ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

おにここめ

2017-05-13 04:20:00 | その他






流れきて つひにむかふる おにここめ     夢詩香






*俳句が続きます。これはだいぶ前に詠んだものですね。わたしがこのブログを始めたころ、数日で百句あまりを詠んだことがありますが、これはその一つです。わたしたちはこういうことが普通にできます。実を言うと、この原稿を書いているのも、2月4日です。

ゾスマの霧の風景も、ブログで3分の1くらいを発表したころには、もう全部書き終わっていました。ことさらには言いませんでしたがね。霧の風景をあなたがたが読み終わったころには、アルヤが幻の少女たちを八分くらいまで仕上げていました。

かのじょが生きていた頃も、これくらいのことはしていたでしょう。月の世の物語も、毎日発表していましたね。またあのすばらしい日記も、毎日書いていましたね。こんなことくらい当然だと思っていたのか、平気で馬鹿にしていましたが、同じことができますか。やれるものなら、やってごらんなさい。

毎日やるということはかろうじて真似できても、あそこまで水準の高い内容のものが書けますか。はっきり言って無理でしょう。言っておきますが、かのじょのあの仕事を馬鹿にした人は、いずれ同じことをやらねばならないという、法則上の結果が生じています。人を馬鹿にすると、よくそんなことになるのです。

「おにここめ」の「ここめ」は妖怪のことです。ですから「おにここめ」というのは非常に醜くて恐ろしい鬼のことです。まあ句の意は、馬鹿がいろんな嫌なことをしてきて、とうとう妖怪のように恐ろしい運命がやってきたという意味です。

阿呆は何もわかっていませんから、平気で人を馬鹿にしていじめるのですよ。自分の力というものがわかっていない。ですから、やったことが自分に返ってきたとき、自分の力ではどうしようもない運命が降りかかって来たりするのです。

他人が軽々とやっているからと言って、それを簡単なことだと思ってはいけません。わたしたちはこんなことができるようになるまで、それはそれは長い間修行してきたのです。わたしたちは、あなたがたとは、積み重ねてきた年月が違う。それも、ものすごい差なのです。あなたがたがまだ動物だったころ、わたしたちはもうすでに相当な高い存在でした。嫌になる現実かもしれませんが、自己存在にとって、霊魂としての年齢というものは、越えられない壁なのです。どうしてもみな、自分より先に生まれた存在には、勝てないのです。

ここは十分にわかっていた方がよろしい。それでないとまた、馬鹿な失敗をします。

馬鹿は自分の浅知恵で理解できる世界がすべてだと思っていますから、自分以外の人間がみんな馬鹿に見えるのです。わかっていないのは自分の方だということがわからない。だから平気で痛いことをして、みんなを馬鹿にするのだが、それが返ってきたときになってようやく、自分には何もできないということを思い知る。それが馬鹿というもの。

あなたがたも今、かのじょを馬鹿にした反動が自分に出てきている。人を馬鹿にすればこんなことになるということが、だいぶわかって来たでしょう。とうとう鬼ここめがやってきた。

もうすでに遅いと言う人もたくさんいますが、この経験をよい教訓とできる人は、もう二度と、人を馬鹿にするようなことをしてはなりません。







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ネフェルティティ

2017-05-12 04:20:13 | その他






いにしへの 奢りを悔いよ ネフェルティティ     夢詩香






*久しぶりに俳句です。かなり奇抜な句ですね。ネフェルティティは古代エジプトの美女です。アマルナ革命を実行したファラオ、アクエンアテンの正妃でした。その美しさを伝える胸像が、今に残っています。確か本館の、虹のコレクションで一度紹介されていましたね。

