高島の後醍醐天皇に対する「臣節」ぶりは今の私たちにはなかなか理解しにくい部分だが、当時は、いや高島はそういう生活世界に生きていたということだろ。明治末段階に無政府主義者の皇室に対する態度を「狂気」じみていると言っている。国民的統合のかなめとして天皇という存在がどうしても必要だと彼は考えていたのだ。国家を持たない民族は悲惨だとも考えていた。
高島が講義の導入部分で好んで使っていた言葉:随処作主
語意は
環境や境遇などに左右されず、どんなところにあっても主体性を保つこと。すると必ず道 が開けて正しい成果が得られる。周りに流されることなく主体的に生きていかなくては ...
高島と交流のあった京都・天竜寺の関精拙(京都・天龍寺240世住持)
関の制作物「水月」だ。禅の思想を工芸(造形)的に再構成したもの。天龍寺の大方丈から後醍醐天皇廟に至る長い回廊の途中に掛けてある。
高島は各宗各派の宗教家と広範に付き合っていたようだ。
講演の名手高島くらいになると名僧以上の説教力があったのではなかったか。