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疲れすぎて眠れぬ夜のために
内田 樹 著
「らしさ」というのは人類の発明した「エコロジカル・ニッチ」です。
「老人らしさ」はそれとして、きちんと定型化される必要があります。その定形に従ってゆかない生き方を僕たちは「老醜」と感じることになります。
もちろん、「老人らしさ」というのは、純然たる社会的虚構です。
杖をついてよろよろしたりして、「わしはのう」と言ったりするのはある意味で芝居なんです。
間寛平の芝居と同じで、やってる本人が「芝居でやってる」から本人も周囲も楽しめるのです。
「わしだって、昔若い頃は」みたいな定型的な台詞を、ほんとうはピンピンしているじいさんがわざと言うのは、そういうことばを言う人がどこかにいないといけないということをなんとなくみんな分かっているからです。
実年齢より少しオーバー目に「老けてみせる」というのが老人「らしさ」の基本マナーです。
若作りをして、若い人に「年寄りの冷や水」と嘲弄されたりするのは、老人の側のマナー違反でもあるのです。
「できるけど、やらない」というのが「らしさ」の節度であり、そこから滲んでくるものが、「身の程わきまえている」人間だけが醸し出す「品格」というものなのです。
「品格」なんていうと、なんだかずいぶん仰々しいものに思えるかも知れませんが、「品」というのは、要するに「らしさ」の内側にあえて踏みとどまる節度のことです。
「らしさ」の制約の中にとどまる節度を私たちは「品がよい」と呼ぶのです。
自分のありのままをむき出しにするという作法は、その人にどれほどの才能があろうと能力があろうと、「はしたない」ふるまいです。
「はしたない」というのは、審美的な問題ではありません。
節度なくふるまう人の「生存戦略」の危うさに、はたがドキドキさられる不快さのことなのです。