毎日新聞夕刊 新幸福論 生き方再発見
臨済宗僧侶、作家 玄侑宗久
毎朝新たにできた予定と調整しながら、「やりくり」しています。
「なりゆき」です。
万葉集や古事記、日本書紀で一番多く使われているのは「なる」という言葉。
実がなる、仏になる。
「なる」というのは我々の合理性では捉えられない変化。
稲がなるというのも、おがみたいほどすごいことなので、「おいなりさま」という言葉を作った。
時の変化と共に、思わぬ状況になる。
予断を持たず、成り行きをよく見る。
大切なのは、新たに出てきたことに、どう「仕合わせる」かです。
刀を持って向き合っていると想像して下さい。
相手がどう出るかを予測しているときと、予測していないときはどちらが強いでしょう。
何も予測していなければ、相手の動きに即応じられる。
予測していると、予測と違った行動に出られたら、戸惑いが生まれ、隙につながる。
しあわせ、という和語は、奈良時代に「為合」という字を当てたのがはじまり。
天が相手ですから、ほとんど運命の意味でした。
自然を制御下に置こうとする西洋と違って、自然は手に負えないものとわかっていました。やりくりしながら付き合っていた。
室町時代に「仕合」という字になる。
人間体人間の話になってくる。
相手の人間に対して、どうしあわせるか。
そして明治以降、英語のハピネスを幸福と訳し、幸せと呼ぶようになった。
幸福の特徴は計量化できること。
例えば、お金の量、目的の場所までの距離、よい事が継続する長さとか、そういうもので測れる。
日本古来の「しあわせ」と現代の「幸福(ハピネス)」はこの時点でずいぶんと変わった。
中国の思想家の荘子は「便利な道具が一つ増えるたびに心が変わっていく」といった。
その時に芽生える、少しでもうまくやろう、効率よくやろうという気持ちを「機心」という。
90歳のおばあちゃんが、「電気釜ができたときは本当に嬉しかった」といいます。
寒い朝にご飯を炊くのがどれほど大変だったかを考えれば、その通りだと思う。
でも、得た時間はすぐになくなる。
ものが機心を芽生えさせることで、しあわせ感は増えていかない。
人間は善もあるし悪もあるし、状況の変化で揺らぐ複雑な存在です。
状況に関係ない「本当の自分」なんてない。
それなのに現代人は、理解できる本当の自分がいると思い込んでいる。
習慣的に出てくる自分に慣れてはいるでしょうが、それを本当の自分だと思う必要は無い。
こんな自分も出てきたぞ、でいいんです。
状況の中でどんな自分にもなれるのに、目標や計画を立てすぎて、自然に任せることをしないから、目標程度におさまってしまう。
禅の世界では「予断を持つな」という。
未来のことなど、誰にも分かりません。
計画とか目標というのは、未来に対するある種の予断です。
新たな条件が加われば、未来のシュミレーションは崩れる。
目標を持って生きることが、是とされすぎているのではないか。
未来に目を向けずぎずに、今というときに、無心で立つことだ。
臨済宗僧侶、作家 玄侑宗久
毎朝新たにできた予定と調整しながら、「やりくり」しています。
「なりゆき」です。
万葉集や古事記、日本書紀で一番多く使われているのは「なる」という言葉。
実がなる、仏になる。
「なる」というのは我々の合理性では捉えられない変化。
稲がなるというのも、おがみたいほどすごいことなので、「おいなりさま」という言葉を作った。
時の変化と共に、思わぬ状況になる。
予断を持たず、成り行きをよく見る。
大切なのは、新たに出てきたことに、どう「仕合わせる」かです。
刀を持って向き合っていると想像して下さい。
相手がどう出るかを予測しているときと、予測していないときはどちらが強いでしょう。
何も予測していなければ、相手の動きに即応じられる。
予測していると、予測と違った行動に出られたら、戸惑いが生まれ、隙につながる。
しあわせ、という和語は、奈良時代に「為合」という字を当てたのがはじまり。
天が相手ですから、ほとんど運命の意味でした。
自然を制御下に置こうとする西洋と違って、自然は手に負えないものとわかっていました。やりくりしながら付き合っていた。
室町時代に「仕合」という字になる。
人間体人間の話になってくる。
相手の人間に対して、どうしあわせるか。
そして明治以降、英語のハピネスを幸福と訳し、幸せと呼ぶようになった。
幸福の特徴は計量化できること。
例えば、お金の量、目的の場所までの距離、よい事が継続する長さとか、そういうもので測れる。
日本古来の「しあわせ」と現代の「幸福(ハピネス)」はこの時点でずいぶんと変わった。
中国の思想家の荘子は「便利な道具が一つ増えるたびに心が変わっていく」といった。
その時に芽生える、少しでもうまくやろう、効率よくやろうという気持ちを「機心」という。
90歳のおばあちゃんが、「電気釜ができたときは本当に嬉しかった」といいます。
寒い朝にご飯を炊くのがどれほど大変だったかを考えれば、その通りだと思う。
でも、得た時間はすぐになくなる。
ものが機心を芽生えさせることで、しあわせ感は増えていかない。
人間は善もあるし悪もあるし、状況の変化で揺らぐ複雑な存在です。
状況に関係ない「本当の自分」なんてない。
それなのに現代人は、理解できる本当の自分がいると思い込んでいる。
習慣的に出てくる自分に慣れてはいるでしょうが、それを本当の自分だと思う必要は無い。
こんな自分も出てきたぞ、でいいんです。
状況の中でどんな自分にもなれるのに、目標や計画を立てすぎて、自然に任せることをしないから、目標程度におさまってしまう。
禅の世界では「予断を持つな」という。
未来のことなど、誰にも分かりません。
計画とか目標というのは、未来に対するある種の予断です。
新たな条件が加われば、未来のシュミレーションは崩れる。
目標を持って生きることが、是とされすぎているのではないか。
未来に目を向けずぎずに、今というときに、無心で立つことだ。