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安倍政権と内調の闇を暴いた映画『新聞記者』が日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞する快挙! 主演女優賞、主演男優賞も

2020年03月07日 | 映画

  リテラ 2020.03.06


 快挙と言っていいだろう。安倍政権を批判した映画『新聞記者』が、本日発表された第43回アカデミー賞で、最優秀主演女優賞、最優秀主演男優賞、さらに最優秀作品賞を受賞した。
 主人公の女性記者を演じたシム・ウンギョンが、最優秀主演女優賞。受賞を予想していなかったと号泣しながら、共演者たちへの感謝を述べた。
 もうひとりの主人公・内閣情報調査室ではたらくエリート官僚を演じた松坂桃李も、最優秀主演男優賞を受賞。これほど踏み込んだ作品のオファーを受けた理由を問われ「純粋にこの作品の根底に、いろんな情報があるなかで、自分の目で自分の判断でちゃんと意思を持とうよっていうメッセージ性がしっかりと込められているなと思ったので」と答えた。
 さらに最優秀主演男優賞受賞が決まると、松坂は『新聞記者』が世に出るまでの紆余曲折・苦労をこう打ち明けた。
「この作品は、僕の知る限り、実現するまで二転三転四転五転ぐらい、いろんなことがあって。それでもこの作品を届けたいという人たちが集まって、撮り切ることができました。僕自身もものすごく、10年ちょっとですけど、やってきて、ものすごくハードルの高い作品、役だと思ったんですけれども、ウンギョンさんと一緒にお芝居できて、最後まで駆け抜けることができました」
 映画公開にいたるまでたくさんの紆余曲折があったのも、演じることに高いハードルがあったのも、言うまでもなく、この作品が安倍政権の闇、とりわけ官邸の“謀略機関”となっている内閣情報調査室を描いた作品だからだ。
 本サイトが、公開前日にこの映画を紹介した記事を以下に再録するので、ご一読いただきたい。
 権力者から直接的な命令はなくともその意向を忖度し、同調圧力のもと民衆同士も空気を読み合い監視し合う、ゆるやかな全体主義ともいえる安倍政権下の日本。そこで奪われているものは何か、それを打破するために必要なものは何か。
 受賞をきっかけに、あらためてこの映画の突きつける問いを多くの人に受け止めてもらいたい。
(編集部)
………………………………………………………………………………………
 明日、あまりに衝撃的な一本の映画が全国公開される。菅義偉官房長官に果敢に切り込みつづけている東京新聞・望月衣塑子記者の著書を原案とした藤井道人監督の『新聞記者』だ。
 一体、何が衝撃的なのか。それは、劇映画というフィクション作品でありながら、ここ数年のあいだに安倍政権下で起こった数々の事件をまさに総ざらいし、あらためてこの国の現実の“異常さ”を突きつけていること。そして、その“異常さ”の背後にある、官邸の“謀略機関”となっている内閣情報調査室の暗躍を正面から描いていることだ。
 ストーリーは、東都新聞という新聞社に、ある大学新設計画にかんする極秘文書がFAXで送られてくることからはじまる。取材に動くのは、日本人の父親と韓国人の母をもち、アメリカで育った女性記者・吉岡エリカ(シム・ウンギョン)。そうした最中にも、政権に絡んだきな臭い問題が立てつづけに起こるのだが、その裏側で動いているのが、内閣情報調査室だ。
 内調に出向している若き官僚・杉原拓海(松坂桃李)は、粛々と任務をこなしていた。政権を守るための情報操作に、政権に楯突く者たちを陥れるためのマスコミ工作……直属の上司である多田内閣参事官(田中哲司)は「国のため」「国民のため」だと言うが、そんななかで杉原の元上司である官僚が自殺したことをきっかけに、吉岡が追う大学新設計画にかんする国家ぐるみの計画を知ることになるのだが──。
 観客にとってきっと忘れられないシーンになるであろうラストまで、息をつかせない重厚な政治サスペンスが繰り広げられる『新聞記者』。だが、あらためてハッとさせられるのは、物語を大きく動かしていく大学新設計画の問題のほかにも、政権に睨まれた元文科省官僚に対するスキャンダル攻撃や、“総理ベッタリ記者”による性暴力被害ともみ消しを訴える告発、政権とメディアの癒着・圧力、官僚の自殺など、さまざまな事件が起こってゆく点だ。
 微妙な違いはあるものの、これらは言うまでもなく、この国で実際に起こった森友公文書改ざん問題での近畿財務局職員の自殺や、加計学園問題に絡んだ前川喜平・元文科事務次官に仕掛けられた官邸による謀略、伊藤詩織さんによる告発などが下敷きになっている。実際、本作の企画・製作をおこない、エグゼクティヴ・プロデューサーを務めている河村光庸氏は、このように述べている。
「これらの政治事件は本来であれば一つ一つが政権を覆すほどの大事件です。ところがあろうことか、年号が令和に変わろうが継続中であるべき大事件が一国のリーダーと6人の側近の“令”の元に官僚達はそれにひれ伏し、これら大事件を“うそ”と“だまし”で終りにしてしまったのは多くの国民は決して忘れはしないでしょう」(「論座」6月23日付)
 普段、御用メディアによる報道しか接していない人がこの映画を観れば、「こんな腐敗や不正が立てつづけに起こるなんてフィクションだ、映画の世界の話だ」と思うかもしれないが、これはすべて実際に、短期間のあいだに起こったことなのだ。逆に、この一連の動きを知っている観客ならば、本作によって、あらためてこの国の現実に背筋が凍ることは間違いない。
 そして、なんと言ってももっとも衝撃的なのが、官邸と一体化した内閣情報調査室の暗躍ぶりだ。「こんなことまでやっているのか」と驚愕させられる謀略の数々に、これもまた観客のなかには「映画だから」と言う人もいるかもしれないが、内調の問題を追及してきた本サイトから先に言っておくと、映画が描いている内調の謀略は現実にやっていることがほとんどだ。
 たとえば、映画では、伊藤詩織さん事件をモデルにしたと思われる事件をめぐり、松坂演じる杉原が上司に命じられるままチャート図をつくって週刊誌に横流しするシーンが出てくるが、現実でも同じことが起きていた。伊藤詩織さんが司法記者クラブで実名顔出しで記者会見をおこなった際、詩織さんと詩織さんの弁護士と民進党の山尾志桜里議員の関係をこじつけ、詩織さんを「民進党関係者」だとするフェイクチャート図の画像がネット上に出回ったが、これも、内調が謀略チャート図を政治部記者に流していたと「週刊新潮」(新潮社)が報じているし、本サイトの調査では、内調が情報を直接2ちゃんねるに投下した可能性すらうかがわれた。
本物の前川喜平氏も映画に登場し“出会い系バー”通いの謀略を証言!

