今回は、私の高校時代の話しと、大学受験の失敗から合格するまでの話しを書きます。
【高校入学】
私の村には日高高校の分校が有ったのですが、田辺高校に入学して、一人暮らしを始めました。 貧しかったですが、楽しかったです。軍人恩給を送って貰ったので、送金は二か月に一度ですから、計画的にお金を使わないと大変な事になってしまいます。それで、計画的に金を使う習慣が身に着きました。東京の姉が、内職で稼いだ金を時々送ってくれました。
【間借り生活】
高校に寮が有りました。母が女学生の時に住んだ寮です。見に行くと、男子用には畳敷きの18畳程の3部屋が有り、一部屋に数人が同居する様になっていました。 部屋の中央が朽ちて床が抜けて・大きな穴が開いていました。襖を撤去した押し入れに寝る様になっていたのです。 雨漏りの跡は酷いし、紀州でもこんな部屋では寒くて冬・勉強出来そうに有りませんでした。
急遽、下宿を探して入りましたが、下宿代が高かったので長く住む事は出来ませんでした。担任の先生に相談すると、①先生が独身の時に間借りしていた家に話をしてくれ、②昔・芸者だったと言う気風の良いお婆さんが経営する食堂で昼食を半額で食べさせて頂く事になりました。③夕食を寮で食べて良い(特別な)許可を得てくれました。 先生のお蔭で仕送りで何とか生活出来る様になりました。
台所が無かったので、電気湯沸かし器とトースターを買って何とか生活しました。ゴミを出すのが難しかったので、お茶では無くインスタント・コーヒーを飲みました。洗濯は洗面所で手洗いしました。(入社して寮に入るまで、手洗いしました。)
(余談)
間借りしたS氏の家は、偶然ですが我が家とは深い繋がりが有ったのです。 二所帯が住める二階建てで、台所付きの”離れ”が有ったのですが、戦前に父の弟が結核でその一室で亡くなっていました。S氏は製材所と木材商を相続したのですが、仕事よりも釣りが大事という方で、戦後・会社を倒産させてしまいました。その時、父が管財人(?)になって会社、家屋敷と離れ、不動産の一部が残る様にして処理したのだそうです。S氏は父の恩義を忘れていませんでした。
私が間借りを始めた頃も、釣り船を1艘所有し、船頭を常雇いして、毎日3時前には帰宅して釣りの準備をしていました。早く下校した日は、私に釣り餌作りを頼むのです。S氏には娘2人と息子がいましたが、奥さんも子供達も絶対に手伝いませんでした。何時も雑談しながら、30分間程手伝いました。
2年生の終わりの頃(2月頃)、下校すると餌作りを頼まれたのですが、その時は奥さんも珍しく横に座っていました。S氏が「将来、娘(次女)を貰ってくれ」と言い出したのです。 彼女は私より1学年上で、眉目秀麗/容姿端麗でミス田辺高校の様な存在でしたから、彼女の方から断ってくると思いました。何と答えたか?良くは覚えていませんが、一応了解しました。(身分相応と言いますが、彼女は私には不似合いな美人だったのです。) それから3カ月ほどして、S氏は脳溢血で急死されました。 死んだ方との約束でしたので、気になっていました。入社した年に挨拶に行くと、結婚された長女と奥さんがおられ、小一時間雑談しましたが、結婚の約束の話しは出ませんでした。(内心、ほっとしました。) 後に、田辺市の裕福な旧家に嫁がれたと聞きました。
(余談)
S氏宅から20m程の所に新聞社(A社)の事務所が有り、若手の独身の記者が一人派遣されていました。 独身の歴代の記者は全てS氏宅で間借りしていました。1年生の終わり頃に赴任して来た記者は、私の都合を考えないで、「酒を飲もう」と誘いに来るのです。 大抵は日本酒でしたが、時々・ワインとシャンパンを飲みました。「何と旨い酒だ!」と思いました。私は、酒は少ししか飲めませんが、辛口ならドンな酒でも好きです。(彼は、試験中でも誘いに来ました。)
