました。

 その典型例が、1985年の『プラザ合意』で、急激な円高ドル安を要求しました。 「1ドル=240円台」→「1ドル=120円台」 私は、「普通の国だったら、産業は壊滅状態になった」と思いますが、企業が努力して貿易黒字国に戻りました。

 与党も野党も、日本の政治家は科学、基礎科学、工学の勉強を殆どしません。 (資源の多くを輸入している日本は特にそうですが、)政治家は産業に関する勉強をして、自国の産業を発展させる政策を考え、貿易が有利に出来る様な対外交渉方針を立案するべきです。 戦後の政治家の多くは、「科学や産業なんか関係ない」・文人や仙人の様です。 「2位じゃダメなんでしょうか?」と発言した政治家は、まだ参議院議員です。

 戦後すぐの官僚には国の事を考える、立派な方が沢山おられた様に思います。 いつの間にか、「自分達の天下り先を維持/増やすこと」を優先する官僚が主流になって来た様に見受けられます。

 国は研究開発費を削減して、アベノマスクの様な頓珍漢な開発援助をしています。 民間の製造企業は国の支援を期待出来無くなっているのです。

 バブル崩壊後の「失われた20年」と言われますが、新型コロナでダメージを受けた経済を立て直すには、思い切った政策を取らないと経済は回復せず、近い将来に貿易赤字国に転落する恐れも有ります。

 「票にならない問題には蓋をして、先送りする政治慣習は許容されない国際情勢になっている」と私は考えています。


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