2015年10月05日 毎日新聞WEB版
◇水俣病の背景は福島原発事故と似通う
−−水俣病など深刻な公害を生んだ日本社会の状況はどんなものだったのですか?
田中氏 水俣病の背景は、福島第1原発事故とよく似ていると思います。共通するのが電力です。曽木電気と日本カーバイド商会という会社が合併して1908年、日本窒素肥料(後のチッソ)が発足しました。チッソの化学肥料などの工場に電力を供給して、日本の経済発展、工業的な発展を図ろうという考えで出発しました。チッソは水俣に工場を造り、水俣は大変近代的な街になっていきましたが、この経過も福島の事例ととてもよく似ています。
実は、非常に早い時期からチッソの排水による漁業被害が起きていて、見舞金も払っています。チッソはそれで済むと思っていたんでしょうね。そして戦時体制になり、チッソ水俣工場の役割はさらに強く求められるようになったのです。でも、公害の一番の原因は、何と言っても戦後社会です。戦後の日本社会は、明治以降の工業化方針を、敗戦しても転換しなかった。それどころか「復興」という名目で、戦後、量的な拡大が行われていきました。戦後復興のためにいろんなことをやり、どんな結果が出ても「止めない」「止められない」時代になったのです。
チッソのアセトアルデヒド生産量が最大になったのが60年です。その前から周辺住民に症状が出て、原因も分かり始めているのに、チッソは量産体制を止めなかった。
−−それ以前は、水俣病のような被害を引き起こすことはなかったのですか?
田中氏 農業も含め、古代から人間はさまざまな開発行為をしてきましたが、非常に不都合なことが起こったときには、開発を止めたり抑えたりしました。江戸時代でもよくあったことです。例えば、下流で洪水が起こったときに、原因が上流にある山の木の切り過ぎだと気づくと、幕府からも各藩からも過剰伐採を止める動きが出るんです。同時に川の周辺に建物を建てるなといった指令を出して、住民が洪水被害にさらされないようにしました。
染め物を作るために木の皮をはぐにしても、ある程度で止めておかないと次の年にはその木が弱ってしまいます。取りすぎたと思ったら、木の皮をもう一度元の木に張り付けたりもしました。また、クマ1頭を捕ったら、内臓を串に刺して山に戻した。これは象徴的な行為です。実際にはどうにもならないけれど、捕ったものの何割かは山にお返しするという考え方。やり過ぎたなと思った瞬間に、止めるか戻す。そういう考え方が一貫していれば、問題が起こっても取り返しがつきます。
一方、近代化、特に産業革命の背景には植民地化があります。自国内で開発をやり過ぎたら、自分たちが被害者になります。でも、自分たちは文明人で、植民地には野蛮人が住んでいると思えば、植民地でいくら搾取したって構わないし、自分たちは損害を被らず、むしろ豊かになる。それが産業革命以降の基本的価値観でした。
ただし、現実には(技術的な限界から)それほど大規模に開発を進めることはできないから、被害は徐々にしか起こらなかった。他方、江戸時代の日本は、自分たちが植民者になることも、植民地化されることも拒否する体制を270年間守ったので、その考え方の中に入らないで済んだのです。
でも、明治以降の近代化とともに、日本はそのマインドセット(考え方の枠組み)の中に入りました。近代化とは「止めない」「戻らない」ことで、開発行為をひたすら続ける道を選びました。日本は明治維新以降、日清戦争、日露戦争へと進みました。産業革命と戦争と植民地化はセットになっていたわけです。そうなると歯止めが利かない。チッソも今の北朝鮮に進出し、世界最大規模のコンビナートを造っています。
◇「苦海浄土」に衝撃受けた
−−水俣病に関心を持ったきっかけは?
