モノスヤ☆のまきのテケテケあるある記。

花柳仲登嗣(モノスヤ)&仲真央(のまき)のコンビは2013年もブルワーズ青木を鋭意応援して生きます!!芸道も精進ちゅ♪

きょうき。

2006-09-17 20:55:22 | いろんな話。
 ←ミサンガとストラップ。

実は昨日、仕事の合間に作ったこれにまつわるちょっとした物語りがあって。

というのも、
これは娘M嬢に頼まれて作ったものなのだけれど。
M嬢のクラスで3週間、実習を重ねていた教生(教育実習生)の先生と、
先週末でお別れするにあたり。

M嬢のクラスメイトはファンシーグッズを買って、
先生にプレゼントしたのだとか。

私は子供の身分で贈り物にお金を掛けることは賛成していなくて、
そんな時は手作りや心を込めた何かを贈るのが良いんではなくて??

とM嬢に言うと、しばし考えてから。

「だあさんに、お願いがあるんだけど。
ヘンプでミサンガとストラップを作ってくれませんか。」

こう言ってきたので、うんそれなら構わないよ、
その代わりお手紙やラッピングは自分でねと伝えた。

それからヘンプの糸やビーズを見せて、
どんな色の組み合わせにするか。
本も見て、このタイプにしてくださいと依頼されて、
私はM嬢の言われたように作った。


どちらも割に簡単なものなので小一時間で仕上がり、
その出来ばえもM嬢は気に入ったようだった。

それを手にとって、
ふっとM嬢はこんなことを言った。


「これ・・・自分で作ったことにしちゃおうか、な。」


私は自分の背後で、この言葉を聞いた。

そして、ちょっと待ていと思ったことは言うまでもない。


もちろん少なからず私を知る人なら容易に想像付くと思うけど。

怒り心頭に発する、
または怒髪天を衝くとはこのことだろうと思うほど怒った。


M嬢は最初、何のことかとキョトンとしていた。


私は、

「たとえば。」と前置きして、

「お友達に絵を描いてと頼まれて描いてあげた絵を、
その友達が”私が書いたのよ”と他の人に言ったらアンタはどういう気持ちになるか。」

考えてみて、と言った。


すると、ようやくM嬢は、
自分が言った(大した深い意味もなかっただろう)言葉が。
相手(この場合は私)に、どんな風に受け取られたか。

想像したみたいだった。


もう二度とアンタの頼みは聞かない、
それにこれは返してもらうと二つを引っ手繰ると。

M嬢は驚いて必死に謝ってよこした。


もう。
私は開いた口が塞がらなかったし、
なんてことを言うのかそんな子に育てた覚えはないよと情けなくなった。

きっとね、
あのM嬢の顔からしても全然深意はなかったと思う。

でも、だからといって。

子供のたわ言、戯れ言だからといって捨てては置けないでしょう。

この場合。


私が、ふるふると拳を握り締めながら怒っていると、
台所から母R子が出てきてM嬢を諭した。

こういう時、第三者的立場の人の冷静な反応は実にありがたい。


M嬢は素直に耳を傾けて、ほろほろと泣いて。

そして、あらためて私に頭を下げた。


M嬢よ、
ぶきようで不足ばかりの私であるけれど。

義侠心だけは持っていておくれと思い日々、育てをしているよ。

そうしてR子から私も育てられたように。


間違うこともある。完璧など、あるわけがない。
向かっても通じないことも、負ける時もある。でも。

人の罪をかぶることがあっても、
人の手柄を横取りしないで。


必ず陽の目を見るときがあるのだから素直に。


見ている人は必ず、どこかにいるはずなのだから。

ネットで、

2006-09-17 13:36:12 | いろんな話。

買うことに関しては障り妨げのないほうだと思う。

といっても、やみくもになんでもかんでも手を出しているわけでもない。
間違いなく安全なところ、
と自分なりに確信を持てたところでしか財布の紐を緩めない。

