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仁藤夢乃の“ここがおかしい” ”第35回

2020年01月30日 | 社会・経済

「メークをしたらお奇麗ですね」発言から差別や性暴力の構造を考える
  Imidas連載コラム 2020/01/29


性暴力をテーマにした番組でのできごと
 先日、性暴力被害を語る某テレビ番組に出演した際、打ち合わせ前にメークアップをしてもらっていたら、その分野の専門家として一緒に出演した男性に「メークをしたらさらにお奇麗ですね……ってセクハラになっちゃうか。最近は職場でもすぐ『セクハラ』と言われちゃうからエラい時代や」と言われた。
 性暴力をテーマにした特集番組に呼ばれた専門家がこんな発言をすること自体にドン引きし、愛想笑いもせず真顔で無視していたら、後から部屋に入ってきた番組制作の男性に対して彼は「さっき仁藤さんにこんなこと言ったんだけど、これってセクハラかな? 最近はなんでもセクハラって言われちゃうからな」と、しきりに「セクハラではない」と否定してもらおうとしていた。
 何か気まずい状況に陥った時、「俺は悪くない」という同意と連帯を、周囲にいる男たちに求める男――私はこれには大いに既視感があった。そして聞かれた男性は、困った表情を浮かべながら「ギリギリ、セーフですかね……」と言ってしまった。これでその共演者は味方を得て、私を黙らせることに成功し、彼の都合のいい方へ状況が転じてしまったのだ。そこは「セクハラですよ」と言ってほしかった。
 その後、共演者は‬‪「職場でやったらアウトだな。今の時代は、すぐセクハラと言われてしまうからいろいろ大変なんですよ。ごめんなさいね」と、私に向かって謝罪の言葉を述べた。しかしこれは、問題を自覚して反省したうえでの真の謝罪ではなく、自分の立場を保つための形式上の謝罪だろう。‬‬‬

場所や相手を選んだ発言は誰のため?
 暴力や差別の加害者は、「無意識だった」とよく言うけれど、実際には場所や相手を選んでいることが多い。先述の件にしても、「職場でやったらアウト」と分かっているのだから場所と相手を選んでやっているのだろう。‬私は、そんな被害に遭うことがしょっちゅうある。それも決まって専門家や支援者、活動家を名乗る男性たちから楽屋や舞台裏で。しかし不思議なことに、講演中や番組収録中に彼らがそのような不快発言をすることはない。
 そうして彼らは大概、私が年下の女性で優位に立てそうだと知ると、自分の権威を誇示するかのような自慢話を繰り返す。そんな時、私はあまりにもばかばかしいので、反応しないことにしている。すると空気を察してか、「仁藤さんからも学ばせてください」などと口先だけでへりくだるように言うのだ。それは例えばDV男が、“自分は相手を思いやり、相手の言い分を聞こうとしている”という体で、支配を強めるのに使う手口にも似ている気がする。
 さらに許せないことに、前述の共演者は打ち合わせの中で「SNSを通じて性被害に遭うのは特別な可哀想な子」「死にたいという書き込みは“かまちょ(かまってちょうだい)”でしている」とも言った。私たちは日々の活動の中で、「普通の子どもたち」が性暴力や性搾取の被害に遭っていることを実感し、知っている。加害者は、周囲に頼れる大人がいない子どもを狙うことが少なくなく、貧困や社会的孤立状態にある少女が狙われ、そうした子どもたちは被害に遭っても誰にも相談できず事態が深刻化することもある。
 被害者を「特別な可哀想な子」とレッテル貼りしたり、「かまってちゃん」などと表現して彼女たちの抱える困難を矮小化し、誤解させたりするような発言が当事者を追い詰めることは、これまで多くの支援団体や専門家たちから繰り返し指摘されてきたのだ。
若い女性の前では虚勢を張りたくなる
 性被害に遭った当事者にとって、偏見や思い込みで発言する人に語られることほどつらいことはない。テレビでこんな発言をされたら誤解が広まり、当事者たちへの影響も出ると考え、私はやむなく彼に「現実とずれている」と指摘した。すると、その専門家は「それは誤解で、言いたいことは仁藤さんと同じです」と返してきた。
 このように発言の矛盾点を指摘された時、論旨のすり替えをしたり、「誤解だ」と言ったり、責任を“受け取る側”に押し付けようとしたり、意見を180度変えたりすることにも既視感(一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したことのように感じる現象)があった。それもこれも、相手を見てやっているのだろう。あくまでも「自分は分かっている」という立場でいようとするのも、私が「年下の女性」だからではないか。もし「あなたの言っていることはおかしいぞ」という顔をしたのが、当人よりも偉い「男性」だったら、そんな返し方はしなかったのではないか。
   いろいろ不信感はあったが収録は打ち合わせ通りに進められ、当の共演者が番組内で問題発言をすることはなかった。