 さらに、映画には、前述したように、前川喜平元文科事務次官の“出会い系バー通い”リーク問題を下敷きにしたと思われる事案も登場する。
 本サイトでは繰り返しお伝えしてきたが、前川氏の“出会い系バー通い”の情報は、もとは公安出身の杉田和博官房副長官や内調が調査して掴んだものだったという。それを使って加計学園問題の「総理のご意向」にかんする前川氏の告発の動きを封じ込めるために、読売新聞にリークしたのだ。
 当時、本サイトはいち早く報じたが、じつは読売の記事が出た直後から、官邸記者クラブのオフレコ取材では読売記事についての話題が出ていた。そのなかで読売に情報を流したと言われている安倍首相側近の官邸幹部が、記者にこう言い放っていたことをキャッチしている。
「読売の記事にはふたつの警告の意味がある。ひとつは、こんな人物の言い分に乗っかったら恥をかくぞというマスコミへの警告、もうひとつは、これ以上、しゃべったらもっとひどい目にあうぞ、という当人への警告だ」
 内調と官邸が一体化し、告発者だけではなくマスコミまで恫喝するために、何の事件性もないものを最大手の新聞社に記事として掲載させる──。とんでもない話だが、映画では、この内調の前川元次官に対する謀略報道とそっくりなディテールが登場するのだ。
 しかも、驚いたのは、前川氏本人が映画に登場したことだ。主人公が見ている「番組」という設定で、前川氏や新聞労連委員長で朝日新聞記者の南彰氏、元ニューヨーク・タイムズ東京支局長であるマーティン・ファクラー氏、そして原案者である望月氏の座談会の模様が挿入されるのだが(この動画は公開前に「ハフィントンポスト」がYouTubeで公開中)、前川氏はそのなかで週刊誌にも“出会い系バー通い”がリークされたことを明かしている。
「あるほう(「週刊新潮」)は『新宿である店に出入りしているそうだけども、その話が聞きたい』と言ってくる。もうひとつのほう(「週刊文春」)は『そういう話を聞いたんだけども、そっちの話じゃなくてあっちの話を聞きたい』と。そっちは書かないけれども、書かない代わりに、ある大学の獣医学部設置にかかわる内情を聞きたいと。そういうアプローチがあったんですよね。これは非常にわかりやすかった。それは出所は同じだったんだろうと思うわけでね」

