野坂昭如の「七転び八起き」
毎日新聞連載
八百長問題について
元来相撲は芸能である。
日本に伝わる他の芸能と同様に古来五穀豊穣を願い、神に捧げる儀式に始まる。
四股は大地が揺らがぬように力士の丈夫な足で固めんとする所作。
せり上がりは大地から命の萌え出る姿。
力士は土俵に足踏み入れる前、口を濯ぎ柏手を打って塩を撒く。
神の宿る場所に穢れ多き身を運ぶ前の所作。
常に浄を心掛けるのだ。
つまり相撲は日本列島固有の神事に属する。
かって、五穀豊穣こそ万人の願い。
太陽と水の恵みを有り難いとする気持ちとともにあった。
次第にその気持ちは薄れ、この薄れとともに相撲が神事から離れていったのはごく自然なことなのだろう。
角界は角界で伝統の上にあぐらをかき続けてきた。
相撲の職業化が進むにつれ、四股名も代わった。
山や川、土地の名前が当たり前だった昔に比べ、突拍子もない類が増えた。
外国人力士が登場、これに対し今も賛否あるが、角界の現状を見ればこの存在抜きに語れない。
日本の子供たちから原っぱを取り上げ、喧嘩一つさせない。
そういう世の中にした大人がいる。
相撲が勝負を争うようになって、興行化した。
五穀豊穣の気持ちが日常から薄れ、相撲を神事から遠ざけたのは我々である。
勝ち負けを争うのは格闘技として当然。
一年六場所、そこへ巡業が入る。
365日稽古ずくめ。
このすべてを本気で取り組めば体が壊れてしまうだろうことは想像がつく。
力士には自分の体と土俵を守るための心づかいがあって当然。
それをインチキとはいわない。
しかし八百長めいたことは昔から言われる。
同時に見る側もそれを楽しむゆとりがあった。
八百長以上に力士の佇まいに敬意を表していたのだ。
日本には、文化、芸能を楽しみ育てる成熟した土壌があったはず。
風情を味わう気持ちを誰もが持ち合わせていた。
この度のお粗末な八百長は、やるほうも攻撃する側にも子供っぽさが目立つ。
相撲協会、親方、力士はいわずもがな。
こっちはもともと成熟していなかった。
成熟したはずの世間がいつ頃からか、穏やかで和を尊ぶ気風が薄れ、ある日突然、ヒステリックに一つの事について激しく糾弾する気運が目立つようになった。
マスコミというものは世間を騒がせる事件なり事故が起きた場合、すぐさま正義の味方、警世家を気取るもの。
つれて、各方面の諸賢人、評論化が登場。
名論卓説の雨あられ。
御託を述べる。
次第に世間様も「そうだ、そうだ」と同意。
ぼくにしても悪者をつくって自分を棚上げる癖がついている。
その上、日々平穏を願う。
それにしても、成熟したはずの日本人のよさはどうしてしまったのか。
神事、国技、伝統、興行、スポーツ。
ぼくたちは相撲をいろんな角度で見ながら相撲と上手に付き合ってきたのだ。
日本人はいい意味であいまいさを大切にした。
場所を休んではいけない。
続けるべきだと思っている。
この際、徹底的に膿を出せ、相撲界累年の悪幣を根こそぎ浄化せよとの声が広がる。
果ては相撲界消滅、ご破算となってめでたしめでたしと、それで世間の気持ちはすっきり収まるのだろうか。
いったん国技も伝統も打ち棄てて、それこそ裸一貫昔ながらのおっとり相撲が蘇るのなら結構だが、それには相撲界にも世間にも成熟さが求められる。
毎日新聞連載
八百長問題について
元来相撲は芸能である。
日本に伝わる他の芸能と同様に古来五穀豊穣を願い、神に捧げる儀式に始まる。
四股は大地が揺らがぬように力士の丈夫な足で固めんとする所作。
せり上がりは大地から命の萌え出る姿。
力士は土俵に足踏み入れる前、口を濯ぎ柏手を打って塩を撒く。
神の宿る場所に穢れ多き身を運ぶ前の所作。
常に浄を心掛けるのだ。
つまり相撲は日本列島固有の神事に属する。
かって、五穀豊穣こそ万人の願い。
太陽と水の恵みを有り難いとする気持ちとともにあった。
次第にその気持ちは薄れ、この薄れとともに相撲が神事から離れていったのはごく自然なことなのだろう。
角界は角界で伝統の上にあぐらをかき続けてきた。
相撲の職業化が進むにつれ、四股名も代わった。
山や川、土地の名前が当たり前だった昔に比べ、突拍子もない類が増えた。
外国人力士が登場、これに対し今も賛否あるが、角界の現状を見ればこの存在抜きに語れない。
日本の子供たちから原っぱを取り上げ、喧嘩一つさせない。
そういう世の中にした大人がいる。
相撲が勝負を争うようになって、興行化した。
五穀豊穣の気持ちが日常から薄れ、相撲を神事から遠ざけたのは我々である。
勝ち負けを争うのは格闘技として当然。
一年六場所、そこへ巡業が入る。
365日稽古ずくめ。
このすべてを本気で取り組めば体が壊れてしまうだろうことは想像がつく。
力士には自分の体と土俵を守るための心づかいがあって当然。
それをインチキとはいわない。
しかし八百長めいたことは昔から言われる。
同時に見る側もそれを楽しむゆとりがあった。
八百長以上に力士の佇まいに敬意を表していたのだ。
日本には、文化、芸能を楽しみ育てる成熟した土壌があったはず。
風情を味わう気持ちを誰もが持ち合わせていた。
この度のお粗末な八百長は、やるほうも攻撃する側にも子供っぽさが目立つ。
相撲協会、親方、力士はいわずもがな。
こっちはもともと成熟していなかった。
成熟したはずの世間がいつ頃からか、穏やかで和を尊ぶ気風が薄れ、ある日突然、ヒステリックに一つの事について激しく糾弾する気運が目立つようになった。
マスコミというものは世間を騒がせる事件なり事故が起きた場合、すぐさま正義の味方、警世家を気取るもの。
つれて、各方面の諸賢人、評論化が登場。
名論卓説の雨あられ。
御託を述べる。
次第に世間様も「そうだ、そうだ」と同意。
ぼくにしても悪者をつくって自分を棚上げる癖がついている。
その上、日々平穏を願う。
それにしても、成熟したはずの日本人のよさはどうしてしまったのか。
神事、国技、伝統、興行、スポーツ。
ぼくたちは相撲をいろんな角度で見ながら相撲と上手に付き合ってきたのだ。
日本人はいい意味であいまいさを大切にした。
場所を休んではいけない。
続けるべきだと思っている。
この際、徹底的に膿を出せ、相撲界累年の悪幣を根こそぎ浄化せよとの声が広がる。
果ては相撲界消滅、ご破算となってめでたしめでたしと、それで世間の気持ちはすっきり収まるのだろうか。
いったん国技も伝統も打ち棄てて、それこそ裸一貫昔ながらのおっとり相撲が蘇るのなら結構だが、それには相撲界にも世間にも成熟さが求められる。