- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

手島益雄「広島県続儒者伝」東京芸備社  大正14

2014年04月10日 | 教養(Culture)
タイトル:広島県続儒者伝
著者:手島益雄(日本電報通信社名古屋支局長)
出版者:東京芸備社
出版年月日:大正14




手島益雄「タイトル
広島県儒者伝 」

、シリーズ名、偉人伝 ; 第1編 、出版地:東京、出版社:東京芸備社、出版年:1925、大きさ、容量等
26p ; 24cm、装丁 : 和装

高島は明治38年には児童研究の傍ら、独協中学などで修身を教え、修身の教科書も執筆していた。
そして高島平三郎「現代の傾向と心的革命」洛陽堂 1910を洛陽堂からだし、ここでは世相批判を展開し、修身の授業や教科書の執筆を通じて悪しき世間の風潮に対して説教する人という面が強くなる。かれの問題意識が学術研究限定から大いに拡散する。大正4年ごろになると高島の児童学は完成され、以後は洛陽堂を舞台として東洋大学の弟子:関寛之が高島がこれまで構築してきた児童学・児童研究を継承する形での体系化に乗り出していく。 しかし、これは海外からの新しい学説の導入という面で後れを取るところとなり、関が児童学概論→児童学要領→児童学原理―児童の身体及精神(大正13) →児童学原論 児童の身体及精神(昭和2) →増訂版児童学原論 児童の身体及精神 (昭和9)をだした段階においてそれは決定的となっている感じだ。
わたしは心理学史に関しては門外漢だが、おそらくそういう見方で大過はなかろう。



タイトル:名古屋市論
著者:手島益雄
出版者:日本電報通信社名古屋支局
出版年月日:大正3

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手島益雄「広島県百人物評論」日本電報通信社名古屋支局、大正4

2014年04月10日 | 教養(Culture)
タイトル:広島県百人物評論
著者:手島益雄 著
出版者:日本電報通信社名古屋支局
出版年月日:大正4


旧藩主のほか、加藤友三郎、小鷹狩元凱(こたかりもとよし)
仁丹の森下博、教育者の高島平三郎。高楠・花井、山科礼蔵、富士川・呉秀三、永井潜、下田次郎らの名前が
和田英松(沼隈郡水呑村)とか宮城道雄(父親が沼隈郡鞆出身、ご本人は神戸生まれなので除外か)といった名前はなく、手島が考える百人の中からは漏れたらしい。
百という当時流行した物事を括り付ける便宜的カテゴリー。意味があるのは手島の関心圏とか人物の掲載順序













歯に衣着せぬ高島評。手島自身の言葉を引用すれば高島に向けて空鉄砲(実弾だと人は傷つくが空鉄砲は音だけで無害)を打ったといったところか。



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中萩原・慈雲寺の「一葉女史碑」 

2014年04月10日 | 断想および雑談
慈雲寺における序幕式には、小野静村長や村内の有力者、また親族の人々や一葉ゆかりの人々が集まりました。

 遺族を代表して謝辞を述べたのが、眞下専之丞の孫であり、樋口一葉の家に頻繁に出入りし、一時期は許婚(いいなずけ)でもあった元山梨県知事阪本三郎(渋谷三郎)であったことは前に触れた通り。

 阪本三郎は、文官の正装で声涙共に下る挨拶をしたという。

 序幕式の後、大藤小学校の講堂において記念文芸講演会が行われましたが、この時、壇上に上がったのは馬場孤蝶・戸川秋骨・高嶋平三郎の3名。

 前日、10月14日にも、甲府の春日小学校の講堂において、馬場・戸川・高嶋の三氏は記念講演会を開いていました。

 この「一葉女史碑」の発起人に名を連ねているのは、益田勝俊・萩原仙精・廣瀬彌七ら20名。(以上全文引用)

人付き合いの良い高島だが、一葉の妹クニ(樋口邦子)つながりだと『高島先生教育報国60年』に誰かが書いていた。
高島米峰の文章だった。
高島米峰曰く、世話人の馬場孤蝶が一葉の妹からの連絡を誤解して高島平三郎とすべきところを、間違って高島米峰と記念碑に刻してしまった。あとで間違いが判明し高島平三郎名は追刻したもの。これを知らされた米峰は発起人になることを承認せざるをえなかったらしい(『高島先生教育報国60年』264-65頁)。
慈雲寺(山梨県甲州市塩山中萩原 352










中萩原・慈雲寺に先般電話したのだが、耳の遠い老人(おそらく住職)が出てきたが、会話が成立せず。
台東区の樋口一葉記念館に電話したが、樋口クニのことは分からないとのこと。山梨県文学館では一葉女史碑に関する問い合わせ中(2009年に開館20周年記念企画展「樋口一葉と甲州」を開催)。本石碑の裏の拓本があるらしい。
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