S氏宅には誰でも出入りして良い応接室が有り、そこに全ての全国紙と紀州の地方紙を置いていました。多分、A社が記者の為に取っていたのだと思います。私は毎日30分ほど読みました。記者が時々、原稿を書いていました。A5かB5ほどのサイズの原稿用紙に、凄いスピードで書くのを見て、「私には無理な職業だ」と思いました。
(余談 :チキンラーメン) 寮には一学年上の、バスケットボール部の大男の生徒が二人いました。寮の夕食は棚に名札が付いていて、そこに各自の分が置かれていました。 二人は他人の夕食を毎晩・一、二人分勝手に食べるので、二人か四人は夕食をべられなくなりました。 寮には男性と女性の先生が住んでいましたが、『事なかれ主義』で見て見ぬふりをしていました。 私も、週に一度か二度・被害に遭いました。 町の飯屋に行く金が無かったので、そんな日の夕食は日清食品のチキンラーメンになってしまいました。 結構よく食べたので、今でも時々チキンラーメンが食べたくなります。
【村長さん】
高校一年の夏休みだったと記憶するのですが、村長さんに呼ばれました。「医学部に入れたら、村から学費を出す」と言われました。 私は、大学に入って勉強はしたかったのですが、将来の仕事までは全く考えていませんでした。何学部でも良かったのです。 それで、「医者になって、田舎で暮らすのも悪く無い」と考えました。
当時、医学部はそんなに難しく無かったです。後述の様に二浪する様な形で、国立大学の工学部に入ったのですが、入学して直ぐに「医学部に数名の空きが出来たので、転部を許可する。但し、入試の得点が医学部合格者の最低点より高い事」と言う掲示が出ました。 駄目元で、私が条件をクリアするか調べてもらいました。「OKです」との回答だったので、「村長さんに相談して見ようか」と悩みました。「あと7年間貧乏生活を続けるのは耐えられ無い」と思ったので、転部はしませんでした。
【高校時代の勉強】
剣道部に入りました。講堂兼体育館を剣道部、体操部、バスケット部でシェアしていたので、練習は週2回でしたが、週に一回は町の道場を借りたり、砂浜を走ったりしたので週に3日はクタクタになってしまいました。1年生の終わり頃に、成績が落ちて来たので担任の先生からストップが掛かって退部しました。
私は「予習する事を」大切にしていました。 明日の授業で進むと思われる分を予習するのには、1時間も掛かりません。 当時・大学受験では高校での成績は考慮され無かったと思います。 中間試験や期末試験の時は、クラスメートは「徹夜した」とか言っていましたが、英語以外は勉強しませんでした。 試験の頃、不思議と面白い洋画がきたので、東京の姉が送ってくれた金で見にいきました。 (クレオパトラ、ヒッチコックの”鳥”、シャレード・・・、この頃、マカロニ・ウエスタンの製作が始まりました。)
2年生になって、問題集を買って来て本格的に受験勉強を始めました。 近くに住んでいた叔父が月に一度は祖母の家に連れて行ったり、自転車で30分は掛かる姉の家に食事に行ったり、もう一人の叔父の所で叔母とビールを飲んだり、勉強に割いた時間は決して長く無かったです。
【教頭先生の英語塾】
私の通った高校は”市”にありましたが、当時・塾は有りませんでした。英語と数学の先生が数人、日曜日の昼間に塾を開いていました。 私は2年間ほど、教頭先生の英語の塾に通いました。 素晴らしい教育者で、私が教えて頂いた多くの先生の中で最高の方だったと今でも思っています。 先生の教えは、「分からなかったら、(誤魔化さないで)分かりませんと言いましょう!」です。
受験勉強では無くて、「短編小説を原文で楽しむ」のが趣旨の塾でした。使用したテキストは下記の①~④だったと記憶しています。 塾生は同じ高校の生徒で、六、七人でした。予習が絶対に必要でした。少し原文を朗読して、口頭で翻訳して次の塾生に渡すのです。私以外は英語が得意の生徒で、一日に読む量は結構多かったです。その為に、私の予習は大変でした。 (今の塾とは違って、夏休み、冬休み、春休みは、塾もお休みでした。)
