ハイカーズ・ブログ(徘徊者備録)

「あなたの趣味はなんですか?」
「はい、散歩です」

「こうなる前からですか?」
「いいえ」

『守・破・離』の使われ方

2011-12-24 09:54:38 | 雑談
毎日新聞 近聞遠見 石見隆夫より

「このきわどい時期、日本を留守にするのはいかがなものか。
中印との間に緊急の懸案があるわけでもない」

「いや、まあ総理は、しゅ・は・り、の方針で着実にやっている」

「何です、それは」

「知りませんか。守・破・離。
武道などの修行のやり方を三段階に分けたもので・・・」

「ほお」

「いまの総理は〈守〉、これから〈破〉、そして〈離〉と順に」

剣道、空手道などの解説書によると、〈守〉は流儀を忠実に守り型どおりにやることで、それが一通り終わる頃に、型を破る努力をする〈破〉だ。
さらに修行を重ね、高い段階に進むことができれば〈離〉の境地に至る。
武道だけでなく、書道、茶道、華道などでも、修練の精神は同じだという。


政治家の道はどうなのか?


2閣僚問題で、つまずいた。野党による問責決議の前に処置できず、臨時国会を閉じ、国家公務員給与削減法案など重要法案を先送りしてしまった。
身を削らないまま、歳出カットに不熱心なまま〈税と社会保障の一体改革〉に「不退転の決意で」と繰り返しても、空疎に響くばかりだ。
こうした一連の野田流儀を、武道の〈守〉と言い換えていいものか。




守・破・離とにたのに、運・鈍・根がある。
かって保守政界で政治家の心得としてよく使われたが、最近はあまり聞かない。運を大切にし、鈍重に構え、根気よく励む、ということだ。
対照的である。

守破離は〈跳ぶ時は、思い切って跳べ〉と求めているのに対し、
運鈍根は〈あせらす、地道に汗をかけ〉と教えている。

この国難の時節、どちらに時代の要請があるのか。

自民党の伊吹文明元幹事長は〈民主党マニフェストは票を取るための嘘、絵空事だったのは国民の知るところとなった。来年こそ「嘘のない誠治」にしたいものです。と書いている。

無理な跳び方をしてロスばかり目立つ民主党政治を戒めている。
伊吹も自民党も運鈍根派だ。

一方、辛らつな発言で知られる浜矩子教授は「野田よ、怒れ!怒るとアドレナリンが出る」とけしかけた。
守破離派だ。
〈守〉はほどほどにして〈破〉に手を染めろ、と促している。

段級審査

2011-12-18 00:32:12 | 武道関連
オイゲン・ヘリゲル著
『弓と禅』より

入門以来五年以上過ぎた時、師範は私達に段位審査の試験を済ますように勧告した。
その時師範は言われた。
「審査の際肝心なのは、単にあなた方の技量をやって見せることではない。むしろ精神状態が、人目につかぬ挙動に至るまで、ずっと高く評価されるのです。見物人がいることによって惑わされず、全く無頓着になって、従来通り全く我々だけしかいないかのように礼法を行じられるよう、特に期待します」

次の幾週かの間も、その審査目当てに稽古を励んだわけでなく、一言もその話はされなかった。
のみならずしばしばさっさと稽古は打ち切られたのだ。

その代わり我々には家庭で礼法を行ずる課題、すなわちそれに含まれた何歩かの足の運びや身の構えを、それからとりわけ正しい呼吸法を完全に遂行して深く沈潜するという課題が与えられた。

我々は指示された仕方で稽古した。
すると我々が道具無しで礼法を舞うことに慣れるやいなや、我々は二、三歩の後早くも以上に集中する気分になることを発見したのである。

それから稽古のときに道具を手にとると、この家庭での練習は非常に効果的にその働きを後のまで及ぼしたので、我々はこの際のも造作なく「精神現在」の状態に入ったのである。

我々は大丈夫という安心感を持っていたので、見物人の列席する審査の日を平静な気持ちで待ち設けた。

我々は堂々と審査に合格したので、師範がバツの悪い笑顔を浮かべて、観衆に贔屓目に見てくれるように乞う必要がなかった。

この時以後稽古は新しい様相をとるようになった。

稽古の時間はわずかで十分であるとして、師範は弓道の『奥義』を脈絡あるように説明し、同時にこれを我々の到達した段階に適応することに移っていった。
師範の話は不思議な比喩や朦朧とした比較に終始したが、わずかな暗示でさえ、我々がその問題点を理解するのに十分であった。

師範はもっとも詳細に「術なき術」本質に立ち入って説いた。