原案の望月記者も「望月さんを内調が調べ始めた」と国会議員らから聞かされたと証言

 もうひとつ興味深かったのは、この座談会で、東京新聞の望月記者も自分が内調に狙われていたことを明かしたことだ。
「私自身の記憶で言うと、やはり非常にバトルを官房長官とやっていたときに、ある内調(の人物)が、非常に仲が良いと、私はその議員が誰だか知らないんですけど、その国会議員に、内調が『望月さんってどんな人?』という調べる電話をかけてきた。この国会議員が非常に仲が良い、あるジャーナリストの人に『望月さんのこと内調が調べ始めたよ』という話をするんですね。この人(ジャーナリスト)から私に『望月、調べられているから気を付けておけ』っていう」
「彼(内調)が知っている政治家とかジャーナリストを使って、あなたを見ているんですよと、ウォッチングしているんですよ、ということを、やっぱり政権を批判的に言ったり厳しめにつっこんでいる私とかに対して、間接的な圧力になるように、そういうことをやると」
 官房長官会見で質問をおこなうことは記者として当然の行為であり、それに答えるのが官房長官の務めだ。しかし、その当然のことをするだけの望月記者に質問妨害をおこなったり、官邸記者クラブに恫喝文書を叩きつけている官邸。だが、それだけではなく、内調を使ってこんな脅しまで実行しているのだ。
 いや、内調と官邸による情報操作、マスコミ工作は映画で描かれているもの以外でもいくらでもある。
 たとえば、2014年、小渕優子経産相や松島みどり法相など、当時の安倍政権閣僚に次々と政治資金問題が噴出した直後、民主党の枝野幸男幹事長、福山哲郎政調会長、大畠章宏前幹事長、近藤洋介衆院議員、さらには維新の党の江田憲司共同代表など、野党幹部の政治資金収支報告書記載漏れが次々と発覚し、政権の“広報紙”読売新聞や産経新聞で大きく報道された(所属と肩書きはすべて当時)。ところが、この時期、内調が全国の警察組織を動かし、野党議員の金の問題を一斉に調査。官邸に報告をあげていたことがわかっている。
 
 また2015年、沖縄の米軍基地問題で安倍官邸に抵抗していた翁長雄志・沖縄県知事(当時)をめぐって、保守メディアによる「娘が中国に留学している」「人民解放軍の工作機関が沖縄入りして翁長と会った」といったデマに満ちたバッシング報道が巻き起こったが、これも官邸が内調に命じてスキャンダル探しをおこない、流したものといわれている。
 野党や反対勢力だけではない。前川氏に対してもそうだったように、内調は官僚の監視もおこなっている。2017年には韓国・釜山の総領事だった森本康敬氏が電撃更迭されたが、これは森本氏がプライベートの席で慰安婦像をめぐる安倍政権の対応に不満を述べたことを内調がキャッチ。官邸に報告した結果だったと言われる。

報道の萎縮が進行するなか、映画『新聞記者』が突きつけるメディアの使命!