塾用に離れを建てて、そこに国内で発行された・ほぼ全ての辞書(英英辞典、英和辞典、和英辞典)と英国で出版された分厚い辞書を置いていました。 誰かが可笑しな翻訳をすると、「僕にも分からない」と言われて、10分ほど籍を外されました。その間に、皆で協力して辞書を調べるのです。
① フィフティ・フェイマス・ストーリーズ (Fifty famous stories )
② オーヘンリーの短編集 :『最後の一葉』を含む
③ ジョージ・エリオットの短編 :『サイラス・マーナー』を含む
④ サマーセットモームの短編集
(余談 :先生のテニス) 教頭先生は小柄な方でしたが、テニスが大変上手でした。友人が、「教頭先生のテニスは素晴らしい」と言うので、見学した事があります。テニス部の生徒を相手にして、テニスを楽しまれていたのです。 下手な生徒が相手の時は、打ち返せる所に、上手な生徒には少し難しい所に打ち返すのです。 ラリーを続けて、生徒がテニスが楽しいスポーツだと思う様に、でも教頭先生もテニスを楽しんでおられました。 先生の英語塾と同じスタンスでした。
【日本史の先生】
私は高校の社会科で日本史を選択しました。先生は”とんでもない”方で、教科書は無視して「ジンギス・カンは源義経である」との自説を延々と続けました。 私は馬鹿馬鹿しいので、図書室から読売新聞社が刊行していた『日本の歴史』を借りて、授業中に読みました。
時々、先生の声が聞こえなくななりましたが、先生が私の傍に立って、私が『日本の歴史』を読んでいるのを見ていました。 私と目が合うと、また・ジンギス・カンの話を続けるのです。当時、『日本の歴史』は十巻ほど刊行されていましたが、全て読みました。(私が日本史を好きになったのは、この先生のお蔭です!)
皆さんは、「日本史の授業が無くても、大したことでは無い」と思われるかも知れませんが、当時・国立大学では理科系でも入試で社会科の一科目を受ける必要が有ったのです。
【大学合格の内示】
高校3年生の9月か10月頃に、教員室に呼ばれると、担任の先生から「県立医科大学から合格の内示がきた」と言われました。 「多分、村長さんが働き掛けてくれたのだ」と思いました。 両親に報告すると、母が大反対でした。 母は「国立大学の医学部以外は認めない」と言うのです。 県立医科大学の授業料は国立大学より高かったので、貧しい村に大きな負担を掛けたく無かったのだと思いました。
二、三週間後に、某私立大学の医学部からも「合格の内示」が来ました。 大学の総長は政治家(衆議員)でも有って、昔から父がボランティアで選挙運動を手伝っていました。 我が家に一年に一度、総長が挨拶に来られていました。私は小さい頃から挨拶して、何時も少し話をしていました。 もしかしたら、私を覚えていて「合格の内示」を出してくれたのかも? (この方は、私が高校を卒業した年に亡くなられました。)
入学試験を受けて無いのに、”合格”では『不正入学』です。 私の模擬試験の成績は、両校の偏差値より可成り高かったのですが、それでも、『不正入学』には変わりません。
【大学受験に失敗しました】
模擬試験の成績から、ほぼ間違いなく合格出来ると判断した金沢大学の医学部を受験する事に決めていました。 金沢大学の過去問だけやりました。 馬鹿な話しですが、不合格になるとは、全く思っていなかったのです。
一期校の試験は3月の初めに有りましたが、第一日目の朝起きると、見た事が無いほど多量に雪が積もっていました。 旅館の女将さんに相談すると、「貴方以外は、皆さん昨夜の内にタクシーを予約されました。今日はバスは運行されませんよ」と言うのです。「誰かの車に同乗を頼めないか?」とか話してみましたが、駄目でした。
