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マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

いい加減な性格が福をもたらした話し (その1)

2025-01-06 13:18:40 | 人生
【はじめに】
 今回は、私の幼馴染のS氏の話しです。 S氏は、楽天家/おっちょこちょい/いい加減な性格ですが、人に好かれるタイプです。

 いい加減な人間は大成しないのが普通ですが、S氏の場合は真逆で、彼の欠点が幸いして→→S氏が設立した会社は現在従業員が70人もいて→→殆ど、赤字になった事が無い様です。

 去年の年末にS氏から電話が有り、「最近物忘れが激しく、いい加減な仕事しか出来ない」と嘆くので→→「昔から忘れ物が多かったし、いい加減な事をやっていた。年のせいでは無いよ!」と慰めました。

【S氏と私】
 S氏は、小学校と中学校の同級生です。小学校の同級生は22人で、中学校は36人しかいませんでした。S氏と私は、田辺市の別々の高校に進学しました。中学校から田辺市の高校に入ったのは二人だけでした。

 高校を卒業してからは、数年に一度会っており、二、三年に一度は電話で話しています。10年ほど前にS氏の前立腺に癌が見つかってからは、毎年1回は電話しています。 S氏は、自分の近況を1時間以上話します。 その為に、私はS氏のことを良く知っていますが、S氏は私の事は殆ど知らない/覚えて無いと思います。

【小学生の頃のS氏】
 小学4年生から週に一回クラス会の時間が有りました。 「民主主義を体現する時間だったのでは?」と思います。(先生は立って見ているだけでした。) 持ち回りで議長になって、草引きの日等を決めるのです。 そして、遅刻や忘れ物をした生徒に罰を与えました。 S氏以外に罰せられた生徒はいませんでしたが、S氏は毎日の様に遅刻し、忘れ物をしました。

 S氏に与えられた罰は、漢字を書く事でした。中学校や高校で習う漢字まで書いていました。 その為に、S氏は漢字博士の様になりました。

 好天の日の休み時間に皆でキャッチボール、ドッチボール等を、雨の日は卓球等をしましたが、S氏は参加しませんでした。 小学5年生まで、私はS氏と遊んだ記憶が有りません。

【S氏に将棋を教えました】
 私は小学生になった頃、近くに住んでいた父の弟(MI叔父)に将棋を教えてもらいました。 毎週、一局以上指しました。 一年もすると結構上達しました。 MI叔父は強かったので、「今日は、この升で詰ませる」と宣言し→→私がドンナニ頑張っても→→私の『王』は指定された升に行かざるを得ませんでした。

 小学校6年生の担任の先生が末期癌だったので、一年間授業が全く無く→→毎日自習でした。 雨の日に教室でS氏に将棋を教えました。S氏の上達は早く→→直ぐに私と対等で指す様になりました。

《余談 :囲碁の思い出》  私が小学の高学年になった頃、父に囲碁を教えてもらいました。 一番上の姉は中学校の教師と結婚していて、夫(義兄)と子供を連れて良く帰省していました。 父と義兄が碁を打つのを観戦しました。 私が中学生になった頃、碁盤と碁石は義兄が持って帰りました。

 大学4年生の時に、同じゼミの友人(K氏)に囲碁を教えました。K氏は熟慮するタイプで、直ぐに上達して→→ほぼ互角で打てる様になりました。 ゼミには教授と助教授(現在の准教授)がおられ、二人に共通する趣味は囲碁でしたが、二人で打つことは有りませんでした。

 K氏と打っていると、教授と助教授が来られて→→K氏の後ろに教授が、私の後ろに助教授が立って→→次の手を指示するのです。 お二人ともかなりの腕前で→→素晴らしい指示だったので→→勉強になり→→卒業する頃には、私はアマチアの初段以上の力が有ったと思います。

 私の妻の兄(義兄)は、NHKの囲碁番組を今でも毎週録画しています。 彼は負けず嫌いです。 義兄と数局打ったのですが、何時も私が勝ったので→→二度と打とうとはしません。