理解者ぶるならまず実情を勉強すべき
 普段は偉ぶっていても、相手が優位に立つと途端に顔色をうかがい、意見を変えるような男性は世の中にざらだ。そんな人に出会うと、元々自分の意見などなく、発言にも責任を持たないのではないかと思えてしまう。
的外れなことを言っているのに、自覚していない男性を見ると、「これまで誰にも指摘してもらえなかったんだな」と私は感じる。周りが見えていないので、相手の女性が「面倒だし逆らう価値もない」と思っていたり、「もう会うことはないから今だけ我慢しよう」と自分に言い聞かせたりしている、利害関係のある相手だから理解したふりをして話にうなずいたり、聞き流そうとしたり、早くその場を終わらせようと愛想笑いしたりしている、というところまで考えが至らないのだろう。
 周囲の誰もが愛想笑いをして、話を逸らそうとしている状況でも「僕が言うことは理解されている」「僕は正しい」「僕の意見を皆が支持している」「僕が教えてあげた」と、思い違いをしたままでいる。相手を尊重できないので、周囲に気を遣わせ、そういう状況にしてしまったことも自覚できない。それどころか「僕は女性の理解者だ」と思い込み、嫌がられていることに全く無自覚。男性相手だと態度を変えるので、男社会の中では「女性に立てられている」と勘違いされ、「あいつはモテる」と思われている節すらある。
 理解者ぶる男性の中には、自分で実情に気付こうとせず、ろくに下調べや勉強もせずに軽々しく「何も分からないから教えて」と言ってくる人もいる。が、いつまでも女性や被害者に教えてもらえると思わないでほしい。まずは自身と自身が属するコミュニティーに潜む、性や女性に対する差別の問題に向き合うべきで、「なぜそうなってしまったのか?」は加害者に直接聞けばいいだろう。‪‬‬‬‬‬‬‬
大学生に少女たちを監視させる!?
 実は先日の番組では、被害者支援団体から問題視されている取り組みを「効果的な対策」として取り上げていて私は危惧の念を抱いていた。大学と警察が連携し、SNS上で性的なやり取りを行う少女たちを「通報対象」とし、それを大学生に探し出させて警告文を送るというものだ。
 もし性搾取や性暴力被害に遭っている子どもたちがこんな紹介映像を見たら、なおさら大人たちに被害を相談できなくなるだろう。まさに権力を笠に着た男たちが考えそうな、男社会らしい発想だ。
 前回のコラム「少女誘拐『なぜついていった?』と責める前に 」でも取り上げたが、今の日本では、少女がネット上に「家出したい」と書き込めば10分足らずで数十人から「サポートします」「泊めてあげる」とあたかも援助を申し出るようなコメントが返ってくる。そうした“援助”に頼らざるを得ない状況で、強姦や性的搾取の被害に遭った少女たちと日々出会っている。
    SNS上をパトロールするなら、少女を狙う加害男性たちに警告して取り締まったらいいではないか。なぜ、そうしないのか。被害者に対しあれこれ言う前に、必要なのは加害者に加害させないことではないだろうか。
簡単に当事者に答えを求めるのはダメ
 私は被害者を責めることはもとより、「どうしてそうなったの?」と被害者に疑問を投げ付けること、それ自体が暴力であり二次加害になると考える。先日の番組でも進行確認の際には、「被害者の背景は?」「どうして被害に遭ってしまったのか?」「被害に巻き込まれないためには?」などと被害者にばかり目を向けられていたため、「問題は加害者だ。被害者を責めるのでなく、加害者に目を向け加害者を抑制するにはどうしたらいいかを考える必要がある」と話した。すると「では、加害を生まないためにはどうしたらいいの?」と聞かれたが、日本ではその議論に至ることすら難しい。
 その段階にすら至っていないのが現状であることを見つめるべきだ。簡単に答えを出そうとしたり、被害者に答えを求めようとすることにも暴力性を感じた。これまでも被害者はずっと声を上げ続けていて、社会がそれを軽んじて扱ってきたのに、今まさに声を上げ始めたかのように語ることは問題だ。‬社会のほうが、ようやくその声の大事さに気付きましたという話ではないか。