来ないバスを長いこと待っていると、女将さんが気を利かせて呼んでくれたタクシーが来ました。試験場に着いた時は、私の得意な数学の試験が終わる寸前でした。結局、数学は0点だったのです。それでも奇蹟を信じて次の日も受験しました。 勿論、不合格でした。
東京のH義兄のお世話になって、予備校に通い出したのですが、急に血圧が上がり始め、絶不調になってしまいました。6月頃には血圧が190以上になり、薬を飲み始めました。予備校に行けなくなって、勉強が手に付かなくなってしまいました。
【アルバイト】
高血圧の薬を飲んで、体調が良くなって来たのが高校を卒業した年の11月頃でした。 両親は貧しい生活をしており、H義兄の所は二回目の出産で双子の赤ちゃんが出来ていましたので、「大学進学を諦めて自力で生きて行こう」と考える様になりました。
東販か?日販?がアルバイトの募集をしていたので、応募して働き始めました。 働き口が出来たので、姉の家の近くの安いアパートに移って自炊を始めました。 四畳半、共用の台所/トイレの古い小さなアパートでした。 職場で沖縄出身の三、四歳年上の青年と親しくなりました。彼は、「4年間大学に通える金を貯める」夢を持って働いていました。 彼には両親がいなくて、祖母に高校を卒業するまで面倒を見て貰ったそうです。 彼と話していると、私も頑張って大学に行きたいと考える様になりました。 私は、両親は少しは仕送りしてくれるし、実の兄弟以上に面倒を見てくれるH義兄がいましたから、彼より、ずっと恵まれていると思ったのです。
高校卒業後・2年目の9月に両親に大学進学について相談するために田舎に帰りました。1か月ほど、川釣りをしたり、水彩画を描いたり、熊野古道の途中に有る近露(ちかつゆ)に住んでいた一番上の姉に会いに行きました。父から借りた地図を頼りに、半分・獣道の様な山道を数時間・歩いたと思います。東京に帰って、アパートを引き払ってH義兄の家に引っ越して、勉強を始めました。
【大学に合格しました】
H義兄が、「慶応大学に入ったら家庭教師先を紹介できる。食費の面倒は見るから、この家から通学しなさい」と言ってくれました。 それで慶大の理工学部と、滑り止めに東京理科大の応用数学を受験する事にしました。 国立大学の受験勉強をしていたので、行く気は無かったのですが、東北大学の工学部・機械系も受けて見る事にしました。
慶大には6名程の集団面接が有って、「合格したら幾ら寄付してくれますか?」と聞くのです。「○十万円」、「百万円」と答えていましたが、私は予想外の質問で寄付は考えていませんでした。「貧しいので寄付できません」と言う様な答えをしたと思います。H義兄が、「嘘でいいから百万円と言うべきだった!合格は難しいよ!」と怒りました。 H義兄が慶大の合格発表を見に行ってくれて、自分の事の様に喜んで、「合格」の電話を掛けてくれました。 入学金を払いました。
半分骨休みのつもりで、塩釜の昔・遊郭だった旅館に泊まりました。 他の受験生達は緊張した雰囲気でしたが、私は旅館の二十歳代の主人と昵懇(じっこん)になって四方山話をしました。 東北大も合格しました。 迂闊(うかつ)にも、両親に東北大の合格を言ってしまったのです。 母が「東北大に行け!」と何回も電話を掛けてきて、叔父達からも、電話が掛かってきました。
親身になって私の事を考えてくれていたH義兄を悪者には出来ませんから、生活の目途が全く付いていなかった東北大に進学する事にしました。 次回は、私の貧乏学生時代について書きます。
(余談 :恵みの雪) 入社して数年後に、金沢の雪は私にとって『恵みの雪』だったと気付きました。 機械工学では私の得意な数学、特に幾何学が役立ちましたが、開業医では生かせません。 私は技術屋として楽しい、悔いの全くない人生を送る事が出来ました。 決して負け惜しみでは有りません。
