考えを別の考えで置き換えてゆく道は、相対を免れない。
血で血を洗うが如く、分かる分からぬ自分が残ってゆく。
何処まで旅をしても、己の考えの内から一歩も離れない。
言葉は対立する概念を既に内包しているゆえ、輪廻する。
掴んだ念が我と呼ぶ軸になり、裏に表に二転、三転する。
善を掲げる処は不善の影が伴い、相克と葛藤を免れない。
何が善かを定める処は、何が不善かを定める事に等しい。
概念は相対ゆえに、一方を定義する処は他方の影を宿す。
善が全体性の処では相対分別を離れ、時と処の縁に従う。
言葉は思考の要素であり、思考は、即、思考者に等しい。
己見とは、言葉と自己同一化した我の世界に他ならない。
言葉で構築される思想・信条は、自我を養うに過ぎない。
無我、無字と示す処は、文字を離れ我を忘じる処である。
落書きするなと落書きするが如く、言葉が示す処は方便。
法と同様、方便もまた常に新たな時と処に生きてるもの。
虚空に絵を描くが如く、方便もまた縁に生じ滅して行く。
方便に過ぎない言葉を収集する処は、骨董家業に等しい。
言葉を権威とする処は、自ら作る羅籠に因り捕らわれる。
言葉の概念やイメージに捕らえられるならば、本末転倒。
自らしがみつく観念の残りものが、即ち我に他ならない。
”仏法は無我にて候”などと唱えても、戯れ言に過ぎない。
臨濟が問い、黄檗が三度打つ処は法の直示、方便に非ず。
臨濟が得た法は、己が概念上では無く、文字を忘じた処。
実相無相、諸行無常、色即是空は、文字の上に立たない。
教義、教則を反復する処は、自己暗示や催眠と異ならず。
道は縁に従い、歩まぬ先にも歩んだ後にも、足跡が無い。
”水鳥の行くも帰るも跡たえてされども路は忘れざりけり”
道元
今日の縁: http://dougen.jugem.jp/?eid=1514324