アマルナ革命は、アメン神を中心とした多神教から、アテン神のみを唯一神として信仰する一神教に改革するという、おもしろい宗教革命でした。この革命にはアクエンアテンの理想がふんだんに盛り込まれていたのだが、彼の高い心を人々は理解できず、様々な謀略を行って革命を汚し、革命は一世代で倒れ、アクエンアテンが死ぬと、人々は早々にアテン神を捨て、また古くからのアメン信仰に戻ったのです。愛という言葉がなかった当時、アクエンアテンが提示したアテン神そのものが、愛の象徴でした。あらゆるものがそこから生じ、その恵みを受けているという理想の美を持つ愛の観念を、アクエンアテンはアテン神によってこの世界に表現しようとしたのだが。

残念ながら、当時の人間にその真意が理解されるはずもない。改革はファラオの意志を無視して曲がり放題に曲がり、アクエンアテンは誤解の中で死んでいったのです。

今は「愛」という言葉があるから、あなたがたにもわかりやすいが、昔は愛を表す言葉はありませんでした。ですから、この世界に来ていた高い存在は、いつでも愛をこの世界に表現するために、あらゆる苦労をしていたのです。孔子が言った「仁」という言葉も、その試みの一つだ。

ところで、ネフェルティティという名は、「美しいものが訪れた」という意味だそうです。その名の通り、ネフェルティティはとても美しい女性だった。その名を誰がつけたのかは知らないが、かのじょがファラオの元を訪れたとき、誰かがそう言ったのかもしれませんね。愛という理想の美が、この世界に訪れた。そういう意味にもとれる。アクエンアテンは愛の幸福がこの世界に降りてくることを願っていた。そのことを教える一つの現象であるかもしれません。

ところが、このネフェルティティはこの時はとても美しい女性だったのだが、実はこののちにそれを鼻にかけて少し痛いことをしてしまい、今はあまり美しくないのですよ。霊魂の経歴というものを調べれば、そういうことはわかるのです。
彼女の魂は未だに迷っている。一度でもすばらしい美女になったことがある女性は、そのときに味わった幸福が忘れられませんから、とてもプライドが高い。それなのに自分が美女ではありませんから、今はとても苦しんでいる。

女性にはよくある試練です。だからわたしは十分に教えてあげたい。

美しかったときの奢りの心を捨てなさい。そして、自らおかめになって自分を下げ、人々のために端女のようになって働きなさい。そうすれば、あなたはもっと美しくなれる。

アクエンアテンはこの世界に来ていた天使の一人でした。ネフェルティティをとても愛していた。二人で革命の理想のために生きていた。あの頃のあなたが美しかったのは、王を愛してその理想のために生きていたからだ。愛していたから、美しかったのだ。

あの頃の本当の心に戻り、やり直していきましょう。







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おほきみは

2017-05-01 04:23:58 | その他






おほきみは 農に帰れと 昭和ゆく     澄






*ほかの人が詠んでくれないと言うと、さっそく友人が一つ詠んでくれました。うれしいですね。わたしの周りにはやさしい友人がたくさんいる。いつでも愛を注ごうと待ち構えていてくれる。

この句の解説の前に、一つの歌を取り上げましょう。




秋の田の かりほのいほの 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ     天智天皇




百人一首のトップに出てくる歌ですから、覚えておられる人も多いことでしょう。「苫(とま)」は管や萱を編んだもので、秋の田んぼの世話をするときの仮小屋の屋根をそれで葺いたのです。秋の田の仮小屋の屋根の苫が荒いので、わたしの衣の袖も、露で濡れていることだよ。天皇陛下が滞在するところにしては、随分とみすぼらしいですね。

天智天皇はこのように、農民とそれほど変わらない暮らしをしていました。畑で農作業に従事し、それから稼いで、夫婦で暮らしていたのです。税収などはほとんどありませんでした。当時は税制度など発展してはいませんでしたから、天皇の暮らしも質素なものだったのです。