【高校入学】
私の村には日高高校の分校が有ったのですが、田辺高校に入学して、一人暮らしを始めました。 貧しかったですが、楽しかったです。軍人恩給を送って貰ったので、送金は二か月に一度ですから、計画的にお金を使わないと大変な事になってしまいます。それで、計画的に金を使う習慣が身に着きました。東京の姉が、内職で稼いだ金を時々送ってくれました。
【間借り生活】
高校に寮が有りました。母が女学生の時に住んだ寮です。見に行くと、男子用には畳敷きの18畳程の3部屋が有り、一部屋に数人が同居する様になっていました。 部屋の中央が朽ちて床が抜けて・大きな穴が開いていました。襖を撤去した押し入れに寝る様になっていたのです。 雨漏りの跡は酷いし、紀州でもこんな部屋では寒くて冬・勉強出来そうに有りませんでした。
急遽、下宿を探して入りましたが、下宿代が高かったので長く住む事は出来ませんでした。担任の先生に相談すると、①先生が独身の時に間借りしていた家に話をしてくれ、②昔・芸者だったと言う気風の良いお婆さんが経営する食堂で昼食を半額で食べさせて頂く事になりました。③夕食を寮で食べて良い(特別な)許可を得てくれました。 先生のお蔭で仕送りで何とか生活出来る様になりました。
台所が無かったので、電気湯沸かし器とトースターを買って何とか生活しました。ゴミを出すのが難しかったので、お茶では無くインスタント・コーヒーを飲みました。洗濯は洗面所で手洗いしました。(入社して寮に入るまで、手洗いしました。)
(余談)
間借りしたS氏の家は、偶然ですが我が家とは深い繋がりが有ったのです。 二所帯が住める二階建てで、台所付きの”離れ”が有ったのですが、戦前に父の弟が結核でその一室で亡くなっていました。S氏は製材所と木材商を相続したのですが、仕事よりも釣りが大事という方で、戦後・会社を倒産させてしまいました。その時、父が管財人(?)になって会社、家屋敷と離れ、不動産の一部が残る様にして処理したのだそうです。S氏は父の恩義を忘れていませんでした。
私が間借りを始めた頃も、釣り船を1艘所有し、船頭を常雇いして、毎日3時前には帰宅して釣りの準備をしていました。早く下校した日は、私に釣り餌作りを頼むのです。S氏には娘2人と息子がいましたが、奥さんも子供達も絶対に手伝いませんでした。何時も雑談しながら、30分間程手伝いました。
2年生の終わりの頃(2月頃)、下校すると餌作りを頼まれたのですが、その時は奥さんも珍しく横に座っていました。S氏が「将来、娘(次女)を貰ってくれ」と言い出したのです。 彼女は私より1学年上で、眉目秀麗/容姿端麗でミス田辺高校の様な存在でしたから、彼女の方から断ってくると思いました。何と答えたか?良くは覚えていませんが、一応了解しました。(身分相応と言いますが、彼女は私には不似合いな美人だったのです。) それから3カ月ほどして、S氏は脳溢血で急死されました。 死んだ方との約束でしたので、気になっていました。入社した年に挨拶に行くと、結婚された長女と奥さんがおられ、小一時間雑談しましたが、結婚の約束の話しは出ませんでした。(内心、ほっとしました。) 後に、田辺市の裕福な旧家に嫁がれたと聞きました。
(余談)
S氏宅から20m程の所に新聞社(A社)の事務所が有り、若手の独身の記者が一人派遣されていました。 独身の歴代の記者は全てS氏宅で間借りしていました。1年生の終わり頃に赴任して来た記者は、私の都合を考えないで、「酒を飲もう」と誘いに来るのです。 大抵は日本酒でしたが、時々・ワインとシャンパンを飲みました。「何と旨い酒だ!」と思いました。私は、酒は少ししか飲めませんが、辛口ならドンな酒でも好きです。(彼は、試験中でも誘いに来ました。)
