ハイカーズ・ブログ(徘徊者備録)

「あなたの趣味はなんですか?」
「はい、散歩です」

「こうなる前からですか?」
「いいえ」

北九州居合道大会

2010-03-25 07:43:30 | 居合道
北九州大会に始まり大阪大会で一年を締めくくる、居合の暦です。今年も名門大洋フェリーで往復する。今年の武運を占う大会。勢いをつけるか一年の課題を見つけて帰るか。この大会の特徴は三人試合というところ。審判も四人になる。900人を越える人気の大会故の工夫である。結果3:0で一回戦負け。今までならさっさと引き上げるのだか、コートに残って敗れた相手の技前を拝見する。また名前の知られた先生の試合を拝見する。顔見知りの審判して頂いた先生がよって来られて、アドバイスしてくださる。有難いことです。試合を拝見するのも勉強ですが、試合前の稽古を拝見するのも、発見があります。目先の勝ち負けにとらわれず十年先の稽古に励みます(負け惜しみ)


思いあがりを戒められる

2010-03-17 14:50:32 | 武道関連
世の中に人をおかしと思うなよ
   人はこなたやおかしかるらん  
                    荒木田守武

他の人を、おかしな人だと思ってはいけない。
こちらが、おかしい人と思われているかもしれない、の意。

およそ人は、自らが持つところの環境、習慣、趣味、感性、考え方などを真っ当なもの、おかしくないものとして、自己を基準にして物を見るから、その基準からはずれているとおかしく見える。
変わっている、珍しいぐらいに思っていればそれでよいのですが、すぐ自己を是とし、人を非とする。

人のことをあれやこれやと言うのであれば、まず自分のことをよく省みてから言うべきである。

吟詠の世界でも同じことと思います。
あなたの節調は違うとか、おかしいとかいうのはその人の師友に任せて慎みたいものです。

詩吟の会誌 より


ちょっとした苛立ち

2010-03-17 09:08:51 | 武道関連
私自身が老いてきたせいもあるが、お年寄りには随分寛容になってきた自分を感じる。彼らは順当に行けば私より先に、旅立つ人であり十分に楽しんでもらえれば、いい思い出として自分の中に残る。

武道だけに限らず習い事はすべからず、最初に手ほどきを受けた人と似た形を自分の中に作り上げるものだ。
これを刷り込み現象と言う。

『心理学では刻印付けとも訳す。動物の発育のごく初期に起こる特殊な形の学習。カモ類や草食獣など、生まれてすぐ子が独り立ちする(早成性)動物で見られる。K.Z.ローレンツがハイイロガンの雛で最初に発見したもので、雛は孵化後に最初に目にした動く物体につき従う。自然状態ではこの条件に合うのは親鳥なので、親の後を追うという意味のある行動が生まれる。すりこみは感受期または臨界期と呼ばれる極めて限られた時期にしか起きない』

私のようにいろいろ経験している者は、自分で判断を下せるが、真っ白な人たちは余計にそれを受け入れてしまう。今の状況が、大変不遜な言い方だが、ちょっと申し訳ない気がしている。

とまあ、ちょっとした苛立ちを感じていることは否めないが、みんなが楽しくやれればいいなということで、落ち着く。


杖の起源?

2010-03-15 11:19:30 | 杖道
葛城山と金剛山の間に、少し窪んだ箇所がある。
そこが河内に通じる水越峠である。点在する民家を過ぎると急に道が狭くなる。
その先から峠道は大きくうねり曲がる。
捨和尚のぼろ庵は、その曲がった辺りから皿に四半里ほど北に入った山中にある。近づくと、樹間を縫って鋭い気合が耳に入ってきた。庵の前で捨和尚が、手にした一本の木の枝で辺りの空気を切り裂いていた。
激しい気合が迸ると同時に、気配が音を立てて裂かれる。
捨流杖術であった。


「小太郎、この棒をもってみい!」
「その棒の真ん中を握れ。これからわしがやって見せるから、よく目の底に焼き付けておくんじゃ」
捨和尚は、いつの間にか自分も棒を手にしていた。
その中ほどを握ると、す、すっと前に出た。
滑る様な動きだ。
背筋も伸び、視線は鋭く前方に立つ木々を見つめている。
「キエーッ!」
怪鳥のような気合が、捨和尚の口を突いてでた。と同時に、捨和尚の足が大地を蹴っていた。
一瞬の鈍い音が静寂の中に起こり、四本の木の枝が同時に落下した。
和尚の棒は一瞬で四つの動きをしたことになる。
しかも、生木の枝を落としたのだ。あれが人間なら、間違いなく脳天を砕かれていた。

「よいか小太郎。お前の握っておるのはたった一本の棒でしかないが、それは腕のひねり一つでたちまち二本になり、また四本になる。これが捨流杖術じゃ。今見たことを決して忘れず修業せい」


婆娑羅太平記 現世浄土 黒須紀一郎 より

稽古と練習

2010-03-11 14:37:54 | 武道関連
お稽古と練習
毎日新聞夕刊 遊歩道
クリエーティブディレクター マニグリエ真矢

わたしが鼓を習い始めたころ、よく指摘されたのが言葉遣いだった。
「今日の練習」といった私に、「お稽古よ!」と。

歳月を経て、外国人の友達を鼓のお稽古に誘った際、翻訳しづらいこの「お稽古」をどう説明するかで悩んだ。

最初に浮かんだイメージは、武芸などの「道」に通じる「お稽古」。
技能以上に精神の高みに達する意味合いが深いように思う。

では「練習」とどう違うのだろう?
何事によらず辞書で解決できない問題は、人に聞いて見ることにしている。
すぐさま能楽師の先生方に尋ねてみたら、表現は異なっていても、考え方は同じ方向を示していた。

