今日会社でうれしいことが!10月は下期の始まりの月で、10月前半に大きな会議が2つあって業務報告を行う必要があったのですが、そのうちの1つは報告が免除されました。ただでさえ忙しい時期なのでこの知らせは本当に助かりました。プライベート面でも何かツキがあれば良いですが・・・。
さて、今日も足尾銅山の話題を続けます。
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↑昨日最後に紹介した、旧古河鉱業の銅精錬工場ですが、まだ工場の一部が残っているとのことで足を運んでみました。近年、足尾製錬所跡で史跡の解体、撤去が進んだようです。理由は、老朽化が進んで危険な施設は解体せざるを得なかったためだそうです。ただ、銅山の歴史を語る上で不可欠なものは残してあって、鉱石を入れたヤード、転炉、鋳造機、制御計器、硫酸タンク、煙突は解体されていません。
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↑この場所には今も銅製錬の過程で出た廃棄物「カラミ」の山が存在し、堆積場周辺の水質調査が365日間、欠かせない作業になっているとか・・・。
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↑一帯には計13か所の堆積場が残っていて、東日本大震災ではその一部が崩落して渡良瀬川に流出してしまったようです。渡良瀬川の下流域の住民は今も堆積場の管理に神経をとがらせているとか。
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↑近くに足尾銅山社宅の跡地がありました。工場の最盛期昭和31年(1959年)には181世帯819人の人口を数えたそうですが、今はつわものどもの夢の跡になっています。
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↑私達がもう1つ忘れてはいけないのは、この場所が鉱毒事件と戦った田中正造さんが命をかけて立ち向かった場所であることです。
田中正造の晩年の日記に残る鮮烈な一節。「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」。私も製造業に携わる一介の人間としてこの言葉の重みを心に留めておきます。
ところで、この問題について調べている中で驚愕の事実を発見しました。足尾銅山の環境破壊の問題が拡大する中、当時の政府は、煙や排水を止めさせて根本解決を図ろうとはせずに、夏になると田んぼを真っ白に覆ったという鉱毒を巨大な溜池(ためいけ)を造ってその底に沈殿させ、封じ込めようと考えたとか!それが谷中湖だったのですね。
さて、今日も足尾銅山の話題を続けます。
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↑昨日最後に紹介した、旧古河鉱業の銅精錬工場ですが、まだ工場の一部が残っているとのことで足を運んでみました。近年、足尾製錬所跡で史跡の解体、撤去が進んだようです。理由は、老朽化が進んで危険な施設は解体せざるを得なかったためだそうです。ただ、銅山の歴史を語る上で不可欠なものは残してあって、鉱石を入れたヤード、転炉、鋳造機、制御計器、硫酸タンク、煙突は解体されていません。
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↑この場所には今も銅製錬の過程で出た廃棄物「カラミ」の山が存在し、堆積場周辺の水質調査が365日間、欠かせない作業になっているとか・・・。
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↑一帯には計13か所の堆積場が残っていて、東日本大震災ではその一部が崩落して渡良瀬川に流出してしまったようです。渡良瀬川の下流域の住民は今も堆積場の管理に神経をとがらせているとか。
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↑近くに足尾銅山社宅の跡地がありました。工場の最盛期昭和31年(1959年)には181世帯819人の人口を数えたそうですが、今はつわものどもの夢の跡になっています。
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↑私達がもう1つ忘れてはいけないのは、この場所が鉱毒事件と戦った田中正造さんが命をかけて立ち向かった場所であることです。
田中正造の晩年の日記に残る鮮烈な一節。「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」。私も製造業に携わる一介の人間としてこの言葉の重みを心に留めておきます。
ところで、この問題について調べている中で驚愕の事実を発見しました。足尾銅山の環境破壊の問題が拡大する中、当時の政府は、煙や排水を止めさせて根本解決を図ろうとはせずに、夏になると田んぼを真っ白に覆ったという鉱毒を巨大な溜池(ためいけ)を造ってその底に沈殿させ、封じ込めようと考えたとか!それが谷中湖だったのですね。