- 松永史談会 -

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石井賚三「電灯電力電鉄及屎尿公営に関する新研究」

2014年04月27日 | 断想および雑談
タイトル:電灯電力電鉄及屎尿公営に関する新研究

著者:石井賚三

出版者:洛陽堂

出版年月日:大正10






河本俊三時代の河本洛陽堂の出版物だ。著者の石井は同郷(松永町)の人物。河本とは同郷の石井賚三(いしいらいぞう)の著書の出版だ。本の内容は学位論文ばりのタイトルだし、第一内容が特殊すぎて・・・・・自費出版だったのだろか。河本俊三に対しては大いにその経営感覚を疑いたくなるような部類の出版物ではある
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ブラボー!大場一義『高島平三郎:体育原理』(「身体と心の教育」所収、講談社)

2014年04月27日 | 教養(Culture)
高島平三郎の名著『体育原理』の紹介。高島平三郎の人間像に関して、尊敬の念を込めて書かれ水準が高い論文だ。高島平三郎の人物像を学習する場合、一押し!
高島は我が国における体育教育の基本理念(今日われわれが普通に理解している体育は身体だけでなく心を育てるべきものだという理念をいち早く提起)を構築した人物だった。『体育原理』(明治37)は高島が現在の日本体育大学(日本体育会体操学校)の校長時代に執筆した体育思想書だ。


高島平三郎は、柔道の方はあまり上手ではなかったようだが、嘉納治五郎から薫陶を受けている。
この本が出版されたころ、宗教学者融道玄の兄貴:小田勝太郎(福山藩士銀八三世の長男、1862-1935)は千葉県佐倉中学の教員だったが、この小田は嘉納治五郎の弟子であり、高島(学習院の教師、1965-1946)は明治20年ごろ嘉納(学習院の柔道師範)の家塾でしばらく塾生20余人とともに起居を共にしている。小田と高島とは年齢がことなるが嘉納塾同窓会で顔をあわせていたはずだ。小田は17-21歳の時に沼隈郡松永小学校などで教員をしており、小田の名前は『高島先生教育報国60年』などにも見かけないが高島の性格からしてこれほど接点が多い小田と交流を持たなかったはずがない。


小田勝太郎については融道男『祖父 融道玄の生涯』、勁草書房、2013が参考になる。
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例示主義ー高島平三郎の一つの書法ー

2014年04月27日 | 教養(Culture)
現今の心理学者どもが高島を批判する第一点目は、明治期の心理学者には多い問題点だが、欧米の専門書を消化吸収(受容)して、平明に説明することに意を注いでいくという方向性をもつもので、ここからは学説間の理論的な矛盾に留意して事実に立ち戻って吟味するというオリジナルな研究作業とはならず、ましてそうした自分の集めたデータによって、自分なりの理論体系を生み出していく方法論的な立場を身につける機会を自ら放棄してしまったというものだ(大泉溥「高島平三郎著作集・第六巻・解説、45頁」)。大泉が引き合いに出す波多野らのピアージェによる臨床心理的方法との差を念頭に置いた批判だが、草創期の児童研究に学術的な完璧性を求めるのは聊か酷というもの。
確かに高島は帰納的方法、科学的方法を志向したが、現実はヘッケル流の生物学の学説に対する信仰告白に終始したようなところもある。ただそうした(児童研究の中で遭遇した現実をヘッケルの教説をベースに演繹的に解釈した)部分はあるが、児童研究のパイオニアとして十分にその職責を果たしたと思うのだ。
倉橋惣三八紘編集の雑誌「婦人と子ども」16-9(大正5年)に転載された高島の小論文:家庭教育の基礎としての服従性

親が子供を育てていく中で行う親子関係、家庭教育の在り方を「子供が親に対して服従」するあり方を切り口として説明したものだが、高島の具体的で手際よい説明には感心させられる。こういうやり方が大泉の批判する例示主義
だったとするとそれは全然OKじゃんということになるだろか。
はやくから高島は今日動物行動学(霊長類学)や文化人類学(異文化理解)の分野で常用されている参与観察という方法を児童研究の中で実践しており、たしかに万事をrecapitulation理論の中で解釈しようとしたという難点はあったのだが、そういう面では中々大した学者だった。

それにしても高島の服従性に関する分類説明(分類の妥当性に関しては異論を挟む余地があるかもしれないが)は明快だ。
威嚇的服従・習慣的服従・利益的服従の3者を他律的と規定し、こういう形ではなく児童自身が自律的に行う感情的服従・合理的服従を喚起出来るような方向に指導していくことが教育的課題だと述べている。
こういう高島の論評はいじめや児童虐待が社会問題化している現代(高島は明治末に研究会報告された当時の児童虐待に対しコメントを行っている)においても役立つ知恵に溢れている。一応別の面から突っ込みを入れておくと、家父長的家族制度下において親子関係を支配ー従属(服従)のいう枠組みの中でだけ考える場合には高島の服従論は有意かもと思う。

それはともかくとして、高島が物事を体系的に捉える抜群に明晰的な頭脳を有していたことは若いころの心理学の教科書や名著『体育原理』を読めば一目瞭然だ。

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