人の世は、滞在期間の定め無き、今日一日の旅の宿

 時 人を待たず、光陰 惜しむべし
 古より有道の人、国城 男女 七宝 百物を 惜しまず
 唯 光陰のみ、之を惜しむ

大通智勝仏 (保存用転載記事)

2010-12-03 | 日記

大通智勝仏(無門関第九則)

大通智勝仏(無門関第九則)

興陽の譲和尚に僧が問う。大通智勝仏は十劫もの無限に近い長い間、道場に坐禅したにもかかわらず、悟らないのは、どういうことでしょうか。譲が言う。その問いはまことにもっともである。僧が言う。すでに道場に坐禅してきたのに、なぜ、悟らないのでしょうか。譲が言う。かれが不成仏だからである。

大通智勝仏は修行したのに悟れなかったというのは、法華経にあるのですが、それを公案にしたわけです。なぜ修行しても悟れなかったか。答えとしては簡単で、すでに仏だから、あらためて、仏にはならないということなわけです。修行しようがしまいが、すでに仏なのだということです。衆生本来仏なり、です。

わたしは、努力します。努力は、社会的に推奨されています。ある目的を設定して、それに向かって努力します。努力を止めると、停滞してしまうように感じます。努力は、その程度の差はあれ、日常のなかに組み込まれています。外面的には、家を建てたり、橋をかけたり、より生活しやすくすべく努力します。外面的には、まあ、いいでしょう。ですが、これが内面に向かうと状況が変わります。

わたしは、幸せという目標を立てます。幸せは努力すれば得られるでしょうか。わたしは、幸せになるべく努力してきたのですが、幸せになりません。幸せになるべく奮闘努力しても、それは不可能かもしれません。
楽しさも、楽しさという目標を設定して得られるものではありません。もちろん、娯楽はありますし、好き勝手なことをすれば、楽しいでしょうが、それが去ってしまえば、そこには、むなしさとか悲哀さが残ります。

なぜわたしは幸せを望むのでしょうか。それは、あきらかに、いまが不幸だからです。不幸の反対概念として、幸せを設定しているわけです。わたしは、自分が空虚で、混乱していることを知っているからです。

悩みがあり、心配、不安、を持っています。また、いつか死にます。死への恐怖があります。わたしには、罪悪感があります、傲慢さもあります、その他、好ましくない性格を持っています。わたしの心は貧しいのです。

わたしは、内面的に、自分が貧しいと知るとき、外面的に、代替品を求めます。お金や地位や名声や人間関係を求めます。内面的には、わたしは、貧しさを払しょくしたいのです。そして、穏やかさにあふれた、幸福なるものになりたいのです。

この努力というのは、自分の貧しさからの逃避です。貧しさを見たくありません。そこで、その反対に向かおうとします。そして、努力のプロセスの間、わたしの内面は貧しいままです。ですから、貧しさは終わることがありません。不安、心配、恐怖、罪悪感等々は、続いていきます。

そこで、状況はこうなります。

1、 内面的な変化を起こそうと努力しても、内面的貧しさは続く
2、 努力しなければ、いまのままで、貧しいままである

答えは、簡単です。努力しないで、いま、貧しさに直面して、変えてしまえばいいわけです。理屈はこうなのですが、わたしにはできません。というのは、わたしには切迫感がないからです。ですから、努力する時間を与えてしまい、貧しさは続いていきます。ひとが変わるときは、突然に変わります。マズいと感じれば、即座に変わります。

そこで、その貧しさを観察することから始めます。貧しさを克服するのではなく、刻々の貧しさを観察します。正当化も非難もせずに、ただ、思考の流れを観察します。心配、不安、傲慢さ等々です。

すると、それらは恒常的にあるものではなく、どこからともなく現れ、またどこかへ消えていくのがわかります。そのコツがわかると、
思考はおのずから穏やかになり、止まります。

このとき、真なるものが現れます。ベールが取れます。
これは努力の結果ではありません。元来、あったものです。衆生本来仏なり、です。

この公案の答えとしては、不成仏を、表現することになります。