田中氏 大学1年のときに教室で古典文学の先生が、石牟礼道子さんが書いた「苦海浄土」を朗読しました。古事記が専門で、国語科教育法を担当なさっていた益田勝実先生です。「苦海浄土」はその前年(69年)に出版されたばかりでした。
水俣弁で書かれていて、文学としても素晴らしく、大変な衝撃を受けました。こんな文学が世の中にあるのかと。人が生きてしゃべっている言葉です。普通の文体じゃない。切羽詰まって伝えている、その力が伝わってきました。当時は、今ほど水俣病の情報がありませんでしたが、それでも「苦海浄土」を1冊読むだけで相当分かりましたし、個人的にも勉強しました。
胎児性水俣病の患者たちは私とほぼ同世代で、「患者は自分だったかもしれない」と思ったんです。51〜53年ごろに生まれた子供たちの母親が、(メチル水銀に汚染された)魚介類を食べていたわけです。私は横浜生まれですが、もし水俣に生まれていたら、自分(が胎児性患者)だったかもしれない。これは別世界の出来事ではなく、まさに私が生きている時代の問題。いったいこれは、どういう時代なんだろうと考えたのです。
−−高度経済成長期と重なります。
田中氏 チッソは戦後、アンモニア肥料の生産でもトップでした。農業革命の一翼も担っていたんです。化学肥料で農業の生産量を上げようという政府の考え方と、チッソの進路は一致して、そこでも非常に多くの利益を得ました。
61年に農業基本法が成立します。大型農機具を入れたり化学肥料を使ったりして、農業を近代化して所得を伸ばそうという法律です。工業だけ突出して豊かになるのではなくて、農家も豊かになりましょうということですが、現実には大型機械が投入されて、農家は何千万円という借金を背負い、生産量を上げなければならないという状況になりました。私はこの状況を「農業の工業化」と呼んでいます。その結果、農業では労働力が削減でき、農業従事者から季節労働者として都会に出ることになる。本来農業と工業は道が違うので、(一方が発展すれば一方は衰退するといったように)矛盾したまま進めばいいのだけれど、工業の発展と農業の工業化という矛盾のないセットを作ってしまったのです。
また、54年に衆議院議員だった中曽根康弘さんらが主導して、原子力予算が初めて成立しました。核を背後に置きながら、平和利用と言って原子力政策を進めていきました。その間、水俣病は全然解決されず、どんどん患者が出続けた。水俣病の背後にある農業の工業化と工業化のさらなる推進、さらに「核の工業化=原子力発電」といったようなことが同時に起こりました。それぞれ別の問題に見えるけれど、全部つながっています。
66年に日本初の商業用原発、71年に福島第1原発の営業運転が開始されました。ちょうど私が生まれてから大学生になるまでの間に、いろんなことが急速に動いていったのです。2011年3月11日の福島第1原発事故を経験して、改めて振り返ると、誰も止めない、止められない流れがあり、止められないので「危険ではない」と言い続ける流れが、この時代にできあがったと思います。
◇流れから降りること 受け入れよう
−−戦後日本は、なぜ「止めない」社会を続けたのでしょうか。
田中氏 原発については、原子力の平和利用という言葉によって歯止めが利かなくなったという側面があります。平和と名づけさえすれば、歯止めは利かせなくてもいい。それが戦後社会です。「平和」という言葉がある種の「道具」になってしまったと思います。
もう一つの道具が「経済成長」です。怖い言葉で、どこまで行っても「成長し終わった」なんていうことがない。企業は、去年と比べてどれだけ利益が上がったかという数字を気にします。常に成長し続けなければならない仕組みができてしまっているわけです。
−−豊かさを追い求める中で大変な犠牲を払った反省は根付いていないのでしょうか?
