みちのくの風の旅人 [ 愛と義の街(上杉の城下町)から情報を発信中 ]

米沢・山形・東北の自然や文化・風土を季節の便りとして届けています。HP[新・天空の流れ雲]と合わせてご覧ください。

終戦の日を前にして(2:伯父たちの戦死 )

2014-08-14 20:41:36 | 日記・エッセイ・コラム

Cimg5984 私が生まれる8年前には、まだ戦争中だった。物心の付いた昭和30年代の前半は、まだまだ貧しい時代だった様に記憶している。ラジオが有っただけで、文明の利器と呼ばれる物は何も無かった。当時子供の頃、両親や祖母、伯父や伯母から戦争の事や、戦死した伯父の話を聞いた。祖父は戦死した息子の悲しみを抱きつつ、私が生まれる2年前に亡くなった。伯母達の夫も戦死している。不幸な戦争が無ければ伯父たちと会えたと思うと、運命Cimg5989を恨むしかない。

 

 36・37年前伯母がよく行く浦和の氷川神社に、朝の散歩に一緒に出掛けたのを、今でもよく覚えている。伯母は戦死した夫の慰霊のために毎日の様に訪れていた。

 

 自分の子供たちは、昭和から平成に変わる時代に生まれ、戦争の事は殆ど知らない。戦争の理不尽さを知らない人がますます多くなり、反戦・平和の運動も下火になりつつあり、若者は殆ど関心を示さない。今から40年以上前の高校生の頃「戦争を知らない子供たち」と言うフォークソングが流行した。今でもよく覚えている。

以下、Googleの検索記事を引用した。

戦争を知らない子供たち(ジローズ)の歌詞
 戦争が終わって 僕らは生まれた 戦争を知らずに 僕らは育った おとなになって 歩きはじめる 平和の歌を くちずさみながら 僕らの名前を 覚えてほしい 戦争を知らない 子供たちさ 若すぎるからと 許されな...

 
1970年に発表されたジローズ(第二次)のヒット曲。作詞は北山修、作曲は杉田二郎。 1971年2月5日にレコードが発売されるとオリコンチャート最高11位、196,000枚を売り上げるヒット曲となった。

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終戦の日を前にして(1:戦争の悲劇 )

2014-08-14 07:08:09 | 日記・エッセイ・コラム

 毎年この時期になると、太平洋戦争の特集番組が放送される。今なお広島と長崎の原爆の悲劇は終わる事無く、原爆を知らない2世・3世の人たちも、体に原爆の傷を負い苦しめられている。

Cimg5981  戦況が悪化し人間魚雷の製造に関わった91歳の人が重い口を開いた。今自分が生きている間に、どうしても伝えておきたいという、使命感からの行動だった。能登半島の珠洲市で市民を前に、戦争の悲劇を伝える姿がとても印象的だった。

2014年8月13日放送 5:00 - 6:30 NHK総合
NHKニュース おはよう日本 (リポート)

石川県珠洲で杭田忠三さんは戦争体験について語った。内容は人間魚雷「回天」携わった経験だった。杭打さんは戦争当時、広島の呉海軍工廠に見習いとして入り、訓練後に配属されたのは回天を運ぶ潜水艦の設計部門であった。金沢で会社を起こした杭田さんは当時の仲間が亡くなる中で回天について伝えようと考えたという。回天について思い出そうと石川県白川にいる、乗組員の三納寛のもとを訪れ話を伺った。そうして迎えた講演の日、杭田さんは回天について語り出した。

 シベリア抑留には多数の女性がいた事について、本人や姉妹のドキュメンタリーの番組もあった。筆舌を尽くし難いとしか、形容できない。二度と戦争は起こしてはならない、同じ不幸は2度と繰り返してはならないという、強い思いを戦争を知らない世代の人々に伝えておきたいと使命感から、辛い体験を話されていた。

 シベリア抑留者の苦難の歴史を掘り起こす、全国抑留者補償協議会の戦後の歩みと活動の中で、斎藤六郎会長(山形県出身 故人)の果たした役割の大きさを仲間たちが語っていた[参加者の高齢化により、協議会の役割と意義について一定の成果があったとして、平成23年に解散した。  

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