確かに、プラクティース(実習)を通じて、エクセレンス(優秀)やアコンプリッスメント(遂行、たしなみ)を探し求めることは、重なる部分があるように思う。

お稽古の場で、師匠や先輩は「教える」のではなく「伝える」のだ。
本番ではない練習を80%の力で行うとしたら、お稽古は常に100%で行うべきものだ。
言い換えれば、普段の生活のすべてがお稽古に通じるという心構えが大切なのだろう。

それは日本古来の武道や芸道に限らず、自分が日頃から、どんなマインドでものごとに接しているか、ということだ。

そのように考えれば、翻訳しにくい「お稽古」という概念はフランス人にも十分通じる。

このような話をさまざまな分野の人に尋ね歩いたことも、もしかすると、私にとっての「お稽古」かもしれない。



・・・・・・・・
私の解釈は
集団で号令によってするトレーニングは「練習」。
一人で工夫し、あるいは師匠とマンツーマンでやるのは「稽古」

私は練習はいくらしても、ある線を越えると進歩しないと感じている。

五年ごとに新しい夢を

2010-03-08 18:38:26 | 晩年学
不惑(人生の元気力)

佐江衆一 講談社

五年ごとに新しい夢を描く

その気になったら三年では短く、五年はやりつづけねば、見えるものも見えてこないだろう。
そして、一事に精通し、その道のベテランになるには、少なくとも十年はかかると腹を据えるべきだ。

・・・・日本人なら武道の一つも出来ないと恥ずかしいなと思っていた。
たまたま出会った友人が古武道の杖術をやっていて、彼に連れられて道場を見学し、樫の棒と木剣でハッシと打ち合う杖術が気に入って即座に入門したのが四十五歳のときである。

幾つになっても新しいことをはじめるというのは、新鮮な感動と緊張、未知の世界に挑む喜びが大きい。
恥をかくことさえ恐れなければ、身も心も若返る。

私は移り気なところがあるが、熱中する質のDNAを持っているらしいことに、中年を過ぎてから気づいた。

週二回の稽古に熱心に通い、白帯から緑帯、茶帯びに昇級し、一年後には初段になって黒帯が締められた。
うれしさに四十六歳のオジンが黒帯を締めて家中を飛び跳ね、女房と息子たちに「とっつぁん、いい歳をして」と笑われたものである。

杖術だけでなく、武士がやった体術や小具足術、農民の鎌術、そして刀を買って居合術もはじめる熱中ぶりだった。
武術は奥が深い。五年やってそれに気づき、続けることにした。

しかし、杖術師範の免状をとり、各地の古武道演武会に出演するようになった頃から、高慢という虫が私の腹中にわきはじめたのだ。
どうやら私だけではない。
古武道は戦国時代から伝わる各流派があり、宗家がいて格式が高いのだが、形稽古がもっぱらで剣道や柔道のように試合がないので、各流派の高段者には我こそはと高慢の鼻がのびる人がいることに私は気づいた。

武道家としてあるまじきことだが、一つのことをやり続けていると、溜まり水に悪い虫がわくのである。嫌だなと思い始めていたとき、稽古場にしていた市の武道場が建て替えで使えず、縁あって剣道場を借りたのだが、私は剣道の稽古を見て、これまた即座に入門してしまった。
あれこれ熟考せずに体が先に動いて飛び込んでしまうオッチョコチョイな質が私にはあるが、頭で考えているよりも「まず飛び込んで行動に身を任せて考える」のが私の主義だ。

おかげで五十五歳で剣道をはじめることになった。

もっとも、小学生のときに体育の時間に木刀をちょっと振っただけで、中学時代はやりたくても敗戦直後だったから武道は禁止で出来なかったから、その頃の夢が四十余年ぶりにかなったのである。

人生って不思議なものだなと思う。

夢を持ち続けていると、偶然や幸運があって、いつかは叶うものなのだ。

だがその時、ひょいと飛び込まなかったら、幸運は逃げて行く。

しかし、五十五歳ではじめる剣道。
竹刀の握り方も知らなければ、振り方も知らず、胴着や防具のつけ方も知らない。まわりは若者ばかりで、先生も年下、私が最年長者である。
古武道を十年やっていたから気合ばかりは馬鹿でかいが、体は固く、なにしろぎこちない。恥のかきとおしである。

あとでわかったことだが、五十五歳で剣道をはじめて高段者になった人はいないらしい。

私は古武道をやめ、「お面」「お胴」「お小手」と気合を張り上げて、老骨をぎしぎし軋ませながら汗だくで剣道に熱中した。
一級、初段、二段の審査に一度で合格し五年が過ぎ、還暦の歳に三段になれた。
これまた奥が深い。

二年前に四段になり、「六十五歳の高齢者」になって十年以上続いている。来年は五段の審査に挑戦するつもりだ。


これから枯れるが、まだまだ未熟。剣道はやればやるほどむずかしい。
幾つになっても自分は未熟だと思うから、高齢になっても誰しも続けられる剣道と同じに、人生、死ぬまで修業が続くのである。