田中氏 気がついている人はたくさんいると思います。でも気がついているのに、見ないふりをする立場にいられる人たちがこの流れを引っ張るわけですよ。一時期より貧富の差が広がっていること、子供の貧困が増えていることも、みんな知っている。それは今までの経済成長の、ある種のゆり戻しだったり、矛盾だったりする。少子高齢化が進むということも、ずいぶん前から分かっていて、量的拡大だけを追い求める経済成長はもうできないということも、みんな分かっている。分かっているのに止められないことがすごく怖い。立ち止まる、あるいはこの流れから降りるということを、本当は一人一人が受け入れていかなければいけない。
これまで、それができなかったのは、戦後日本の国民の間に「止まったらまた貧しくなるかもしれない」というある種の恐怖感があったからだと思います。でも私の世代は当時子供でしたから、自分が貧しかったという感覚を持っていないんです。貧しさについて恐れを持たない一方で、むしろ豊か過ぎる社会の中で矛盾を抱えてきた世代でもあります。そういう世代が、これ以上成長する必要がない、意味がないということをはっきり認識して、違う道に行き始めるという動きがある程度大規模に起こってきたときに、日本の社会は変わると思います。
◇日本の未来像、経験した世代が語らなくては
−−そういった動きは期待できるのでしょうか。
田中氏 もう起こっています。例えば、30〜40代の人たちが自分の親がいる田舎に帰るのではなく、よそ者として新しいコミュニティーに入って、そこで子育てをするような動きが出始めているんです。都会で経済成長を追いかけて、お金だけためるという生活にもううんざりして、別の生き方があることを発見した人たちです。彼らの力がどのくらい蓄積されるか。その動きと、旧来の成長一直線の流れがせめぎあっているんじゃないかなという気がしています。
政治は相変わらず、経済成長の方に引っ張り上げようとしています。集団的自衛権の行使容認も経済と無縁のことではないと思います。国際貢献とか抑止力強化ということだけで物事が動いているとはとても思えない。誰かが必ず利益を上げるからです。軍需産業の成長で利益配分を期待する人たちと、そういう生き方から降りる人たち。力関係がどっちに行くかによって、だいぶ違ってくると思います。
メディアの責任もすごく大きいと思います。違う生活をし始めた人たちをフォローして、こんな生き方もあるんじゃないかと具体的に見せていくことが重要です。抽象的に言ったのでは何の意味もないけれども、現実に違う生き方を発見した人たちがいるわけですから。
−−「止めない」「戻らない」日本は変わると思いますか?
田中氏 悲観的になることはないと思います。ただし、これまでと違う動きをどうやって作るかということが重要です。
安保法制への反対運動は大事で、確かにうねりはあったけれど、欠けているものがあるとずっと感じていました。一連の運動は安保法制に反対をしているだけだったんです。反対した結果、日本はどういう姿になるのか。どういう生き方をしたいから反対するのか。そういった未来像が見えてこなかった。語られていないんです。野党の政治家もそうです。「安保法制反対」だけが目標だったら、いずれこの運動は崩れます。だから私のような世代の人間が、未来像を言わなきゃならないと思っているんです。反対した向こう側にどんな生活があるのかを語るのは、ある程度経験を積んだ世代だからこそできる。
また、地方創生を議論するとき、「もう一度農業を取り戻そう」という動きだってありえるわけです。地方に企業がなくて勤めるところがないから衰退するんだと言われるけれど、実際に今、移住している人たちは、企業中心ではない生き方を作り上げようと思っているんですよね。
今なら農業の技術的な蓄積を持っている人たちが残っていらっしゃるから、間に合うと思うんです。このままその世代の方たちがいなくなってしまったら、技術もなくなりますから、もう二度と農業を取り戻せなくなる。完全に輸入依存の社会で、非常に危険な社会になります。高齢化している農村で働いている方たちのノウハウを今のうちに継承しておかなければなりません。
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■人物略歴
◇たなか・ゆうこ
1952年横浜市生まれ。専門は江戸時代の文学・生活文化、アジア比較文化。法政大社会学部長などを経て2014年4月から現職。
興味深いインタビューが載ったので紹介しておこう。全面的に共感できるものではないのですが、現状認識では的を得てると思う。
今や生産を制御する社会になったことを我々は認識しなければならない。公害問題、原発問題、巨大化する自然災害、基地問題、等々。そして経済的「発展」は格差を生み、一方の貧困を生んでいる。アベノミクス然り、TPP然りである。
大企業は膨大な「内部留保」を抱え込み、働く者には一生涯の不正規雇用を押し付ける。
経済的発展は必要であろうが、身の丈にあったものでなければならない。生産を制御できる、経済的「発展」をスローダウンできる政権を作らなければならない。
その前に「安保法制」を廃棄する連立政権が必要だ。