 私は講演先でよく、「自分にできることはありますか? 現状を変えるためにどうしたらいいですか?」と聞かれる。簡単に、当事者に答えを求めないでほしい。それを考えることから始めてほしい。自分ごととして真剣に考えている人は、「こんな支援はどう?」と聞いてくれる。そうすれば、次につながる。
「メークをしたらお奇麗ですね」の何が問題か
 冒頭の「メークをしたら更にお奇麗ですね」という発言を私のツイッターで拡散したところ、〈「可愛いね」とほめられて気持ち悪い…っていう感覚、自分だけかと思ってました。相手に「ほめてるのに~」と言われても嫌なんだから仕方ないけど、そう感じてしまう自分を責めてみたり。〉とリプライしてきた人がいた。
 これも女性たちが、言われ続けてきたことだろう。こうした発言をする男性は、自分が相手の容姿を評価できる立場にあると自然に思っていることがまず問題だ。自分よりも若く、自分に言い返したり、意見をしたりしないコントロールできる相手だと思っているからセクハラし、「ほめてるのに」という一言は、そんな自分は悪くないとの言い訳である。
「可愛いね」などと言われて「気持ち悪い」と思うのは、言われた人がその相手から尊重されておらず、尊厳が傷つけられていると直感的に分かるからではないだろうか。その気持ちを大切にしてほしい。自分を責める必要はない。
「被害に遭わないためにどうしたらいいか?」ではなく、加害者について私たちが何を勘違いしているのか、加害者はどういう相手や状況につけ込んで手を出すのか、そのプロセスを明らかにして正しく認識することが必要だ。その認識が隅々まで広まれば加害が起きそうになった時、起きた時、すぐに「それダメですよ」と「当然でしょう」という顔をして言える人が増える。そういう社会にならなければ、加害は減らない。
 そんな社会になったら生きづらい‪(自分が相手を支配する自由がなくなる)だろうと考える加害者は、「なんでもセクハラと言われちゃう」と予防線を張り、「セクハラしちゃったかも」と自覚しているふりをして更なる圧力を掛けた挙句、「うっかり本音が」「綺麗だと思ったから」などと言い訳をする。‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬
‪ それは決して「うっかり」やってしまったことではなく、加害者たちは状況をしっかり判断して、相手を見てやっていることを私たちが認識しなくてはならない。‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬
加害者には「NO」を突き付ける力を
 更に加害者は、軽んじていた相手が実は影響力ある人だと気付いた時、自分の立場が危うくなった時などに「謝っている」「反省している」と手の平を返した態度をとることもある。しかし、それは自分を守るためにしているだけで、やってしまったことを理解して、誠意を込めて謝ったり反省したりしているのとは全く違う。なので周囲の人も、うっかりだまされて「謝れるいい人」「謝っているんだから許してあげたら」などと、加害者を庇うようなことを‪言ってはいけない。それは二次加害だし、加害者にとって都合のいい状況を作ることにつながる。‬‬‬
とくに性差別が背景に潜んでいるような状況では、加害的な発言をした人物が自己防衛のためにとった態度に周囲の人が同情し、庇ってしまうようなことは残念ながらよくある。だから私たちは勉強する必要がある。‬‬たとえ周囲の人にそのようなことを言われても、「おかしいな」「嫌だな」「気持ち悪いな」と感じた時は、その気持ちを大切にしていい。
 一人ひとりの無理解から、女性たちは何重にも被害に遭い、傷つけられてきた。繰り返し問題を指摘し続けないといけないのはつらいが、問題を整理して言葉にしていきたい。「あの時、もっとこうできたらよかった」と自分を責めてしまうこともあるけれど、差別や暴力の構造を理解することは、そんな自分を許し、傷つきから回復するためにも大切で、加害者に「NO」を突き付ける力にもなる。