 対戦相手がいなかったので、1990年頃に囲碁のパソコン・ソフトを買ったのですが、弱すぎたので楽しめませんでした。20024年に新しく出たソフトを買いました。「AIソフト」となっていますが、学習能力は有りません。 「こう打ったら勝てる」と言う手をわざと避けて→→次善の手を打って→→ソフトがドンナ手を打つのか?・・・楽しんでいます。 そろそろ、新しいソフトを買いたいと思っています。

【中学生の頃のS氏との思い出】
 小学5年生と6年生の時は、私は野球部で活躍したのですが、中学校に入って部活には参加しませんでした。 S氏と殆ど毎日一緒に下校し→→お互いの家に遊びに行く様になりました。

(思い出❶ :給食) 戦後、ユニセフが日本の子供達に食料品を支給してくれていました。 故郷(龍神村)では、外米と脱脂粉乳を支援してもらって→→小学校と中学校では給食が有りました。余裕の有る家の子供は、野菜と薪を持って来ました。 ご飯、脱脂粉乳を溶かした牛乳、味噌汁と言うヘンテコリンな給食でした!

 小学5年か6年の頃、外米の支援が無くなったので、農協(JA)が龍神村の全小中学校向けのパン工場を建設しました。 (パン工場は、龍神村・福井・横畑に有りましたが、現在は無くなっています。)

(思い出❷ :シュガーマーガリン・パン) 中学校下校時に、週に一、二回、S氏とパン工場に寄って、熱々のシュガーマーガリン・パンを買って食べました。 マーガリンに砂糖を練り込んだ物を→→職人さんが目の前で、コッペパンを割いて→→タップリ入れてくれました。 (スーパーでシュガーマーガリン・パンを見掛けたら、必ず買っています。)

(思い出❸ :補習授業と弁当) 現在は土曜日は休校すが、昔は”半ドン”でした。中学3年生になると、高校進学を目指している生徒には土曜日に補習授業が有り、給食は休みでしたので弁当持参でした。1ヶ月に一度、模擬試験を受けましたが、その時も弁当持参でした。S氏と私は補習授業を受けました。

 母が作ってくれる弁当は、白いご飯と梅干一個の”日の丸弁当”でした。鶏を沢山飼っていたのですが、卵焼きは作ってくれません→→その代わり、缶詰を買う金を渡してくれました。 鰯や鯖の缶詰を買いました。

 S氏の父親はキノコ採りの名人で、毎年沢山!沢山!採って来て→→塩漬けにしていました。 S氏の弁当には塩漬けにしたキノコの炒め物が沢山入っていました。 S氏と御菜(おかず)を半分ずつ交換しました。キノコの炒め物は美味しかったです!

【高校受験】
 S氏は田辺商業高校(田商、現在=神島高校)を、私は田辺高校(田高)を受験しました。 入学試験が終わって、校庭で父が友人と雑談している時、父の近くでボンヤリしていました。 S氏と彼の父親がやって来て、「答案用紙に氏名と受験番号を書かなかった、どうしよう?!」と言ううのです。 私に言っても、どうしようも無いですよね!

 そばで聞いていた父が、「義弟(母の弟=私の叔父)に頼んでみる」と言って出掛けました。 ラッキーな事に叔父が田辺商業高校の教頭だったのです。

 後で叔父から聞いた話しでは、S氏は全ての答案用紙に氏名と受験番号を書いていなかったそうです。 そして、他に氏名と受験番号を書き忘れた受験生がいなかったので→→S氏の答案用紙を見つけるのは簡単だった様です→→叔父が氏名と受験番号を書き加えて→→S氏は合格になりました。 多分、今だと許されない事だと思います。(叔父が、「S氏は字が上手だ」と言っていました。)

【高校生時代】
 S氏は、田商から田辺駅のほぼ中間に有った、共用の台所が付いた四畳半のアパートを借りて自炊していました。 実家から米、沢庵、味噌等を送って貰い→→部屋に置いた電気炊飯器でご飯を炊いていました。

 学校が終わると、同級生を五、六人引き連れてアパートに帰り→→将棋を指すのが日課になっていました。 S氏の将棋の腕はドンドン上がって、田商の生徒の間では無敵になりました。