 まるで映画のような話だが、この映画のような謀略が、この国では当然のようにおこなわれているのである。そういう意味では、『新聞記者』が描いているのはフィクションではなく、まさに現実なのだ。
 しかし、このような独裁的な振る舞いを平気で見せる安倍政権下で、状況をさらに悪くさせているのは、あらためて指摘するまでもなく、メディアの姿勢だ。映画『新聞記者』は、吉岡記者の姿を通し、強大な権力と対峙する恐怖のなかでも真実を伝えようとするジャーナリストの使命を浮き彫りにしている。
 前述したエグゼクティヴ・プロデューサーの河村氏は、製作にあたっての思いをこうも述べている。
「前提としてですが、私はどこかの野党や政治勢力に与するものではありませんし、この作品は一人の記者を礼賛するでもありません。むしろ報道メディア全体、記者一人一人に対するエールを送るつもりで作りました。
「これ、ヤバいですよ」「作ってはいけないんじゃないか」という同調圧力を感じつつ映画を制作し、宣伝でも多くの注目を浴びつつも記事にはしてもらえず、それでも何とか公開まで持っていこうというのが今の状況です」
 大手メディアで政権への忖度がはたらき、報道の萎縮が進行しているなかで、映画でこの国の問題に正面から向き合う──。河村氏をはじめ、見事な作品へと昇華させた藤井監督、製作側の思いに応えたキャスト陣(とりわけ人気俳優でありながら、この挑戦的な作品に主演した松坂桃李)には、大きな拍手を送りたい。そして、ひとりでも多くの人が劇場に足を運び、映画のヒットによって大きなうねりが生まれることを期待せずにはいられない。
(編集部)

⁂  ⁂  ⁂

 最優秀監督賞は「翔んで埼玉」の武内英樹監督、最優秀助演男優賞は「キングダム」の吉沢亮さん、最優秀助演女優賞は同映画の長澤まさみさん、最優秀アニメーション作品賞は「天気の子」、最優秀外国作品賞は「ジョーカー」に贈られた。
 他の主な部門の最優秀賞は以下の通り。(敬称略)
 美術賞=斎藤岩男(キングダム)▽撮影賞=河津太郎(同)▽録音賞=久連石由文(蜜蜂と遠雷)▽編集賞=河村信二(翔んで埼玉)(東京新聞)


内田樹「打って一丸」の危うさ

2020年03月07日 | 社会・経済

BLOGOS 2020年03月06日 
  内田樹

 ある媒体のロングインタビューの中で「打って一丸となる」ことの危うさについて語った。日本人が「打って一丸」となるとだいたいろくなことはないのである。では、国難的状況でわれわれはどうしたらいいのか。

──内田さんの『生きづらさについて考える』を読んでいて目から鱗だったのは、政権与党側が、わざとまともに質問に答えなかったり、ヤジを飛ばしたり強行採決したりして、もはや議会制民主主義が機能していないという印象を与えることで、計画的に投票率を下げている、という分析でした。

 立法府に対する信頼を掘り崩してゆくことが自民党の長期的な狙いで、それは成功しています。国会審議は無意味な政治ショーに過ぎない、国会議員というのは知性においても徳性においても優れた人間ではないというイメージを広めてゆけば、有権者は選挙に関心を失います。投票率が下がれば、今の選挙制度では、組織票を持っている政党が勝ち続ける。

 安倍政権はその計画的な国会審議の空洞化にはみごとに成功したと思います。どんな質問にもまともに答えない、平然と嘘をつく、前言と矛盾してもまったく気にしない、与党が出す法律はどれほど野党が反対しても最後は強行採決される・・・そういうことを7年繰り返していれば、国民も「国会には存在理由がない」と思うようになります。結果的に、閣議決定や内閣の恣意的な法解釈が国会での審議や立法を代行するようになりつつある。「法の制定機関」と「法の執行機関」が同一である政体を独裁制と呼びますから、その定義を適用すると、安倍政権はすでになかば事実上の独裁制になっています。

 これまでの憲政の常識を当てはめればもう10回くらいは内閣総辞職していないとおかしいくらいに失政・不祥事が続いているにもかかわらず、安倍政権は何ごともないように延命して、憲政史上最長記録を日々更新しています。

 ふつうは内閣支持率が6割近くないと円滑な政権運営はできないので、どんな内閣も国民のマジョリティの同意をめざして政策を立案するものですけれど、安倍内閣は違います。30%ほどいる自分のコアな支持層だけに受ける政策を採り続けている。そして、確かにそれで十分なのです。というのは、残り70%の有権者は自分たちの意志はしょせん国政には反映しないという無力感に蝕まれているので、投票のインセンティブを失っているからです。「自分たちの意志が国政に反映されている」と感じる30%と「何を訴えても国政には反映されない」と感じる70%に有権者を二分すれば、30%が選挙では勝ち続ける。そういう仕掛けです。

──それにより安倍政権は歴代最長の政体になりましたが、いまの政権や自民党の状況は、これまでの日本の政治のなかでどのように位置づけられるでしょう?

