ハイカーズ・ブログ(徘徊者備録)

「あなたの趣味はなんですか?」
「はい、散歩です」

「こうなる前からですか?」
「いいえ」

今というときに無心で立つ

2009-12-19 09:12:19 | 晩年学
毎日新聞夕刊 新幸福論 生き方再発見 
臨済宗僧侶、作家 玄侑宗久


毎朝新たにできた予定と調整しながら、「やりくり」しています。
「なりゆき」です。
万葉集や古事記、日本書紀で一番多く使われているのは「なる」という言葉。
実がなる、仏になる。
「なる」というのは我々の合理性では捉えられない変化。
稲がなるというのも、おがみたいほどすごいことなので、「おいなりさま」という言葉を作った。

時の変化と共に、思わぬ状況になる。
予断を持たず、成り行きをよく見る。
大切なのは、新たに出てきたことに、どう「仕合わせる」かです。
刀を持って向き合っていると想像して下さい。
相手がどう出るかを予測しているときと、予測していないときはどちらが強いでしょう。
何も予測していなければ、相手の動きに即応じられる。

予測していると、予測と違った行動に出られたら、戸惑いが生まれ、隙につながる。


しあわせ、という和語は、奈良時代に「為合」という字を当てたのがはじまり。
天が相手ですから、ほとんど運命の意味でした。
自然を制御下に置こうとする西洋と違って、自然は手に負えないものとわかっていました。やりくりしながら付き合っていた。

室町時代に「仕合」という字になる。
人間体人間の話になってくる。
相手の人間に対して、どうしあわせるか。

そして明治以降、英語のハピネスを幸福と訳し、幸せと呼ぶようになった。

幸福の特徴は計量化できること。
例えば、お金の量、目的の場所までの距離、よい事が継続する長さとか、そういうもので測れる。

日本古来の「しあわせ」と現代の「幸福(ハピネス)」はこの時点でずいぶんと変わった。

中国の思想家の荘子は「便利な道具が一つ増えるたびに心が変わっていく」といった。
その時に芽生える、少しでもうまくやろう、効率よくやろうという気持ちを「機心」という。

90歳のおばあちゃんが、「電気釜ができたときは本当に嬉しかった」といいます。
寒い朝にご飯を炊くのがどれほど大変だったかを考えれば、その通りだと思う。
でも、得た時間はすぐになくなる。
ものが機心を芽生えさせることで、しあわせ感は増えていかない。


人間は善もあるし悪もあるし、状況の変化で揺らぐ複雑な存在です。
状況に関係ない「本当の自分」なんてない。
それなのに現代人は、理解できる本当の自分がいると思い込んでいる。

習慣的に出てくる自分に慣れてはいるでしょうが、それを本当の自分だと思う必要は無い。
こんな自分も出てきたぞ、でいいんです。
状況の中でどんな自分にもなれるのに、目標や計画を立てすぎて、自然に任せることをしないから、目標程度におさまってしまう。

禅の世界では「予断を持つな」という。
未来のことなど、誰にも分かりません。
計画とか目標というのは、未来に対するある種の予断です。
新たな条件が加われば、未来のシュミレーションは崩れる。

目標を持って生きることが、是とされすぎているのではないか。

未来に目を向けずぎずに、今というときに、無心で立つことだ。

ネコの視点比率95%

2009-12-14 19:01:46 | 晩年学
毎日新聞 一日一粒心のサプリ 海原純子(心療内科医)

生活の中で「しなければいけないこと」と「したいからすること」の割合がどうなっているか、チェックしてみよう。
私は、これを「ネコの視点チェック」と名づけ。後者、つまりネコの視点の割合が高いほど、心の満足度も高いと考えている。

ネコは「しなければいけない」と考えて行動したり、計算したりしない。
したいことをしたいようにしている。
この人と会うのが得だから、と計算したり、この人は役に立ちそうだからと付き合ったりはしない。
好きな人には寄っていくが、気に入らない人には近寄らない。