S氏宅には誰でも出入りして良い応接室が有り、そこに全ての全国紙と紀州の地方紙を置いていました。多分、A社が記者の為に取っていたのだと思います。私は毎日30分ほど読みました。記者が時々、原稿を書いていました。A5かB5ほどのサイズの原稿用紙に、凄いスピードで書くのを見て、「私には無理な職業だ」と思いました。
(余談 :チキンラーメン) 寮には一学年上の、バスケットボール部の大男の生徒が二人いました。寮の夕食は棚に名札が付いていて、そこに各自の分が置かれていました。 二人は他人の夕食を毎晩・一、二人分勝手に食べるので、二人か四人は夕食をべられなくなりました。 寮には男性と女性の先生が住んでいましたが、『事なかれ主義』で見て見ぬふりをしていました。 私も、週に一度か二度・被害に遭いました。 町の飯屋に行く金が無かったので、そんな日の夕食は日清食品のチキンラーメンになってしまいました。 結構よく食べたので、今でも時々チキンラーメンが食べたくなります。
【村長さん】
高校一年の夏休みだったと記憶するのですが、村長さんに呼ばれました。「医学部に入れたら、村から学費を出す」と言われました。 私は、大学に入って勉強はしたかったのですが、将来の仕事までは全く考えていませんでした。何学部でも良かったのです。 それで、「医者になって、田舎で暮らすのも悪く無い」と考えました。
当時、医学部はそんなに難しく無かったです。後述の様に二浪する様な形で、国立大学の工学部に入ったのですが、入学して直ぐに「医学部に数名の空きが出来たので、転部を許可する。但し、入試の得点が医学部合格者の最低点より高い事」と言う掲示が出ました。 駄目元で、私が条件をクリアするか調べてもらいました。「OKです」との回答だったので、「村長さんに相談して見ようか」と悩みました。「あと7年間貧乏生活を続けるのは耐えられ無い」と思ったので、転部はしませんでした。
【高校時代の勉強】
剣道部に入りました。講堂兼体育館を剣道部、体操部、バスケット部でシェアしていたので、練習は週2回でしたが、週に一回は町の道場を借りたり、砂浜を走ったりしたので週に3日はクタクタになってしまいました。1年生の終わり頃に、成績が落ちて来たので担任の先生からストップが掛かって退部しました。
私は「予習する事を」大切にしていました。 明日の授業で進むと思われる分を予習するのには、1時間も掛かりません。 当時・大学受験では高校での成績は考慮され無かったと思います。 中間試験や期末試験の時は、クラスメートは「徹夜した」とか言っていましたが、英語以外は勉強しませんでした。 試験の頃、不思議と面白い洋画がきたので、東京の姉が送ってくれた金で見にいきました。 (クレオパトラ、ヒッチコックの”鳥”、シャレード・・・、この頃、マカロニ・ウエスタンの製作が始まりました。)
2年生になって、問題集を買って来て本格的に受験勉強を始めました。 近くに住んでいた叔父が月に一度は祖母の家に連れて行ったり、自転車で30分は掛かる姉の家に食事に行ったり、もう一人の叔父の所で叔母とビールを飲んだり、勉強に割いた時間は決して長く無かったです。
【教頭先生の英語塾】
私の通った高校は”市”にありましたが、当時・塾は有りませんでした。英語と数学の先生が数人、日曜日の昼間に塾を開いていました。 私は2年間ほど、教頭先生の英語の塾に通いました。 素晴らしい教育者で、私が教えて頂いた多くの先生の中で最高の方だったと今でも思っています。 先生の教えは、「分からなかったら、(誤魔化さないで)分かりませんと言いましょう!」です。
受験勉強では無くて、「短編小説を原文で楽しむ」のが趣旨の塾でした。使用したテキストは下記の①~④だったと記憶しています。 塾生は同じ高校の生徒で、六、七人でした。予習が絶対に必要でした。少し原文を朗読して、口頭で翻訳して次の塾生に渡すのです。私以外は英語が得意の生徒で、一日に読む量は結構多かったです。その為に、私の予習は大変でした。 (今の塾とは違って、夏休み、冬休み、春休みは、塾もお休みでした。)