国のために良い仕事はするが、国から得られる報酬などほとんどなかった時代でした。現代の天皇陛下の暮らしからは、考えられないようなことですね。

昭和天皇は、赤坂離宮内に田んぼをつくり、毎年そこで田植えをしていました。それは今上天皇にも受け継がれていますが、霊的導きの一つのすがたでもあります。もう天皇は、王宮を離れ、田に赴き、天智の仮小屋のようなところに住み、農民のような暮らしに戻らねばならないと。

昭和天皇は、天皇家をたたむことを使命としてやってきた霊魂でしたので、そういう導きがあり、天皇が田植えをするという習慣を取り入れたのです。今の天皇はその真意も知らず、習慣だからということで、みんなの言うままにそれをやっているようだ。

天智天皇は農民のような暮らしをしながらも、魂は偉大な王であったが、今の天皇は、王侯の姿をしながらも、霊魂は農民より小さいのだ。何もできない蛙のような霊魂を、国の上に置いておいては、国がつらいことになる。なればもう、天皇家はやめなさい。天皇の田植えには、実はそういう意味があるのです。

神の導きというものは、このように不思議な形で流れてくるものなのですよ。




みゆきふる 畑の麦生に おりたちて いそしむ民を おもひこそやれ     昭和天皇




つたないうちに入りますが、素直な歌ですね。もう少し勉強させてあげればよかったものを、環境が許してくれなかったのでしょう。あの世界は、面目だけでできているようなものだ。心が麗しくても、どうしても形だけあればいいというものの心が染みついてくる。御製と言いますが、本当は別のものが詠んだのかもしれません。

わたしなら、こう添削するでしょう。




ふりしむる 雪の麦生に おりたちて いそしむ民の 手にぞそひたき




このほうが、あの方の気持ちに近いように思います。深い心を知る者があの方に添うことができれば、もっと良い歌を詠めるようにしてさしあげられたものを。

なお、「麦生」は「むぎふ」と読んでください。「芝生」や「園生」の「ふ」と同じ使い方ですが、少し浮いていますね。こういう言葉はありますが、詠み手はあまり使いこなしていないようだ。ここらへんが、天皇の御製というものなのでしょう。

降っては染み込んでくる雪の麦畑に降り立ち、畑仕事にいそしんでいる民のその手を、わたしも手伝ってやりたい。そしてもう、天皇などやめてしまうのだ。

天皇はもう、農民に帰れと言って、昭和天皇は逝ったのだ。







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親心

2017-04-18 04:47:13 | その他






いつまでも そうてはゆけぬ 親心     夢詩香







*「そうて」は「そふて」ではなく、「そひて」のウ音便なので、「そうて」です。間違いやすいので、覚えておきましょう。

よくありそうな語句だが、詠んでみました。探せば似たような句がありそうですね。俳句に難があるとすればこれです。たった17文字ですから、自分が詠んだ句と、似たような句がほかにもないとは言えない。時には、ものの見事に、他の人がほとんど同じ句を詠んでいたりするのです。


ひん抜いた大根で道ををしへられ    誹風柳多留


大根引大根で道を教へけり     一茶


「大根」は「だいこ」と読みます。こういうのを同巣吟(どうそうぎん)というそうです。誹風柳多留の句のほうが先なので、一茶が盗作したと考えられないわけではないが、同じ情景に出会って、同じような句を詠んでしまうのは、結構よくあることでしょう。

しかしまあ、ほかにも似たような句があるかもしれないなどと深く考えていると、俳句はできません。もしあったとしたら、それが見つかったときに、そちらに譲るとして、ここでは表題の句を持ち上げならが、語っていきます。

親は子供のために、できることは何でもしてやろうとするが、そういう親心も、いつまでも添うてやることはできない。子供がいつまでも親に甘えようとして、何もしないでいると、親の方があきれるか、添うてやるのが返って子の害となると思い、離れていくものだ。

子供も、いつまでも甘えていることはできないということです。

阿呆な人間というものは、親に甘えていると、親にしてもらっていることが、自分がしているものと錯覚することがある。それで何でもできると思い込んで、馬鹿なことをやることがある。それでつらいことになれば、親の陰に隠れて助けてもらえばいいなどと考えている。