人間の場合、悲しいかな、したいことだけをして、会いたい人だけあっていたら生活が成り立たなくなる。
だから、「しなくちゃいけない」仕事をし、嫌いでも役に立ちそうなひととかかわる。しかし、生活のすべてが「しなくちゃいけないこと」でしめられていたら、体調を崩すのは明らかだ。
だからせめて、生活の半分ぐらいは「したいからする」であるといいだろう。

歳をとるよさは、若い頃は「しなくっちゃいけないから」していたことを少しずつ
好きになり、やがて、それに楽しみを見つけられるようになることかもしれない。


ただし、この視点はいわゆる勝算を度外視しているから、収入、名誉などの結果はついてこない。結果をとるか、心の満足度をとるかはあなた次第。

充実感

2009-12-05 09:34:53 | 晩年学
毎日新聞 春日武彦の心察室

生きていくうえで、もっとも大切なことは何か。
勿論正解は無いし、人によって答えは様々であろう。
私個人の回答は「充実感」である。

仕事にせよ遊びにせよ、とにかく自分は確かになにかをしていた、それなりに意味や価値のあることをしていたという実感が欲しいのである。

充実感を求める心性には、いささか成果主義的な卑しさが潜在しているかもしれない。無意味なことや無価値なものを否定する狭量な精神に、裏打ちされているような気がしないでもない。

充実の反対語は、空虚とか空白といったものになろうか。
どうしても充実感を追求せずにはいられない気持ちの中には、空虚さや空疎、あるいは単調さといたものに対する恐れがやどっているに違いない。

精神を病んだ人の中には、向き合った者をたじろがせるような深い空虚感を抱えていることがある。
あるいは、こちらが困惑したくなるほど単調な生活を送って倦む事の無い人がいる。

だからといって悪いわけではないし、批難されるべき筋合いでもない。
だが、当方の価値観に照らすと理解の困難な人間のありようを目にすると、不安感が生じてくる。
居心地の悪さを覚えずにはいられなくなる。

そんなことは余計なお世話であるし、わたしが理解しえる人生なんて、ほんの狭い範囲でしかない。
もっと謙虚になるべきだと批難されたとすれば、その通りというしかない。
そもそも世代が違うだけでも互いに理解し合うのが困難になるのが世の常である。

だが空虚とか単調といったものにつかさどられた人物が、自分と大差の無い外見をし、似たような物を食べ、同じ日本語をしゃべるのである。
しかも大概の場合、彼らは(私の価値観からすれば)余りにも損な立場にあり、不利な所に身を置いている。
そのような状況を知ると、どうも寝覚めが悪い。
気になってしまうのである。

充実感に価値を置くことは私の弱さであると同時に、もしかすると押し付けがましさを生んでいるかもしれない。
自戒すべきなのだろうか。

定住漂泊

2009-12-02 14:11:05 | 晩年学
金子兜太養生訓

金子兜太 現代俳人 90歳

兜太は『定住漂泊』と四字熟語に人生観を凝縮させる。
定住しながら、日常に鮮烈な漂泊心を失わない。

養生訓
①長生きをしようと思う。
②なにか創造的なことに打ち込み、生きがいを持つ。
③世のため、人のために尽くす精神を忘れない。
④体と心を鍛える努力を続ける。心にユーモアを。
⑤家族に信頼と敬愛を。友人は男女を問わず宝。
⑥妻は最大の理解者、批評家。連帯して歩む。
⑦かかりつけの医師やゆきつけの店との絆を大事に。
⑧地に足を着け、土の恵みを忘れない。
⑨日記を毎日つけ、我が身を省み、老醜をさらすまいと心がける。

無理をしないで、何事もゆっくり自然体でいく。
座禅でなくても立ったままの「立禅」を。
疲れたら深呼吸をする。