塾用に離れを建てて、そこに国内で発行された・ほぼ全ての辞書(英英辞典、英和辞典、和英辞典)と英国で出版された分厚い辞書を置いていました。 誰かが可笑しな翻訳をすると、「僕にも分からない」と言われて、10分ほど籍を外されました。その間に、皆で協力して辞書を調べるのです。
① フィフティ・フェイマス・ストーリーズ (Fifty famous stories )
② オーヘンリーの短編集 :『最後の一葉』を含む
③ ジョージ・エリオットの短編 :『サイラス・マーナー』を含む
④ サマーセットモームの短編集
(余談 :先生のテニス) 教頭先生は小柄な方でしたが、テニスが大変上手でした。友人が、「教頭先生のテニスは素晴らしい」と言うので、見学した事があります。テニス部の生徒を相手にして、テニスを楽しまれていたのです。 下手な生徒が相手の時は、打ち返せる所に、上手な生徒には少し難しい所に打ち返すのです。 ラリーを続けて、生徒がテニスが楽しいスポーツだと思う様に、でも教頭先生もテニスを楽しんでおられました。 先生の英語塾と同じスタンスでした。
【日本史の先生】
私は高校の社会科で日本史を選択しました。先生は”とんでもない”方で、教科書は無視して「ジンギス・カンは源義経である」との自説を延々と続けました。 私は馬鹿馬鹿しいので、図書室から読売新聞社が刊行していた『日本の歴史』を借りて、授業中に読みました。
時々、先生の声が聞こえなくななりましたが、先生が私の傍に立って、私が『日本の歴史』を読んでいるのを見ていました。 私と目が合うと、また・ジンギス・カンの話を続けるのです。当時、『日本の歴史』は十巻ほど刊行されていましたが、全て読みました。(私が日本史を好きになったのは、この先生のお蔭です!)
皆さんは、「日本史の授業が無くても、大したことでは無い」と思われるかも知れませんが、当時・国立大学では理科系でも入試で社会科の一科目を受ける必要が有ったのです。
【大学合格の内示】
高校3年生の9月か10月頃に、教員室に呼ばれると、担任の先生から「県立医科大学から合格の内示がきた」と言われました。 「多分、村長さんが働き掛けてくれたのだ」と思いました。 両親に報告すると、母が大反対でした。 母は「国立大学の医学部以外は認めない」と言うのです。 県立医科大学の授業料は国立大学より高かったので、貧しい村に大きな負担を掛けたく無かったのだと思いました。
二、三週間後に、某私立大学の医学部からも「合格の内示」が来ました。 大学の総長は政治家(衆議員)でも有って、昔から父がボランティアで選挙運動を手伝っていました。 我が家に一年に一度、総長が挨拶に来られていました。私は小さい頃から挨拶して、何時も少し話をしていました。 もしかしたら、私を覚えていて「合格の内示」を出してくれたのかも? (この方は、私が高校を卒業した年に亡くなられました。)
入学試験を受けて無いのに、”合格”では『不正入学』です。 私の模擬試験の成績は、両校の偏差値より可成り高かったのですが、それでも、『不正入学』には変わりません。
【大学受験に失敗しました】
模擬試験の成績から、ほぼ間違いなく合格出来ると判断した金沢大学の医学部を受験する事に決めていました。 金沢大学の過去問だけやりました。 馬鹿な話しですが、不合格になるとは、全く思っていなかったのです。
一期校の試験は3月の初めに有りましたが、第一日目の朝起きると、見た事が無いほど多量に雪が積もっていました。 旅館の女将さんに相談すると、「貴方以外は、皆さん昨夜の内にタクシーを予約されました。今日はバスは運行されませんよ」と言うのです。「誰かの車に同乗を頼めないか?」とか話してみましたが、駄目でした。