身の危険を感じないわけもないが必要以上に恐れるに足りない気がする。

それはネットを介する人との出会いにもいえることだ。

こわくないかキケンはなかったかと聞かれることもあるけど、
まるでないとは言わないが大したことは今までなかった。

もし恐怖や不安や懸念を抱き始めたら一歩も外へ出られないし、
きっと家に閉じこもっていても悪の種は向こうからやってくるはずだ。


ところで、こんなものを愛好している。



地元の大型ショッピングセンター内にある、
”ヴィレッジヴァンガード”という店で2年前一目惚れして引いてきたものだ。

引いてきたといっても万引きではない。
”旦那に引かれた”の、ほうである。

とにかく一目で気に入って数度通い、
そして他にも顔を並べている子たちと見比べ値踏みし触りまくった結果。

それが引かれてきたのだ。何体も同じ顔と身体をしたものの中から。


そして2年の間、一緒に寝たりお風呂に入ったり、
鼻をこすり付けられたり愚痴を聞かされたりしながら。

彼女(赤い水玉のリボンだからきっとそうなんだ)はニコニコと、
いつも私を癒し続けてくれた。


ところが欲張りなもので、
そんな可愛い彼女がいながら浮気心を起こすのが人らしいともいえる。

このバススポンジ(そういう利用をしたことはない)が、
コナミ一族の者だと知った。
そしてそこで、やはり同じバススポンジが通販されているのを見つけた。

その画像が、これまた自分好みで、
「オレって結局こういう○の大きい女が好みなんだよな」
と煙草くゆらしながら呟いてみたりする。(あくまでイメージ)


部屋で待つ彼女と似ているようで、どことなく違う。

そのうち興味を抱いて近付くと、
どうやら向こうもこっちに少なからず関心がある様子だ。

数度ネットでのやり取りを繰り返しているうち、
当然のことながら「ちょっと会ってみたいな」という気にもなる。

向こうも尋ねてくるのは、やぶさかではないというニュアンスだ。


そうなると何かしら口実を作っては会う算段をするのが男と女である。
(この場合はヒトとゾウである)

トントンと話が進んで、
とうとうその子が我が家にやってくることになった!!!!!!


車で送られて彼女は丁寧な箱入りで到着した。

まだ手付かずという感じが妙に興奮を呼ぶ。


ワクワク感を、あからさまに出さないよう努めて冷静さを装う。

箱のテープを外し、そっと「おいで」と手を差し伸べた。


すると、

写真で見た限りでは瞳の黒目がちな自分好みのはずの彼女の顔は、

見るも無残に歪んでいた。

耳の片方は折れ曲がり鼻もへし折れて、
左半身は押し潰されてへこんでいた。

それでも精一杯の笑い顔で微笑みかけようとするのが、
どうにも泣く寸前にしか見えなくて切ない。


すると、
背後で彼女が勝ち誇った笑みで見つめているではないの。

私の方が可愛いでしょ♪と言いたげに。


並べてみると確かに初代の子のほうが、ずっと可愛い。



(画像は精一杯の整形を試みた後のものである)


浮気心なんて起こすもんじゃない、と思っても後の祭り。

娘が精一杯のフォローで、

「でも、ま、、ね、、、うん、、、、見ようによっては可愛くないことも。。。。。」

「ほら、この角度。」

とか言って寄越す。

そ、そうだね(汗)


教訓としては、
ネットの画像なんてウカウカと信じてはならないということ。

手を打つときは実際に見てみてからじゃないと。


買ったのが人じゃなくて本当に良かったと思った。

オトメゴコロ。

2006-09-17 08:26:19 | いろんな話。
今年の我が家の男舞も乙女心も例年並か、やや良の作柄を見込める頃となった。

といっても水稲や農作物の出来不出来の話ではない。

乙女心という名の作物が、あった気がするけどなんだったっけ。
(ちなみに男米は、もち米だったはず。うろ覚え。)