よくこんな人はいますね。マザコンなどと言われる男が、よくこういうことをします。痛いことをすることが怖くてできない弱い男ほど、盲目的な母の愛情に甘えるものだ。そのくせ、女というものをことのほか馬鹿にしている。痛いことをしないと、相手にしてもらえないからです。

馬鹿はいつまでもこれです。痛いことをやっているようでも、ほんとはみな、親みたいな人にみんなやってもらっているのですよ。自分でやっていることなど、ほとんどない。できることがまだ小さいので、自分を大きな人間に見せるために、色んな馬鹿を利用している。そして全部盗んでいる。

だが、こんなことばかりしてきて、とうとう大変なことになったというのが、今の時代です。人間そのものが成長してしまい、自分の嘘が通用しない世界がやってきた。そうなると、何もできない自分が丸裸になる。誰もだませない。

そうなって初めて、親のことなどを思い出して、親に頼ろうとするが、親ももう、馬鹿があまりにひどいことをするので、嫌になっているのです。

親の愛にも限界があるのです。

子が、これは親にも耐えられないということをしたら、離れて行く。

そうなればもう、人間に頼るものは、自分しかありません。

こうなってしまったら、親が自分を捨てていくことを、なじってはいけませんよ。なぜならもう、あなたは自分の力で生きていけるからです。それができるのに、まだ親に甘えようとするから、親はあなたから離れて行く。子はいつまでも子供でいて、子供の特権を使用しようとすることをやめ、自分で決意して、大人の責任を背負い、自ら大人の世界に入っていかねばならない。

それができねば、人間として本当に幸せにはなれないのです。

いつまでも添うてはいけない。離れていくのがおまえのためなのだと、それが親心というものなのです。







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雉兎を得て

2017-04-02 04:20:21 | その他






雉兎を得て つまこを思ふ しづをかな     夢詩香     






*先日、「雉兎(ちと)」という言葉を紹介したので、それを使って詠んでみました。

「雉兎」というのは、文字通りキジとウサギのこと。またそれを捕る猟師のことです。「しづを」は「賤男」、身分の低い男のことを言います。

身分の賤しい男が、キジとウサギを手に入れて、自分の妻子のことを思っている。

キジやウサギは森にいる。森に行って、それなりに自分の技をつかえば獲ることができる。神も咎めはしない。うまく手に入れることができて、一番最初に思い浮かぶのは、家で自分を待っている妻や子のことだ。

どれだけ喜んでくれるだろう。そう思うだけで、小さな男の心も踊る。

自分の力いっぱいでできることを、心いっぱいで喜んでくれるものがいる。それが幸せなのだと、男ははっきりとわかってはいないかもしれない。だが、素直に喜んでいるその姿は愛おしい。

小さな男が、正直に自分にできることをやって、小さな妻子を立派に養っている。それはそれは麗しい。そんなことができる男は、誰かが深く愛するだろう。

そうやって、まじめにやっていればいいものを。過ぎたものを求めて、幻の世界をさまよいはじめれば、人間はすこぶる汚くなってくる。小さくとも澄んでいたあの幸福を忘れ、偽物の幸福をきらびやかに飾っていく。そしてすべてが苦しくなっていく。

高貴なものと、卑賤なものという区別は、事実上、あります。便宜的ではありますがね。要するに、段階的にまだ高いことができない霊魂は、卑賤というグループに置かれた方が、幸せなのです。そういう形の中で、自分にできることを正直にやっていけば、卑賤の皮を少しずつ脱いで行って、高貴なものになってゆくことができる。

そういう形に添って、進歩していくことが、人間にとってはいいことなのですよ。

賤しいことというのは、まだいいことがわかっていないから、簡単にやってしまう馬鹿なことという意味です。物事が何もわからない赤ん坊が、糞で台所を汚すというようなことですよ。大人はとても困る。台所は食べ物を作るところですから。だが、赤ん坊にはそんなことはわかりませんから、平気でやります。