 

少女から大人たちへのメッセージ 第43回

大人に伝えたいこと~少女からのメッセージ 
大きな一歩を超えて(18歳・Nさん) 
 
   2020/01/29
     女子高校生サポートセンターColabo (一般社団法人) 
    
    うちが、援助交際をはじめたのは中学2年生の時だった。きっかけは何やろかも思い出せんぐらい些細なことだったと思う。そしてこの時から家出をし始めた。
    初めて自分の体をお金に変えた日のことは、今でも鮮明に覚えてる。一番に思ったのは、こんな簡単にお金ってもらえるんだってこと。ただ気持ちいい振りをすればいい。ただ我慢すればいい。楽して稼げることを知った瞬間だった。
    でも、本音はお金目的なんかじゃなかった。寂しさを埋めてほしい。うちが生きてることを証明したい。本当はそんなことを思ってた。
    何度も何度も、援助交際をやめようと思ったけどやめれなかった。一度しか会わないし、その場だけの関係。そういうふうに割り切ってたからこそ、何でも話せた。自分より長く人生を生きてる人から言われる言葉はすごく胸に響いた。体が目的でも、嬉しかった。でも、罪悪感は増えた。
    いつも何かにおびえてた。周りの目が気になった。見られてるんじゃないのかって。周りをキョロキョロしてしまうのが止まらなかった。今でもその癖は残っているけど。
    援助交際を通してうちは、たくさんのものを失ったけど、それと引き換えに得たこともあった。少年院まで行ってしまったけど、少年院で過ごした日々はうちにとって青春でもあり、足元にある幸せに気付かさせてもらえました。
会いたい人にすぐ会えること。
みんなで協力することの楽しさ。
社会ではどーしようもないうちじゃったけど、人の絆の強さを肌で感じることができた。
    非行に走ってたくさんの人を傷付けてしまったり、たくさんの人を泣かしてしまいました。それでも見捨てずに傍におってくれた友達、その他私を待っててくれた人がいたからこそ更生という道を今、遠回りしながらも進んでます。
    同性との関係が上手くいかなくなって、異性に逃げてしまったことから始まった援助交際。そういうイメージがあるけど、そうじゃない人もいる。一人一人の気持ちに耳を傾けてもらえたら、うちは、嬉しいです。
    最近も過去のフラッシュバックに襲われ、自分を見失ってもーいやだ、もー疲れた、そんなことばっかを言い続けてた。援助交際をしてきた過去、家出を繰り返してきた過去、流産をしてきた過去、まだまだ沢山の思い出したくない過去。過去に縛られて、「どーせ」って言葉ですましてきて何もかも諦めていた。親に愛想つかれ、名前を名のるなとまで言われ、誰も信じれなくて親から逃げる日々が苦しかった。
いつまで追われるのだろうか。
いつまで監視されるのだろうか。
    親の育て方が異常なのは分かってた。けど、これがうちの親だと思い誤魔化してた。ご飯中は私語禁止、そして英語の歌が流れてた。喋ることはほぼ禁止じゃから、紙に書いて名前と日付と印鑑的なの押してた。
    言ったとか言わないとかで揉めるのが嫌だったから、と親は言ってた。
何かあれば過去のことを言われ、「言える立場じゃない」って怒られ、「誰のおかげで」って「うちのために」って言われ続けたことで、そんな心配してくれてるんだって感覚になったけど、結局は洗脳だったんやろなって。
    親が泣いてるのを見たことないし、影で泣いてるなんて知った時、我慢さしてるって思って、うちも親を苦しめてるという罪悪感が増えた。
    学校に行かなければ自由はないと言われて、そしてご飯も出てこない、そんな生活だった。何かあれば警察に電話された。日常的に、お決まりのように殴られ蹴られてきた。これが当たり前だと思ってた。
親に愛されてるって何だろと、今も分からない。
    異常な監視が今も続いている。そんな家庭で育った私は、彼氏ができても上手く愛せなかった。好きだけど好きって感情が分からなかった。だから振り回し、違う男の人の所に行って、そんな繰り返しじゃった。
    クズなんはわかってます。最低で、人の気持ち弄んでたんやと。それでも離れんでおってくれた友達、大切な人に感謝をしてます。本気で叱ってくれて、本気で泣いてくれて、本気でうちと向き合ってきてくれました。けど、私には体しかないって考えは抜けなかった。
    それでも私の中身を好きになってくれた人、私の笑顔を好きになってくれた人――。私は今、大事な友達に囲まれて生活でき幸せです。そして私をサポートしてくれてる方々、私のこれからを信じてくれてありがとうございます。
    何人もの大事な友達の死も経験し、死ぬことの儚(はかな)さを知りました。あの子達が最後、笑顔で「この人生でよかった」って言ってたよう、私もそう言って終えられる人生でありたい。
    今、私は環境も変え、新たな場所でのSTARTを切りました。今も親の監視は続き、支配からもまだ抜けられてません。まだまだ安定した生活ではないけれど、私の人生はやっとここからです。何かもリセットしてきて、ここにいます。
たくさん後悔して泣いてきたけど、もう後悔はしたくない。援助交際、家出、流産、仲間の死、高校中退など、18年で私は私なりにたくさん勉強さしてもらいました。
    無理に家に帰されるのが嫌でした。補導されれば家や親元に返され、保護してくれる団体も親元に返すと思っていました。だから怖かったし、見たら逃げてました。家や親元が嫌で外の世界にいてました。その繰り返しだったと、当時を振り返ると思います。
    家以外に帰れる場所を作ってほしい。でも警察官の中には親が悪いってちゃんとわかってくれてた人がいて、親に保護官をつけたほうがいいと言ってくれた人に本当に救われました。
    最後に、Colabo(コラボ)みたいな場所が増えてほしい。私はコラボに来て、こんな笑い合えたり共感できたりできる仲間と出会え、生きててよかったと思いました。コラボに来てなかったら私は元の生活に戻ってただろうし、笑ったりももうなかったと思うぐらいです。
    当たり前のように帰れる地元から逃げてるのは、情けないけど、うちがこれから生きるために自分らしくいるためにした選択。大きな一歩じゃったけど、踏み出しことには後悔はありません。