”乙女心”と引いたら、『乙女の心のこと』と出た。
そんなこと、こんな私でも書けるわいと思い少々ムッとする。

ちなみに最近は”乙女の心”を持つオノコも少なくないという。

そして”乙女心”の多くは複雑だったり秋の空(変わりやすい)だったりするという。

そんなことは太古の昔から知っていることだ。(←フレーズとして使ってみたかった)


そんな複雑な乙女心が満載、全開なエッセイを見つけた。



エッセイを見つけたというより、
「そんなエッセイを書く人」を見つけたといったほうがよいみたい。


思えばエッセイエッセイと、
ワッショイワッショイ並みに持ち上げてみるものの。
元を正せば「随筆」である。

随筆といえば即座に思い出されるのは、
吉田兼好の『徒然草』という人は数多いはずだ。

私もそんな一人だったのだが、
実は随筆の起源は吉田兼好にあらず清少納言にあるといえり。

ということを、
今しがた知った次第である。(頭韻を踏んでみる)

清少納言の「枕草子」、
鴨長明の「方丈記」、
吉田兼好の「徒然草」は日本三大随筆と呼ばれている。

日本人は、なぜか三大ナントカを決めるのが好きである。


ちなみに私は”清少納言”の「枕草子」と、
”紫式部”の「源氏物語」をドッチがドッチと覚えきれない時があった。
(もちろん学生時代)
その時、
四文字の名前は三文字の作品、三文字の名前は四文字の作品。

とヘンテコな覚え方をしていた。


ところで私のエッセイの始まりは、”景山民夫”にさかのぼる。
その後に続いたのが、”山田詠美”だった。

それから”群ようこ”と続き、
このようこさんのエッセイは全て書棚に収められている(でも文庫)。

その後、”中島らも”など。

続いて”東海林さだお”の食もの、
それと前後して”鷺沢萠”もの。


エッセイが文庫版となって登場すれば間違いなく買い、
電車に乗るにも飛行機に乗るにもバスに乗るにも、
病院に行くにも役所に行くにも。

何処へでも出掛けるバックに最低1冊は、どれかを忍ばせていた。


途中、
人から薦められて”川上弘美””原田宗典”に手を出すも尻切れる。

文体が自分の中を流れるように沁みていかないのと(どうもつっかえる)、
自虐的なトホホの笑いが足りないのと、
暗さが受け入れ難かった。


数年前、”川上弘美”を知らない時、
今のようにこうしてガンガンと雑文を書いていると、
とある人から”川上弘美の作品に影響受けているのですか”と言われた。

読んだこともないので正直に知らないと答えると、
読んでみてください。
きっと気に入ると思う、と言われた。

(なんだか言い回しが似ているとかで)

早速、手にとって読んでみたが遂に完読することなく今も手元にある。

そんなに瑞々しくない私の駄文は。
ファンに叱られてしまうだろう。


私がエッセイを選ぶのに共通しているのは、
共感と自虐と笑いと突っ込みと貧乏臭さ(作家先生たちに対して失礼)。

そして、たまにウーンと考えさせられるところか。


小説は小さい頃からエッセイを知るまでの間に、
むさぼるように読み漁ったが繰り返し繰り返し読もうという気になった作品は、
『あしながおじさん』くらいしかないかもしれない。

そのぶんエッセイは1度2度で済まず、
何度も何度も読み返しては同じツボで笑ったりウーンと唸ったりする。

元来ケチな性分なので、
数百円の元を(読んだ回数で)取れなければ勿体無いと思うのかもしれない。

それこそ貧乏臭い話だが・・・・・・。


三浦しをんのエッセイを読み始めたけれど、
この人は本当はどこかで私の分身なんじゃと思うクダリが沢山出てきた。

空恐ろしい。


私の言いたかった事柄を、
たかだか2~3ページに凝縮して出してくるあたり。

そこいらへんの庶民(私)とプロの物書きさんの格の違いを見せ付けられる。


やっぱり、ダンチだよなー。(ダンテではない)