まだ勉強のできていない人間というものは、こういうことを、いつでも、あちこちでやっているのです。

勉強が進んでくれば、人間としての正しい態度が身についてくる。そういう人が増えれば、社会が正しく運営されていく。そしてみんなが幸福になっていく。

人間は、最初から賢いわけではありません。子供の方がいつも純真で正しいなどというわけではありません。

正しい勉強をして、正しい大人になった人間の方が、ずっとよいのです。








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ぺんだこの

2017-04-01 04:22:16 | その他






ぺんだこの 痩せたるを見て 右を知る     夢詩香






*星のような遠い世界の歌が続いたので、少し身近なところに戻りましょう。

かのじょの右手の中指には、かなり大きなペンダコがあります。時を経て、だいぶやせてはきたが、若い頃にはずいぶんと大きく発達していました。中学の頃に、猛勉強した証です。

かのじょはよく、ものの右か左かを判断するとき、無意識のうちにこのペンダコをなでていましたね。ペンダコがあるほうが右だから、これは右の方にあるのだと。そういう判断を、この小さなペンダコでやっていました。

おもしろいでしょう。

右か左かということは、けっこう判断を迷うものですよ。こちらからは右側にあるものも、向かい側にいる人から見れば左側になる。そういうことを考えていれば、とっさに右か左かの判断を迷うことがある。

そういうとき、このペンダコが便利だったのです。

勉強をすると、いいことがあるということの一つでもありますね。何にせよ、自分がやって積み重ねてきたことは、必ず役に立つのです。

この肉体は今、わたしたちに受け継がれていますが、この小さな女性の姿は、あの人のやさしさそのものです。霊魂の姿では、かのじょはこれより若干男性的です。細身ですが長身の男性の体形をしている。その姿から、甘いにも甘すぎるほどの愛を抽出しようとするとき、こういうかわいらしい姿になるのです。

身長は、たいていの男性より低い。自分を小さくして、あなたに尽くしてあげようという心です。子供のような顔をしているのは、子供のようにあなたを信じていくという心です。愛の姿というものは、心をそのまま表している。

愛おしいでしょう。

こんな心の姿を、簡単に盗んでいくから、馬鹿はつらいことになるのですよ。

女性が男性より体躯が劣るからと言って、それを馬鹿にしてはなりませんよ。小さいということは、自分を低めてでも、人を愛していこうとする、とても麗しい存在だということなのです。

かたちというものは、その人の愛がなければ、できないものなのです。

小さなペンダコという形も、かのじょの愛の形だ。勉強して、自分を豊かにしていこう。そして、色んな人に尽くしていこう。

わたしたちも時々、このペンダコをなでています。かのじょがとても愛おしくなります。







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桓魋の

2017-03-28 04:20:50 | その他






桓魋の 悔いは涙を 魚にする     夢詩香






*「魚」は「うを」と読みましょう。二文字の言葉は、短歌や俳句にとっては珠玉です。いろいろと収集しておくことをお勧めします。

カワセミのことを「鴗(そび)」と言い、カイツブリのことは「鳰(にほ)」という。ガマガエルは「蟇(ひき)」です。屋根をふくのに使う草を「萱(かや)」といい、キジとウサギで「雉兎(ちと)」という。「疾し(とし)」は速いという意味で、「睨む(ねむ)」はにらむという意味です。榾(ほた)、愛し(はし)、鶴(たづ)、避く(よく)…。当節流行りの「ゲス」は、もとは「下衆、下種」で、素性の賤しい者とか、使用人という意味です。

活用すると、少ない文字でおもしろいことができますよ。

ところで、桓魋(かんたい)は、論語に出てくる悪人の一人です。陽虎(ようこ)と並び称される。諸国を遍歴していた孔子が、宋の国に入ったとき、宋の司馬(軍務大臣)桓魋が、孔子を殺そうとしたのです。この言葉が有名ですね。

