日本人は「資本主義の怖さを知らなさすぎる」の訳 マルクス主義はソ連と中国とはまったく異なる
斎藤 幸平
東洋経済オンライン2022/10/18
資本主義が優れていて「社会主義は最悪」という考えの危険性とは――。
日本人は「社会主義」や「マルクス」という言葉に嫌悪感を示しがちだ。しかし、東京大学准教授の斎藤幸平氏によると、私たちは「社会主義は最悪だ」と思い込むことで、資本主義が地球環境や社会を破壊し尽くしていることに気づけなくなっているという。斎藤氏の最新刊『天才たちの未来予測図』より、「日本と世界が直面している危機」について紹介する。
私はマルクス主義者として、地球環境と社会を破壊し尽くそうとしている「資本主義」を乗り越え、もっと誰もが自由で、幸せに生きられるコミュニズムの可能性を考えようとしています。
本当に社会主義は最悪なのか?
マルクスやコミュニズムに悪いイメージを持っている人も多いと思います。たとえば、私はTwitterのプロフィール欄に「マルキシスト」と書いていますが、それを見た人から「やばい人ですか?」と聞かれます。
プロフィール欄に「起業家」とか「CEO」とか書いてあっても、別に誰もなんとも思わない。「あ、そうなんだ」で終わりですよね。けれどそれが「マルクス主義者」や「左翼」というと、「こいつはちょっと危ないやつなんじゃないか」と思われてしまう。
ただ、そう感じる人の気持ちもわからなくはありません。ソ連のスターリンや中国共産党には独裁のイメージがあるし、左翼の運動といえば、かつての学生運動の殺し合いみたいなこともたしかにありましたから。
実際、ソ連がよかったかというと、私自身も最悪だと思っています。中国だって北朝鮮だってひどい。日本の社会のほうが断然いいです。
なので、もちろんソ連を現代に復活させたいわけではありません。
それでも、私が社会主義やコミュニズムの必要性をあえて訴えているのには、2つの理由があります。
第一に、ソ連や中国は社会主義というよりも、国家・官僚主導型の資本主義だったという点です。あれを社会主義だと見なすこと自体が間違いだとわかってもらいたいからです。実は、マルクスが描いていたコミュニズムは、ソ連と中国とはまったく違う社会です。
もう1つの理由は、前述のイメージとも関連しますが、ソ連や中国を唯一の資本主義への代替案と見なすことで、「資本主義ではない社会」への想像力を私たちが失っているからです。
つまり、みなさんに考えてみてほしいのは、「社会主義は最悪」という固定観念のせいで、「だから資本主義しかない」と思わされている可能性です。「マルクス主義や社会主義はやばい」と信じることで、「日本最高じゃん」「アメリカみたいになろうぜ」というマインドになってしまっているわけです。
けれども、本当に日本は最高ですか? こんなに格差や不平等があるのに?
今、民主主義も脅かされています。せっかく、これだけ技術も発展したのだから、もっと平等で自由な社会の可能性を考えてみてもいいと思います。そして、そのヒントを与えてくれるのがマルクスなのです。
資本主義のもとで生じている問題
資本主義のもとで現在生じている問題は、ざっくり大きく2つあります。
1つは格差が圧倒的に広がってしまっていること。
特にアメリカで顕著ですが、ジェフ・ベゾスやマーク・ザッカーバーグ、イーロン・マスクといった一部の成功者がものすごい資産を持っている。プライベートジェットを乗り回し、いくつもの豪邸を世界中に持っているわけです。宇宙にも行こうとしていますよね。しかも彼らは、コロナ禍にますます資産を増やしている。
一方で、コロナ禍で職を失い、一気にホームレスに転落したりなど、苦しい生活を強いられている人が、日本やアメリカにもたくさんいます。
そこまでではないにしても、仕事があり、衣食住が保証されている私たちもとても豊かだとはいえません。月々の家賃を払って、携帯電話の料金を払って、何回か飲み会をしたら、財布はすっからかん。そんなカツカツの生活しか送っていないじゃないですか。ものすごい長時間労働を強いられ、いつクビになるかわからないという不安を抱えて必死に働いているにもかかわらず。そんなクソみたいな社会でいいのかという話です。
もう1つの危機は、気候変動が深刻な問題となっていることです。
このままのペースで気候変動が進めば、今世界中で起きている異常気象は、山火事や洪水のような自然災害のみならず、水不足や食糧危機をもたらしますし、難民問題も引き起こします。若い世代や途上国に住む人たちにとっては、文字通り死活問題になるような大きな環境変化が起きるでしょう。もう気候変動問題は、本当に一刻の猶予もないところにまできています。
そしてここにも、経済格差の問題が隠れています。
