こんにちは!
blogカテゴリー登山に通った峠道も98話となり、
訪れた峠道を少し振り返ってみたいと思います
印象に残った絶景が広がる峠、歴史を感じる峠、最も美しかった峠等
掲載してみたいと思います
2024年も関東甲信越を中心とした歴史散歩を楽しめる峠、
絶景を楽しめる峠等巡っていきたいと思っております
今回の振り返り記事は中世、近世の息吹を感じる峠2話を
お届けしたいと思います
三国峠には上野赤城・信濃諏訪・越後弥彦の三明神を祀った
三国権現が建っている
三国峠(みくにとうげ)は、
日本の新潟県南魚沼郡湯沢町と
群馬県利根郡みなかみ町の境を越える峠
標高1,244m
三国新トンネルと三国旧トンネルが並ぶ
群馬県利根郡みなかみ町三国旧トンネル側から三国峠へ
群馬県利根郡みなかみ町三国旧トンネル側から
山道を徒歩で30分程で三国峠に辿り着きます
三国峠に到着
三国峠(みくにとうげ)標高1,244mの峠
峠上にある三国権現
(三坂神社・御坂神社・三阪神社・三社明神などとも呼ばれる)
三国峠道標
三国峠に建つ三国権現
三国峠を越えた名だたる人々が刻まれた石碑
中世以前 三国権現の縁起に坂上田村麻呂が、
法師温泉の開湯伝説に弘法大師(空海)の名が残る
1486年(文明18年)道興准后が三国峠を越える
(『廻国雑記』)尭恵法印が三国峠を越える
(『北国紀行』・三国峠の文献における初出)
1488年(長享2年) - 万里集九が三国峠を越える(『梅花無尽蔵』)
戦国時代 関東管領となった上杉謙信が、
関東への足がかりとして整備
上杉氏の会津移封の後、堀直寄によって改良が進められる
江戸時代 佐渡島への主要道路として、江戸幕府が整備
元文5年2月5日 - 越後長岡藩の藩士7名と人足4名が罪人の移送中、
雪災にあい遭難 1818年(文政元年)卯月 - 十返舎一九が越える
幕末の戊辰戦争の際には、三国峠の戦いが起こった等
古生、中世、近世にかけて歴史の息吹を感じることができる峠です
三国峠から三国山へ登る中腹より眺める県境の山
200名山の白砂山が見える
三国峠から三国山へ登る中腹より眺める苗場山と苗場スキー場
群馬県吾妻町側より万騎峠へ
万騎峠 吾妻郡吾妻町と長野原町の町境にある峠、
菅峰南方1.2kmほどの尾根にあり、標高1281m
かつては信州街道の須賀尾宿(吾妻町)と狩宿宿(長野原町)の中間に位置し、
草津への湯治客、善光寺参りなどの旅人のほか、
北信州の飯山・須坂・松代藩の江戸出し城米をはじめ、
信州の特産物であるソバ・大豆・小豆の輸送、
白根山や万座山から幕府の火薬製造原料となった
硫黄の搬出などで人馬の往来も多かったが、
明治26年信越本線の開通によりさびれ今は訪れる人もほとんどいない
頂上にはブナの古木があり、旅人の目印となったと言う
(歴史の道調査報告書/信州街道)ここからの展望は素晴らしく、
東は榛名山、西は白根山・四阿(あずまや)山から鳥居峠まで一望できる
旅人の目印になった 万騎峠のブナ古木
静かに佇む万騎峠
この万騎峠の名は、「曽我物語」にも記録のある
建久4年(1193)の源頼朝の三原・那須の狩の際、
狩宿の地に宿泊ののち、頼朝が万騎の兵を従えて峠を
越えたことに由来する
また別名を万字峠とも言われ、前記狩りの峠越えのときに、
山中の狐や狸が勢子に化けて行列にはいって邪魔をするので、
陣笠に卍の印をつけて越したことから、
卍(まんじ)峠といったのが、いつのまにか
万字・万騎となってしまったという伝説がある