 末期です。安倍政権が終わった時に同時に自民党という政党も終るでしょう。自民党がかつてのような国民政党としてもう一度党勢を回復するということはないと思います。

 70%が反対する政策であっても、30%が支持すれば実施できるという成功体験に自民党は慣れ過ぎました。国民を分断して敵味方に分けて、味方を優遇して敵を冷遇するというネポティズム政治しか彼らは知らない。立場の違う人たちと対話して、譲るところは譲って、「落としどころ」を探るというような高度な交渉技術を持っている政治家はもう自民党内にはいません。かといって野党政治家にそれだけの力量があるかと言えば、これも心もとない。でも、ポスト安倍期に必要なのは、60年安保闘争で岸信介が国民を二分してしまった後に登場してきた池田勇人が「寛容と忍耐」を掲げましたけれど、あれと同じような「国民の再統合」だと思います。

──そのような状況が変わる可能性はあると思いますか?

 分断された国民の再統合が果たさなければ日本に未来はないですから。でも、「打って一丸となる」ということを勘違いしないで欲しいんです。高度経済成長期もバブルの時もそうでしたが、どちらの時期も、日本人は金儲けに夢中でしたが、国民的な分断はなかった。僕のような反時代的な、生産性も社会的有用性のまるでない人間のことも構わず放っておいてくれた。「なんで金儲けをしないんだ。バカじゃないか」と冷笑はされましたけれど、していることを「やめろ」と言われることはなかった。みんな自分の仕事に忙し過ぎて、隣の人がやっていることに口を出す暇がない。それが僕の考えるとりあえず現実的な国民再統合のイメージです。

 今日本は分断されていますけれど、それは隣の人間のやっていることをうるさく詮索して査定して、気に入らないと「非国民」とか「反日」とかレッテル貼りをするバカが湧いて出ているからです。「日本人は一つにまとまるべきだ」と言い立てながら、国民的分断を進めている。そのせいで日本はここまで国力を失った。

「自分がほんとうにやりたいことに専念する」というのが一番生産性を高めるふるまいであることはどなたでも同意して頂けると思いますけれど、ただし「専念する」には「他人のことに構ってる暇がないほど」という条件がつくんです。

 隣の人間が何しようとどうだっていいんです。自分が何をするかだけが問題なんだから。幕末のころには「志士」というのが大挙して登場しましたけれど、あの人たちは「オレが頑張らないとこの国はダメになる」と思っていた。個人の努力が国の運命を左右する、と。そういう一種の関係妄想を病んでいる人間の人口比率が一定の値を超えると、国力は増大し、国運が向上する。逆に、その比率が少ないと(つまり「オレが何をしようと、国の運命には影響がない」と思っている人ばかりだと)、国運は衰える。明治の日本が東アジアで例外的に短期間に近代化に成功したのは、その比率が例外的に高かったからだと思います。

 でも、安倍政権は70%の国民に対して、「自分が何をしても世界は変わらない」という無力感を刷り込み続けて、ついにそれに「成功」してしまった。残り30%は「オレが別に頑張らなくても、あっちの方からぜんぶお膳立てしてくれる」という居心地のよいネポティズム政治に居着いてしまった。「オレが頑張らないとこの国はダメになる」という使命感に身を焦がす・・・というタイプの人間を減らすことを制度的に推進したのです。それでは国力も低下します。

 安部政権は個人の努力が国運向上にリンクするという幻想をみごとに粉砕しました。そうすることで、無気力な、権威に尻尾を振るだけのイエスマンの大量育成には成功しましたけれど、そんな人間をどれほど頭数揃えても、国は衰えるばかりです。