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「茶に逢うては茶を喫し 飯に逢うては飯を喫す」処に 我は不生。
平常心是道と言う処は、改めて己を立てるが如き心構えでは無い。
即今などと言う言葉を唱えても、即今に即今を意識する我は無い。
眼に触れ耳に触れる当たり前の処で、既に理屈なく只やっている。
あなたが起る時はいつか?と古仏は問う、我が立つ処を見よ!と。
何者かであろう・あるまいとする処は、既に我を前提としている。
標準を立てるが如き処は、既に我を建前とする行為に他ならない。
”不生なる仏心、仏心は不生にして一切事が整いまするわいの ”
改めて我を立てぬとも本来の心で既に解決してる、と盤珪は説く。
”既に修の証なれば証に極なく 証の修なれば修に始めなし”道元
既に決着の只今の様子の他に至る処は無く、向かうべき処も無い。
念をなぞる行為も念を修正する我も無く、自己修正の道とは無縁。
修正する我と修正される我の二元の間は、自ら招く自己矛盾の闇。
在るが儘の事実と在るべき理想の狭間に、矛盾相克の葛藤を招く。
標準が立つ以前の処は、自らを修正する我も修正される我も無い。
法は我と神羅万象の同時成道、事実と不二の処に二見の狭間なし。
道は未だ認識到らぬ処ゆえ、只今の縁に直に応じるより他はない。
今日の縁: 『 盤珪禅師の話 』
http://www7b.biglobe.ne.jp/~zuiun/92bankei.htm