長野原町北軽井沢側から万騎峠への道標
六十里越峠開道記念碑
国道252号を新潟県魚沼市方面へ走行していくと
六十里越トンネル手前に六十里越峠開道記念碑がある
昭和48年9月開通、あの田中角栄総理大臣の時代です
六十里越峠開道記念碑より眺める田子倉水力発電所
六十里越(ろくじゅうりごえ)は、
魚沼市大白川と、只見町大字田子倉の間に所在する峠で、
最高点の標高は863 m
六十里越は国道252号を新潟県と福島県に通じる峠道
その昔六里(24km)が十倍にも感じたことから六十里という名がついたと言われています
雪深い豪雪地にあるため例年12月上旬~翌年GW頃まで冬期閉鎖があり、
限られた半年間のみ通ることができ、
開通するとドライブやツーリングに多くの方が訪れます
国道252号に並走するように走るJR只見線は車窓から
眺める渓谷などの絶景が人気のローカル線で、
ドライブ中もタイミングが合えば
只見線と景色を一緒に楽しむことができる
六十里越峠開道記念碑付近より眺める田子倉湖絶景
六十里越峠開道記念碑付近より眺める越後の奥深い山並
新潟県県境より眺める六十里越トンネル
六十里越トンネル標識
新潟県県境より眺める六十里越(ろくじゅうりごえ)標識
六十里越 の歴史 戦国時代末期から江戸時代にかけて、
会津と越後の結びつきは深い
戦国時代に“越後の龍”と呼ばれた上杉謙信から家督を継いだ
上杉景勝が会津に移封し、高田藩初代(1614年)藩主である
松平忠輝は徳川家康の六男で、会津松平藩祖である保科正之の叔父にあたる
会津藩と高田藩の交流が生まれるのは自然で、
険峻でありながら「六十里越」を経る街道の往来が続いた歴史深い峠道
最後まで御覧頂きありがとうございます
次の投稿までご機嫌よう
blogカテゴリー登山に通った峠道も98話となり、
訪れた峠道を少し振り返ってみたいと思います
印象に残った絶景が広がる峠、歴史を感じる峠、最も美しかった峠等
掲載してみたいと思います
2024年も関東甲信越を中心とした歴史散歩を楽しめる峠、
絶景を楽しめる峠等巡っていきたいと思っております
今回の振り返り記事は中世、近世の息吹を感じる峠2話を
お届けしたいと思います
三国峠には上野赤城・信濃諏訪・越後弥彦の三明神を祀った
三国権現が建っている
三国峠(みくにとうげ)は、
日本の新潟県南魚沼郡湯沢町と
群馬県利根郡みなかみ町の境を越える峠
標高1,244m
三国新トンネルと三国旧トンネルが並ぶ
群馬県利根郡みなかみ町三国旧トンネル側から三国峠へ
群馬県利根郡みなかみ町三国旧トンネル側から
山道を徒歩で30分程で三国峠に辿り着きます
三国峠に到着
三国峠(みくにとうげ)標高1,244mの峠
峠上にある三国権現
(三坂神社・御坂神社・三阪神社・三社明神などとも呼ばれる)
三国峠道標
三国峠に建つ三国権現
三国峠を越えた名だたる人々が刻まれた石碑
中世以前 三国権現の縁起に坂上田村麻呂が、
法師温泉の開湯伝説に弘法大師(空海)の名が残る
1486年(文明18年)道興准后が三国峠を越える
(『廻国雑記』)尭恵法印が三国峠を越える
(『北国紀行』・三国峠の文献における初出)
1488年(長享2年) - 万里集九が三国峠を越える(『梅花無尽蔵』)
戦国時代 関東管領となった上杉謙信が、
関東への足がかりとして整備
上杉氏の会津移封の後、堀直寄によって改良が進められる
江戸時代 佐渡島への主要道路として、江戸幕府が整備
元文5年2月5日 - 越後長岡藩の藩士7名と人足4名が罪人の移送中、
