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相模原障害者殺傷事件の被告に死刑判決

2020年03月16日 | 社会・経済

国の借金1000兆円という言葉と相模原障害者殺傷事件ー社会に染みつく財源不足と障害者差別の意識ー


藤田孝典  | NPO法人ほっとプラス理事 聖学院大学心理福祉学部客員准教授 
 

  Yahooニュース3/16(月) 
 
相模原障害者殺傷事件の被告に死刑判決

    やはり死刑判決であった。前代未聞の死傷者数を記録し、重度障害者を生きる価値がないものと身勝手に規定し、犯行に及んだ事件だった。 

    相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で2016年7月、利用者ら19人を殺害し、26人を負傷させたとして殺人罪などに問われた元同園職員、植松聖(さとし)被告(30)に対して、横浜地裁(青沼潔裁判長)の裁判員裁判は16日、求刑通り死刑を言い渡した。 

    被告は元障害者施設職員であり、福祉職の一人でもあった。 

    元職とはいえ、社会福祉に関与したことがある人物の凄惨極まりない犯行に対し、今も困惑しているし、生涯忘れることはない事件である。 

私自身も社会福祉士として、高齢者や障害者、生活困窮者などにかかわる立場であることから、事件には衝撃を受け、心苦しさを抱えてきた。 

そして、私たちが担っている社会福祉とは、社会保障とは何のために存在しているのか、考え続けてきた。 

福祉職を志す人々は程度の差はあっても、責任感がある人々が多い印象を持っている。 

少なからず、相談を受けたり、ケアをすることで、少しでも生活をよくしてあげたいと思うし、状況をよくしてあげられたらと思う人が多くいる。 

被告も入職当初は障害者との付き合いに楽しみや面白さを見出していた様子があるが、それが社会や施設の雰囲気などから変節し、犯行へと至っている。 

国の借金1000兆円という言葉の影響

    被告は今年1月27日の法廷で「重度障害者にお金を使っている場合ではない。彼らが不幸を生んでいる元になっていると気づいた。」と証言している。 

    日本の財政状況は厳しく、重度障害者をケアする余裕はないという理屈である。 

そして、彼らのせいで家族も職員も大変な生活をしており、彼らは存在しない方がよいと繰り返し主張してきた。 

    犯行現場となった津久井やまゆり園の入居者が「人間扱いされていない」と被告は証言しており、排他的な施設環境、家族や地域からの切り離し状況がより異常な思想を強化させることとなっている。 

    福祉予算が充実し、福祉職の人員も整備され、障害年金を含む手当が拡充している社会であれば、地域生活や在宅生活も可能だったかもしれない。 

しかし、日本の福祉予算では障害者の多くが今も施設暮らし、病院暮らしを余儀なくさせられている。 

もちろん、被告の主張通り、福祉専門職の処遇や給与は、その業務の大変さと比較して、極めて低水準であることは周知の事実である。 

    重度障害者のケアに予算がかけられていない政府や社会の事実から、被告は「不幸を生む存在」と規定したのだろう。 

    政府や財務省は国の借金が1000兆円あり、財政的な余裕はないことを繰り返し喧伝してきた。 

若者を凶悪犯に変貌させたアナウンス効果は絶大である。 

    福祉専門職は本来、この予算制約と闘い、日々福祉予算の確保を求める役割も負っている。 

    被告が政府や財務省の言い分を鵜呑みにし、予算拡充に力を入れてもらえなかったことが悔やまれる。 

    福祉関係者も近年、制度政策を導入すると「将来のコストはこれだけカットできる」「この予算は将来の投資だ」という文脈でしか、議論することができていない場面にも遭遇する。 

    例えば、子どもの貧困も子どもや親の人権や生活を守るだけでなく、必ず「将来の投資」「子どもは将来の納税者だから支える価値がある」と説明される。 

では、このような市場原理に適さない、あるいは投資するに値しない対象には予算措置をしないのだろうか。 

だからこそ、被告は犯行後にも「死刑になる罪ではない」と重度障害者の殺傷を予算削減のための行為として自己弁護する。 

    重度障害者は「将来の投資」でもないし、投資するに値しない対象だと、おぞましいが勝手に判断する。 

そして、最悪で醜悪なことは、この行為に賛同する世論がインターネットなどに広がっており、彼の言動を後押ししていることである。 

    私たちの社会は、重度障害者を排斥するのではなく、重度障害者へのケアの拡充や地域生活への移行、そのための予算・人員を整備することが可能である。 

    欧州や北欧でできていて、日本にできないはずがない。できれば、同じ事件を繰り返さないためにも、重度障害者のケアや福祉予算の拡充こそ、求めてほしいと思っている。 

「国を想う愛国者」としての被告

    要するに、本件は社会保障費増大で国の借金を心配する愛国主義者、偏狭なナショナリスト、歪んだ責任感が招いた事件という側面も有していることに注目してほしい。 

    被告は国の将来や財政を想い、安倍首相や衆議院議長への手紙を準備し、トランプ大統領のメキシコ移民の排外主義へ共感も示している。 

    世界各国で経済成長が行き詰まるなか、福祉予算、社会保障が岐路に立たされていることも事実である。 

    被告はだから、あくまで国を想い、財政負担を軽減させるために、重度障害者を殺傷したのである。 

言語道断であるが、この雰囲気や風潮を作ってきたのは誰だっただろうか。 

    「国を想う愛国者」は差別を助長し、財政を守るために人々を次々に排斥する役割を果たすことで良いはずがない。 

全ての人間が不完全であり、欠陥を抱えているからこそ、お互いが助けあっていく必要がある。 

社会福祉、社会保障とはそのための仕組みでもある。 

    被告のように、誰かを誤って勝手な理由で排斥する社会は、他の誰もが住みにくい社会であることは明白だから、当事者は差別や排除を許さずに抗ってきた。 

    私たちは健康であること、美しいこと、働くこと、生産すること、家族と仲良くあること、皆と同じであることなどに強い価値を置いている。 

それから逸脱しようものなら、差別をしながら、社会から排斥されることとなる。 

    障害者に限らず、「子どもを生むこと」「正社員として働いて給与を得ること」「家族を扶養すること」など私たちにも様々な規範、役割を押し付け「社会のお荷物」になることを否定する社会である。 

    生活保護受給者やひきこもりなどへの差別も根強く残っている。生産性がなければ必要性がないと言わんばかりである。 

このような風潮の先に相模原障害者殺傷事件があるということを忘れないでおきたい。


 

今日の散歩道