《余談 :若草寮の夕食》
 私は間借りして、夕食は田高の寮(若草寮)に食べに行っていました。一年先輩に背の高い/ガッシリした体格のバスケットボール部の男性が二人、若草寮に入っていました。

 若草寮の夕食は、ご飯は少し大きめの飯茶碗一杯だけ(お代わり無し)、味噌汁、簡単な御数(おかず)だけの質素な物でした。 バスケットボール部の二人が、毎日他人の分を食べてしまいました。

 私の夕食も週に一回か二回は食べられました。そんな時、月に二、三回、S氏のアパートに行って、冷めたご飯と沢庵を貰って飢えを凌ぎました。

(余談の余談 :若草寮) 田高の前進の一つが田辺高等女学校です。若草寮は田辺高等女学校の寮でした。 母は5年間、私の一番上の姉は1年間・若草寮に住んでいた様です。若草寮は現在も田高の寮として存在しますが、私が高校生だった頃は、ボロボロの木造で、旧市街地に有りました。

(余談の余談 :チキンラーメン)  私は間借りだったので、電気ポットしか有りませんでした。 寮の夕食を食べられた時は、S氏の所に行くか、日清のチキンラーメンにお湯を掛けて食べる以外に手が有りませんでした。

 上から三番目の姉が内職して貯めた金を、時々・5,000円程送ってくれていました。 間借りしていた家の近所の店に、結婚したての二十歳過ぎの奥さんが店番をしていました。 私が貧しい事を知っていて、「チキンラーメンを段ボール箱で買ったら安くしてあげる」と言ってくれたのです。姉が送ってくれた金で買いました。 涙が出るほど嬉しかったです。

【マラソンの思い出】
 中学3年生になると男子は、往復で5km程の距離を走らされました。 一山を超える5kmですから、『箱根駅伝の5区』の様な物でした。 S氏と私が一着か二着でした。

 高校でもマラソン大会があり、3学年の男子生徒が一斉に走りました。S氏は3年間良い成績だった様で、3年生の時は『トップ』だったそうです。

 私は高校一年生の時は剣道部でした。 昔から、剣道部と柔道部は「マラソン大会では絶対に負けない」と競い合っていました。マラソン大会が近付くと、両部ともマラソンコースを走って練習しました。 私は三、四回走った様に記憶しています。 私は両部の一番になりました。

 私は、3年間三十番以内に入っていました。 特に3年生の時は学年で一番になりました。

【高校卒業後のS氏】
 S氏は高校卒業後、大阪の電気店に就職しましたが、2年ほどで辞めてしまいました。 その店のお得意さんは、芦屋などの超!金持ちの家が多かったそうです。 高級な電気製品を買ってくれると→→トラックに派手な”幟旗(のぼり)”を付けて配達するのが、仕事だった様です。

 その後、京都のミシン販売店に就職しました。 殆ど基本給は無く、歩合制だった様です。ミシン販売店で、女性を”千人切り”したと言う話は次のブログに書きました。

★ 不倫報道は禁止すべきです。 :投稿日=2024年11月16日

【S氏は九州の某県に転居しました】
 1971年にS氏は、九州の某県に有った大きな観光ホテルに就職しました。

 ミシンの販売店に勤務していた時、(S氏よりも数歳年上の)ホテルのオーナーの次男か三男(M氏)がいて、ホテルの経営に参加する事になりました。 M氏に誘われて、好条件でホテルに転職したのです。M氏は、父親や他の兄弟と考え方が違ったので、S氏が27歳になった頃→→ホテルを追放され→→S氏もホテルを辞めました。

【S氏が素晴らしい女性と結婚しました】
 25歳になった年にS氏は地元の女性と結婚しました。 当時、私は神戸市に勤務していて→→フェリーで結婚式に参列しました。 しっかりした女性に見えたので、安心しました。 S氏は”いい加減”な男ですから、「奥さんが支えてくれるだろう」と思ったのです。 その後、私の予想通りになりました。

 その後、S氏には色々辛い事が有りましたが、奥さんが頑張って→→立ち直り→→事業に成功して→→今日が有るのだと、私は思っています。 次回に、その後の出来事を書きます。


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