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ハイカーズ・ブログ(徘徊者備録)

「あなたの趣味はなんですか?」
「はい、散歩です」

「こうなる前からですか?」
「はい」

中国語の勉強中?

2010-04-23 19:41:58 | 太極拳
レベルの関係で言うと、太極拳の型の練習と推手は、基礎と応用の関係にある。

太極拳の型の練習は、自分自身の技量の程度を知るものであり、推手は、自分自身と人の技量を知るものである。
 八種類の手の運び(手法){ポン、リュイ、ジー、アン、ツァイ、リエ、ジョウ、カオ}五種類の足の運び(歩法){前進、後退、左、右、中定}という十三勢の応用は、太極拳の型の練習に比べるとより具体的に陰陽、五行、八卦という中国古典の哲理が現れている。

したがって、太極拳推手を練習しながら、同時に中国の伝統文化を体験していることになる。

自らの技能の上では、「一枚の羽根の重さを識別し、ハエや蚊が我が身に止まれない」という鋭敏な感覚を身につけなければいけない。

楊露禅という人は、手の上に止まっている小鳥が飛び立とうとして脚で手を蹴ろうとしても、手の動きが軽やかで素早く反応するので、手を蹴って飛び立つことが出来ない、また蝿が飛んできて手の上に止まろうとしても、手の動きが軽やかで素早く反応するので止まることが出来なかったという。

気不涌出・面不改色(息切れもせず、顔色も変わらない)

2010-04-20 15:27:24 | 武道関連
型武道は、痛みを伴わないので、自分で出来不出来を判断するのが非常に難しい。
自分の至らなさに常に思いやる謙虚さが必要だ。
自分のことは自分で判らない。鏡に映った自分は本当に自分ではない。
人を見て、自分に置きかえる。人の振りみて我が身を直す。

「鬆」は姿勢正しく、全身を協調させ、動きをリラックスさせて、変転が円活(動作が円形でまるく、円滑でみていて活気のあること)のものにする。

練習のとき、全身がこわばり、動作が一本調子では、例えその人の手足の位置が正しく、頭部や首も正しく置かれていても、見る者には大変不自然でぎこちない。

初心者は例え理論上では、腰部が軸になり胴体部が四肢を導き活動を進めると知っていても、意識と肢体動作はまだ密接に呼応しておらず、全身を協調させることが出来ない場合もある。

剄力を用いる時は繭から糸を取る如く綿々として絶えることなく力はこわばらず、滞ってはならない。

以上は太極拳の教えではあるが、他の武道にも十分学ぶ点があると思うがいかが?

理詰めで「日本刀練習」

2010-04-16 13:34:40 | 武道関連
毎日新聞4・16 インサイド
球道 王貞治の野球人生

畳敷きの部屋で素足で立ち、バットの代わりに日本刀を構え、わらの束や天井からつるした半紙をスパッと切る王貞治。古くからおなじみの「荒川道場」の光景だ。

従来、この練習は集中力アップや精神統一が目的の、ややアナクロなイメージで捉えられてきた。
しかし、荒川博が王に日本刀を振らせた目的は、それだけでない。
理想的なスイングをマスターするために、理詰めで考えた末の練習だった。

荒川は言う。
「日本刀でわらを切るときは、真上から振り下ろす感じで振って、初めて断面が平らになる。これがダウンスイングだ」。
そのためには両腕の力が均等になっていなければならない。
両腕のバランスが崩れると、刃の軌道がが上下にぶれて側面がわらの表面に当たり、刃がきれいに入らなくなる。
左利きの王は、両腕の力を均等にするため、右手一本で素振りしたこともあった。

さらに日本刀による素振りは、両手首の使い方も上達させるという。
「両手首を絞り、最後の一押しをかけないとスパッとはいかない」と荒川。
刃が柔らかな紙に入った瞬間に、リストを利かせて刃先を鋭く走らせないと、うまく切れない。
これはバットでボールを打ち返す瞬間と、同じ手首の動きになるという。

王がトレーニングに使った日本刀は刃渡り76センチ、重さは焼くキロもあるしろもの。
腕や手首の筋肉も、自然と鍛えられる。



荒川が武道を打撃に生かそうと考えたのは、現役時代にまでさかのぼる。
最初は居合道を学んだ。
また、歌舞伎役者の六代目尾上菊五郎が合気道を学んでいると知り、「一流の人が学んでいるなら何かある」と合気道の道場の門も叩いた。

ある日、荒川と合気道家・藤平光一のいる道場を訪ねた王は「打席でボールが見えない」とこぼした。すると、藤平が言った。「球はベースの上を通るんでしょ。『ベースの上に来るんだから』と思えばいい」

野球に関して素人の言葉を、すぐに受け入れられなかった。しかし、言葉の意味について考えを巡らすうちに、王は気づいた。
ボールを見えなくしているのは、己自身の焦りや力みだ。余計なことを考えず、しっかり球を見て打つ事に集中すればいい。
「そうして打席での余分な動きが、そぎ落とされていったんだ」