来ないバスを長いこと待っていると、女将さんが気を利かせて呼んでくれたタクシーが来ました。試験場に着いた時は、私の得意な数学の試験が終わる寸前でした。結局、数学は0点だったのです。それでも奇蹟を信じて次の日も受験しました。 勿論、不合格でした。
東京のH義兄のお世話になって、予備校に通い出したのですが、急に血圧が上がり始め、絶不調になってしまいました。6月頃には血圧が190以上になり、薬を飲み始めました。予備校に行けなくなって、勉強が手に付かなくなってしまいました。
【アルバイト】
高血圧の薬を飲んで、体調が良くなって来たのが高校を卒業した年の11月頃でした。 両親は貧しい生活をしており、H義兄の所は二回目の出産で双子の赤ちゃんが出来ていましたので、「大学進学を諦めて自力で生きて行こう」と考える様になりました。
東販か?日販?がアルバイトの募集をしていたので、応募して働き始めました。 働き口が出来たので、姉の家の近くの安いアパートに移って自炊を始めました。 四畳半、共用の台所/トイレの古い小さなアパートでした。 職場で沖縄出身の三、四歳年上の青年と親しくなりました。彼は、「4年間大学に通える金を貯める」夢を持って働いていました。 彼には両親がいなくて、祖母に高校を卒業するまで面倒を見て貰ったそうです。 彼と話していると、私も頑張って大学に行きたいと考える様になりました。 私は、両親は少しは仕送りしてくれるし、実の兄弟以上に面倒を見てくれるH義兄がいましたから、彼より、ずっと恵まれていると思ったのです。
高校卒業後・2年目の9月に両親に大学進学について相談するために田舎に帰りました。1か月ほど、川釣りをしたり、水彩画を描いたり、熊野古道の途中に有る近露(ちかつゆ)に住んでいた一番上の姉に会いに行きました。父から借りた地図を頼りに、半分・獣道の様な山道を数時間・歩いたと思います。東京に帰って、アパートを引き払ってH義兄の家に引っ越して、勉強を始めました。
【大学に合格しました】
H義兄が、「慶応大学に入ったら家庭教師先を紹介できる。食費の面倒は見るから、この家から通学しなさい」と言ってくれました。 それで慶大の理工学部と、滑り止めに東京理科大の応用数学を受験する事にしました。 国立大学の受験勉強をしていたので、行く気は無かったのですが、東北大学の工学部・機械系も受けて見る事にしました。
慶大には6名程の集団面接が有って、「合格したら幾ら寄付してくれますか?」と聞くのです。「○十万円」、「百万円」と答えていましたが、私は予想外の質問で寄付は考えていませんでした。「貧しいので寄付できません」と言う様な答えをしたと思います。H義兄が、「嘘でいいから百万円と言うべきだった!合格は難しいよ!」と怒りました。 H義兄が慶大の合格発表を見に行ってくれて、自分の事の様に喜んで、「合格」の電話を掛けてくれました。 入学金を払いました。
半分骨休みのつもりで、塩釜の昔・遊郭だった旅館に泊まりました。 他の受験生達は緊張した雰囲気でしたが、私は旅館の二十歳代の主人と昵懇(じっこん)になって四方山話をしました。 東北大も合格しました。 迂闊(うかつ)にも、両親に東北大の合格を言ってしまったのです。 母が「東北大に行け!」と何回も電話を掛けてきて、叔父達からも、電話が掛かってきました。
親身になって私の事を考えてくれていたH義兄を悪者には出来ませんから、生活の目途が全く付いていなかった東北大に進学する事にしました。 次回は、私の貧乏学生時代について書きます。
(余談 :恵みの雪) 入社して数年後に、金沢の雪は私にとって『恵みの雪』だったと気付きました。 機械工学では私の得意な数学、特に幾何学が役立ちましたが、開業医では生かせません。 私は技術屋として楽しい、悔いの全くない人生を送る事が出来ました。 決して負け惜しみでは有りません。