小中学校を通じて教室の暖房はダルマスト-ブだった
慣れるまで火はうまく行かず 上級生の力を借り覚えて行った
今ではとても小学生に火を扱わせるなどという発想はありえないが
当時 そこの学校でも事故があったという記憶は無い
昼飯には皆アルミニュ-ムの四角な弁当箱を持参したが
この弁当箱をスト-ブの周りに並べて少しでも温める者もいた
しかし 大して温まるわけでもなく
お湯を掛け お湯をすすりながら食べたように思う
しかし休み時間はスト-ブの周りに集まってのおしゃべり等は楽しかった
寒い土地ながら 家にスト-ブなどという物はなく
炬燵と火鉢だけだったから
火の扱いにはむしろ家中の者が慣れている必要のある時代でもあった
因みに 戦後 石油スト-ブが出回るまで
東京でも火鉢の家が多かったのではないだろうか
僕は 学生時代 小さな置き炬燵を必需品としていた
しかし 後に 教師となって宿直をする様になってから
燃料は段々と薪にかわったが このスト-ブは厄介な代物だった
一夜に校内を何回か見回るのだが 大丈夫だと思っても気になって
廻るたびに手を付けて冷えているのを確認せざるを得なかった
昭和39年東京へ出てくるまで こうした生活は続いた
SLと全く同じように ダルマスト-ブという物は
まさに生き物のように猛猛しさがあった 終
☆田舎の家は 一部屋が8から15畳くらい広く
雨戸も無く 昔のガラス窓から 隙間風が容赦なく入ってきた
炬燵は掘り炬燵になっていて
よく中に潜り込んでいたが
今思うと 練炭で暖を起こしているので 危ないことだった
まあ そんなこと考える人もいなかったですけどね
勿論 家の中でも真っ赤なほっぺして 鼻たらしてたのかな?
前も書いたが 寝る時は ずっしり思い布団を2枚と毛布と掛けて寝ていた
東京に出てきた時 布団の軽さに驚いたほどでした