推手講習

2010-04-14 07:37:44 | 晩年学
太極拳三段の一次試験課題の「推手基礎套路」講習に行く。これも杖と一緒で甲乙ペアが必要。一人参加の私は先生に相手してもらえ幸運だった。以前合気道を少しかじったので大変興味深い。新しいことへのチャレンジは新鮮で楽しい。 解説書の序文抜粋 推手運動は、型の練習(一人練習)と散手(格闘技)との中間に位置する独特の拳術だ。興味を引き立て、友情を深め、経絡を疎通させ、気血の流れを促進させる。年齢・性別・体質・季節・服装・道具等の制約がない。

「自らその場に臨まなければ、どうして入神の域に達し得ようか!」

老いる技術 その参

2010-04-12 16:06:13 | 晩年学
様々な困難が老年と共に個人を襲う。
それに打ち克つためには、それをまともに見る必要がある。

歳をとる技術とはかような不幸の数々と闘う技術である。
一生の終わりを幸福な時期とする技術である。

老人の採るべき二つの道

(一)決して意気阻喪しないこと。まだその時にもならないのに、身体に諦めをつけるものでない。無論感情も同様である。

 前の日にしたことは今日も出来るのであるが、一度しなくなったことは永久に手がつかなくなる。修練と忍耐とは全く素晴らしいことをしてのけるものなのである。

(二)老年を受け入れること
それは凪ぎ渡った歳であり、諦めの歳であるがゆえに幸福の歳でもありうる。

若いときは好もうと好むまいと他人と競い、争いに巻き込まれ勝負を決しなければならないこともあったが、それも終わった。
若い頃素晴らしい異性に出会えば、動揺し相手を欲し手に入れたくて七転八倒した。
今では若くて美しい異性も一幅の絵画を見るように楽しく眺めることが出来る。

遠い未来に対する責任からも解放されている。

しかし、もう何年かしたらあの世へ行く身の上だのに、嫉妬と恨み言で往生際をだいなしにする野心深い老人もいる。

好奇心を無垢のまま持ち続けている人にとっては、隠居こそ一生のうちで最も楽しいときである。

老いる技術 その弐

2010-04-12 15:48:51 | 晩年学
60ってこんなにガキか成って知る  崩彦

年月と共に移動してきている我々の眼をもってすれば、我々は依然として青年なのである。(他人から見れば立派な老人であっても、自分ではよる年波を容易に自覚できない)
我々は長い間、老年期から免れている気でいる。
壮年時代から老年時代にかけては、移り変わりが緩慢である。だから変わっていく人ですらほとんど老化を感じない。

しかし、老年期は確実に訪れる。
十一月の朝となって疾風が巻き起こる。金色の木の葉が吹きちぎられた背後には、冬の骸骨めいた木立が突如として姿を見せる。
それこそがまぎれもない老年の姿である。

○皺はよるほくろは出来る背はかがむ頭ははげる毛は白うなる

○手は震う足はよろつく歯は抜ける耳は聞えず眼はうとくなる

○よだたらす目くそはたえず鼻たらすとりはずして(放屁)小便もする

○またしても同じ噂に孫自慢達者自慢に若きしゃれ言

○くどうなる気短になる愚痴になる思いつくことみな古うなる

○身にそうは頭巾襟巻き杖眼鏡たんぽ温石しゅびん孫の手

○聞きたがる死にともながる淋しがるでしゃばりたがる世話焼きたがる

○宵寝朝寝昼寝ものぐさ物忘れそれこそよけれ世にたらぬ身は

老いる技術 その一

2010-04-12 10:21:34 | 晩年学
我々は生涯の様々な年齢に全くの新参者としてたどり着く。
だから多くの場合は、いくら歳をとっていてもその年齢においては経験不足なのである。

人は老いていくが、たいていは手探りでその境地に入っていく。
辺りを見回し、背後を振り返り、ためらいがちに歩を進める。
誰しも老人になりたくない。
しかしまた、それが逃れられない道であることも知っている。

老いは女性により残酷だ。
かって美しく愛らしかった老婦人が陥る最も危険な滑稽さは、自分がもはやそうでないことを忘れてしまうことである。

精神の欠点は顔の欠点と同じで歳をとるほどひどくなる。


人は一生のうちにしばしば述懐する。
色々なことに手を出すのは避けなければならない。
特に歳をとればとるほど、新しい仕事に就くことを避けなければならない。
だがそんなことを言ったって、自他を戒めたってだめだ。
歳をとるということが既に、新しい仕事につくことなのだ。
すべての事情は変わっていく。
我々は活動することを全然やめるか、進んで自覚を持って新しい役割を引き受けるか、どちらかを選ぶほかない。

試練は年齢と共に高まる。

歳をとることは何の秘術でもない。
老年に耐えることは秘術である。

青春は酒なしに酔い、老年は酒によってこそ若返る。