雪災にあい遭難 1818年(文政元年)卯月 - 十返舎一九が越える
幕末の戊辰戦争の際には、三国峠の戦いが起こった等
古生、中世、近世にかけて歴史の息吹を感じることができる峠です
三国峠から三国山へ登る中腹より眺める県境の山
200名山の白砂山が見える
三国峠から三国山へ登る中腹より眺める苗場山と苗場スキー場
群馬県吾妻町側より万騎峠へ
万騎峠 吾妻郡吾妻町と長野原町の町境にある峠、
菅峰南方1.2kmほどの尾根にあり、標高1281m
かつては信州街道の須賀尾宿(吾妻町)と狩宿宿(長野原町)の中間に位置し、
草津への湯治客、善光寺参りなどの旅人のほか、
北信州の飯山・須坂・松代藩の江戸出し城米をはじめ、
信州の特産物であるソバ・大豆・小豆の輸送、
白根山や万座山から幕府の火薬製造原料となった
硫黄の搬出などで人馬の往来も多かったが、
明治26年信越本線の開通によりさびれ今は訪れる人もほとんどいない
頂上にはブナの古木があり、旅人の目印となったと言う
(歴史の道調査報告書/信州街道)ここからの展望は素晴らしく、
東は榛名山、西は白根山・四阿(あずまや)山から鳥居峠まで一望できる
旅人の目印になった 万騎峠のブナ古木
静かに佇む万騎峠
この万騎峠の名は、「曽我物語」にも記録のある
建久4年(1193)の源頼朝の三原・那須の狩の際、
狩宿の地に宿泊ののち、頼朝が万騎の兵を従えて峠を
越えたことに由来する
また別名を万字峠とも言われ、前記狩りの峠越えのときに、
山中の狐や狸が勢子に化けて行列にはいって邪魔をするので、
陣笠に卍の印をつけて越したことから、
卍(まんじ)峠といったのが、いつのまにか
万字・万騎となってしまったという伝説がある
長野原町北軽井沢側から万騎峠への道標
六十里越峠開道記念碑
国道252号を新潟県魚沼市方面へ走行していくと
六十里越トンネル手前に六十里越峠開道記念碑がある
昭和48年9月開通、あの田中角栄総理大臣の時代です
六十里越峠開道記念碑より眺める田子倉水力発電所
六十里越(ろくじゅうりごえ)は、
魚沼市大白川と、只見町大字田子倉の間に所在する峠で、
最高点の標高は863 m
六十里越は国道252号を新潟県と福島県に通じる峠道
その昔六里(24km)が十倍にも感じたことから六十里という名がついたと言われています
雪深い豪雪地にあるため例年12月上旬~翌年GW頃まで冬期閉鎖があり、
限られた半年間のみ通ることができ、
開通するとドライブやツーリングに多くの方が訪れます
国道252号に並走するように走るJR只見線は車窓から
眺める渓谷などの絶景が人気のローカル線で、
ドライブ中もタイミングが合えば
只見線と景色を一緒に楽しむことができる
六十里越峠開道記念碑付近より眺める田子倉湖絶景
六十里越峠開道記念碑付近より眺める越後の奥深い山並
新潟県県境より眺める六十里越トンネル
六十里越トンネル標識
新潟県県境より眺める六十里越(ろくじゅうりごえ)標識
六十里越 の歴史 戦国時代末期から江戸時代にかけて、
会津と越後の結びつきは深い
戦国時代に“越後の龍”と呼ばれた上杉謙信から家督を継いだ
上杉景勝が会津に移封し、高田藩初代(1614年)藩主である
松平忠輝は徳川家康の六男で、会津松平藩祖である保科正之の叔父にあたる
会津藩と高田藩の交流が生まれるのは自然で、
険峻でありながら「六十里越」を経る街道の往来が続いた歴史深い峠道
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