富裕層が便利で贅沢な暮らしをするために、大量のエネルギーや資源を使っている。たとえば、プライベートジェットに1人で乗るのに、わざわざ膨大な燃料を消費して、鉄の塊を飛ばしています。「持てる者」たちの、「快適さ」を追求するために、とんでもないエネルギーの浪費が行われているわけです。けれども、彼らは気候変動の影響をほとんど受けません。犠牲になるのは、いつも貧しい人たちなのです。
だから、もっと平等で、持続可能な社会をつくっていかないと、金持ちのせいで、私たちの生活は脅かされてしまう。地球を犠牲にしながら、富める者たちが、より富むようになっていくという資本主義の仕組みは「限界」を迎えつつあるのです。
たぶん、環境危機の問題と不平等の問題が、密接に関係していること、そしてそれが資本主義の欠陥と関係していることは、うすうすみなさんも気づいていると思います。新しい社会に移行したいという気持ちが、日本でも高まっているのだと思います。
ソ連は「社会主義」ではない
繰り返しますが、ソ連のほうがよかったなんていいたいわけではもちろんありません。そもそもソ連や中国の問題点とはなんなのでしょうか。彼らのマルクス理解は、大雑把にいうと次のようなものでした。
まずみんなでどんどん経済成長するために、技術革新を起こし、生産力を上げていく。しかし、資本主義だとせっかく生み出した富がすべて資本家たちによって独占されてしまい、労働者たちは貧しいまま。そこで、革命により資本家たちを排除すれば、社会の富を全員でシェアでき、誰もが豊かな生活ができる。
……なので、ソ連や中国は技術の発展と生産力の向上を徹底的に志向したわけです。しかし、それで社会主義になるというのは、幻想です。
飢餓や病気を抑えて生存するために、ある程度まで経済成長や技術発展が必要なのは当然です。しかし、経済成長だけを求めると、労働者たちは酷使され、ものすごい環境破壊が引き起こされます。「資本家打倒」という反米のお題目を唱えて、人間も自然も犠牲になる。実際、ソ連ではアメリカや日本よりもひどい人権問題や環境破壊が起きていました。
では、なぜこのようなことが起きたのか。それはソ連が「社会主義」ではなかったからです。
「とにかく生産力を上げて、経済成長しよう」という幻想に陥った結果、やっていることは資本主義とあまり変わりませんでした。ただ、資本家支配が官僚支配に置き換えられただけだったのです。これは私が目指す社会とはまったく違うものです。ソ連が崩壊し、資本主義が地球環境を破壊している今だからこそ、私たちは改めて、資本主義の問題点を解決するために、マルクスに立ち返るべきなのです。
資本主義によって生じている問題の解決法は、マルクスの「研究ノート」を読み込むと見えてきます。
マルクスの最も有名な著作は『資本論』ですが、この本は完成していません。マルクスは最後の最後まで研究を続けたけれど、未完に終わった。だから、マルクスの最晩年の思想を知ろうとすると、彼の研究ノートを読まないといけないのですが、そこには、自然科学についての記述がたくさんあったのです。
私の最初の本『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』(堀之内出版)は、そのノートを読み解いていった本ですが、晩年のマルクスは、かなり環境問題に目を向けていることがわかります。「資本主義的な発展」の中で、とにかく利潤を上げるために技術開発ばかりに目を向けると、労働者がますます服従させられ、自然環境も劣化させていくと、はっきりと批判しているのです。
「格差」と「環境問題」を同時解決
その批判を今日に置き換えてみましょう。現代は「人新世」の時代だといわれています。人新世とは地質学の概念で、人類の経済活動が地球の気候や生態系に影響を及ぼすようになった時代のことを指します。
資本主義がひたすら経済成長を目指した結果として、人類は地球のあり方を根底から変えるようになり、それが今、気候変動やパンデミックという形でしっぺ返しを食らうようになっている。この危機を、無限の経済成長を有限な地球上で求める資本主義は解決できない、というのが晩年のマルクスが考えていたことでした。
その際、マルクスが直面した課題は次のようなものです。つまり、「格差」と「環境問題」を、「同時に」解決する道を探さなければならないということです。
1つだけを解決することならできるかもしれません。たとえば、格差の問題を解消しようとして、さらなる大量生産、大量消費による経済成長を目指すことは可能でしょう。けれども、そうすればどうなるか。生産・消費の加速に、自然が耐えられず、環境が破壊されてしまいます。
したがって、「格差」と「環境」を「同時に」解決していかなければ、文明崩壊の危機は乗り越えられないのです。
発達した資本主義国では、資本主義を乗り越えたならさらなる「大量生産、大量消費」を目指す必要はありません。偏った富を再分配すればいいことでしょう。社会主義とは、資本家が独占した富を社会が共有する社会です。すべての働く人々が、すべての労働が、平等に認識される「多様性」の上に立った社会なのです。
園のようす。