- 松永史談会 -

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先憂会刊雑誌「まこと」11巻12号・臨時増刊号中の会員名簿

2014年04月25日 | 教養(Culture)


まこと主義の民衆化を目指すとか。山本瀧ノ助の一日一善の「まこと」版のようだが・・・・。
「この主義を沼隈という基礎観念の上に立派に造り上げようとする一つの社会奉仕運動」というのは、誤植でなければ、ちと意味不明。ここは基礎観念ではなく実体を伴う「基礎地域」or 魂の郷愁を喚起するところの「Heimat(生まれ故郷)」とすべきなんだろなぁ~。無論、それらに類する「源郷」という言葉でもよいかもしれない。

大正10年と言えば沼隈郡制の廃止が役所の吏員たちに伝達された時代。
「新沼隈建設の権威」・・・・・社会教育活動、当時は地方改良運動の活動母体:先憂会は過去形になりつつある沼隈郡という地域に何故粘着したのだろ。当時は郡誌編さんちゅうでもあり、先憂会内には独特の高揚した気分が横溢してたのだろか。
明治末~大正期には恩賜を受けず、国家に負担をかけない「良民」すなわち一般勤労国民となることが奨励された。山本瀧之助が河本亀之助の支援を得て発行した雑誌「良民」(良民社)もそういう時代の産物。先憂会は元祖NGOだったわけだが沼隈郡に作られた、云わば「良民」会でもあったわけだ。


購読者名簿があった。河本洛陽堂の名前も・・・・。平河町5-36は故河本亀之助の住所だ。宮沢裕は総理大臣宮沢喜一の親父。


自動道話社・西川光二郎、高島平三郎の名前も・・・・。そして修養団幹部たちの名前が・・・・。西川と先憂会との繋がりもこの「修養」がらみ?!


この史料は村田露月家での「まこと」調査のときに見かけなかった代物だが、とても有用だ。

ちと写真が手ぶれでピンボケ・・・・・大正11年5月先憂会東京例会での記念写真、テーブルに着席しているのは衆議院議員井上角五郎、となりに実業家の宮沢裕(宮沢喜一の父親)、浜本鶴賓・一人置いて河本英三郎と村田露月、その後ろに立っているのが河本俊三(洛陽堂主)、高須村出身の医師の三島粛(簫)三(しゅくぞう/しょうぞう)。高島平三郎とか丸山鶴吉の姿はみられない。


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高島平三郎の「雉経松(首つり松)」考

2014年04月25日 | 教養(Culture)
高島20歳頃の「教育時論」掲載の論考だ。この当時から迷信に関する哲学的思考ないしは論理的思考のできる非常に冴えた御仁だったことが判る。当時から心理学関係の文献を読んでいたらしい。自学自習した知識でもってレヴィ・ブリュール流の「原始的心性」の非合理性を打破しようとする青年高島の気概の感じられる論考だ。本稿は自らに言い聞かせるという意味もあるのだろうか。特に「強く心上に捉住してはなれざる観念は必ず以て実事に化せんと欲する傾向あるものなり」という部分など。

青年高島は井上円了の妖怪研究など読んでいたのだろか。

後日精読予定
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