ハイカーズ・ブログ(徘徊者備録)

「あなたの趣味はなんですか?」
「はい、散歩です」

「こうなる前からですか?」
「いいえ」

老人らしくあれ

2015-08-30 06:53:43 | 晩年学



疲れすぎて眠れぬ夜のために

内田 樹 著




「らしさ」というのは人類の発明した「エコロジカル・ニッチ」です。




「老人らしさ」はそれとして、きちんと定型化される必要があります。その定形に従ってゆかない生き方を僕たちは「老醜」と感じることになります。

もちろん、「老人らしさ」というのは、純然たる社会的虚構です。

杖をついてよろよろしたりして、「わしはのう」と言ったりするのはある意味で芝居なんです。

間寛平の芝居と同じで、やってる本人が「芝居でやってる」から本人も周囲も楽しめるのです。

「わしだって、昔若い頃は」みたいな定型的な台詞を、ほんとうはピンピンしているじいさんがわざと言うのは、そういうことばを言う人がどこかにいないといけないということをなんとなくみんな分かっているからです。




実年齢より少しオーバー目に「老けてみせる」というのが老人「らしさ」の基本マナーです。

若作りをして、若い人に「年寄りの冷や水」と嘲弄されたりするのは、老人の側のマナー違反でもあるのです。

「できるけど、やらない」というのが「らしさ」の節度であり、そこから滲んでくるものが、「身の程わきまえている」人間だけが醸し出す「品格」というものなのです。

「品格」なんていうと、なんだかずいぶん仰々しいものに思えるかも知れませんが、「品」というのは、要するに「らしさ」の内側にあえて踏みとどまる節度のことです。

「らしさ」の制約の中にとどまる節度を私たちは「品がよい」と呼ぶのです。

自分のありのままをむき出しにするという作法は、その人にどれほどの才能があろうと能力があろうと、「はしたない」ふるまいです。

「はしたない」というのは、審美的な問題ではありません。

節度なくふるまう人の「生存戦略」の危うさに、はたがドキドキさられる不快さのことなのです。

名人の認知症

2015-08-23 13:16:03 | 晩年学
疲れすぎて眠れぬ夜のために   内田樹著より


ぼくは(著者)今、杖や剣を使う身体運用の稽古をしているのですが、その形を遣っていてぼんやり思うのは、杖や剣を、あたかもそんなものを自分も相手も持っていないかのように体を遣わせるために形があるのではないか、ということです。

(名人伝 中島敦)

世に並ぶ者なきといわれた弓の名人紀昌はさらなる境地を求めて甘蠅老師という弓の名人に就いて山中に籠り、多年の修行の後、弓も持たず、愚者のような顔つきになって長安の都に戻ってきます。

しかし、首都の人々はついに戻ってきたこの弓の名人の噂でわきたちます。
盗賊は怖れて、彼の住む街区を迂回し、空飛ぶ鳥でさえ、紀昌の家の上は避けたほどです。

そして、紀昌はついに二度と弓を手に取ることなく没するのですが、晩年に、知人の家に招かれ、その家に置いてある、ある器具に目を留め、「けれは何というものですか?」と主人に訪ねました。
主人は冗談だろうと思って一度は取り合いませんでしたが、紀昌が重ねて問うので。彼がほんとうにそれが何であるのかを忘れていた事を知りました。







紀昌は弓という道具もその用途も忘れていたのです。








この話は武術に限らず、芸術の本質をみごとに衝いていると思います。





あらゆる道具についての訓練は、それがあることを忘れさせるためにある。




同じように、人間の体についてのすべての修行は、人間が体を持っていることを忘れさせるためにある。