きょうの潮流(しんぶん赤旗)
2020年1月30日
 千葉県野田市で小学生の女児が虐待によって死亡し、父親らが逮捕された事件から1年がたちました。このほど専門家による検証報告書がまとまりました。市や学校、教育委員会、児童相談所など関係機関に多くの問題があったことを指摘しています▼女児は学校のアンケートに「お父さんにぼう力を受けています」と書いていました。しかし、「周りのおとながその声に応えなかったせいで、その後、二度と訴えることをしなくなってしまった」と報告書は述べています▼救えたはずの命でした。報告書は「子どもを守り通す組織がつくられていくことを切に望む」と結ばれています。虐待に対応する専門の職員の大幅増員などを政治の責任で進める必要があります▼先日、児童虐待をテーマにしたあるシンポジウムで、息子を虐待してしまった男性の話を聞きました。中学受験に合格させようと、塾に行ってもなかなか成績が上がらない小学生の息子に毎晩遅くまで勉強させました。間違えると怒鳴り、殴る。包丁を突きつけたこともありました▼男性自身、会社で1時間も2時間も怒鳴られ続け「結果を出さなければだめだ」と努力を否定される日々。「息子にも厳しい社会に負けない力をつけさせなければと思った。殴ってでも勉強させるのが正しいと思っていた」▼激しい競争と人権無視の中でおとなが追い詰められ、そのおとなが子どもを追い詰める。虐待自体を生まない世の中をどう実現するか、社会全体の見直しが求められています。