天、徳をわれに生ぜり。桓魋それわれをいかん。

天はわたしに重大な使命を課したのだ。桓魋ごときがこのわたしをどうすることができよう。

確かな自分に自信を持っている人でなければ言えない言葉です。

本当は陽虎を使いたかったが、字数が足りないので桓魋にしました。文字数は重要です。形に合わせて言葉を選ぶと、それに合わせて微妙に意味が違ってくるのが面白い。

論語の中では、陽虎や桓魋は悪人扱いですが、霊魂としては、顔回よりはずっとましですよ。なぜなら彼らは、この人生で孔子をいじめたことを強く後悔し、次の人生でそれを改めようと努力しているからです。本当です。特に陽虎はがんばっている。かなり何とかしましたよ。

涙を魚にするとは、後悔して泣いたことを、そのままにしておかず、できることをして、自分をなんとかしたということです。魚のように動いて、働いて、自分のやったことを償おうとしたのです。彼らは、孔子の心を見抜けなかった自分の不徳が恥ずかしいあまりに、やらずにいられなかったのです。

人間というものは、初めから賢いわけではありませんから、誰でも馬鹿なことをしたことがある。それを後悔してやり直せる人が、伸びていくのです。

陽虎は今もがんばっていますよ。桓魋もだいぶなんとかしています。よい人間として、見事に立ち直っています。

過ちて改めざる、これを過ちという。

孔子のこの言葉を、誰よりも守っているのはこの二人かもしれない。

過ちをしたら、自分を嫌なものにして何もせずに馬鹿になっているよりも、後悔の涙を魚のように振り動かし、できることは何でもやっていきなさい。それが、握り飯を作って、あの人に差し上げるということくらいでも構わない。自分にできる、正真正銘の真実を、その人のためにやるということが大事なのです。

まことこそが、人間を救うのです。







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青く澄む

2017-03-22 04:20:22 | その他






神を見る 君の眼は 青く澄む     夢詩香






*彼の言った通り、「青城澄」は、この媒体を通して表現しているすべての天使の総合ペンネームです。もちろんこの中にはかのじょ自身も入っています。

「すみ」ではなく「すむ」としたところに、かのじょのセンスを感じますね。

ですから、これから先、わたしたちがこのブログで発表した作品を公に出版する機会があるとすれば、必ず青城澄を使うでしょう。かのじょの作品にもスピカの作品にもゾスマの作品にも、青城澄を使います。できたら、本は出してみたいですね。あの人の作品を、ずっと埋もれさせておくのは悲しい。何らかの形に発展させてみたい。

神を見ると詠みましたが、わたしたちは神を見ることもできますよ。霊的世界では、あなたがたにも、神の姿を見ることができます。ですから、霊的存在でいるときは、あなたがたは人間を創ってくださった神のお姿をみな知っています。

ですが肉体を得てこちらの世界にいるときは、肉眼で神を見ることはできません。わたしたちも、そういう感じで見ているわけではありません。ただ空を見ている時、白い雲の中にいる大きな霊を感じるのです。それはそれは、不思議な色だ。雲はみな白いが、その白さが違う。

神が空にいらっしゃるときの雲の白さは、たとえてみれば、透きとおった悲しみが偉大に大きくなってしまったかのようだ。そして塵一つの曇りも混じることもなく、清らかになり果ててしまったかのようだ。

そんな神を見ていると、自分の目もそれに染まって、白いものが青くなってくるほど、澄んでくるのです。

たまらなく愛がかきたてられてくる。あの崇高なもののために、何かをしたくてたまらなくなる。それがたとえようもない幸福に発展する。

これはそういう意味の名前なのです。神を愛している天使が、自分の名として採用した言葉の中には、あまりに愛らしい愛が隠れているのです。愛する神とすべての存在のために、なんでもやっていきたいと。

わたしたちはその心を尊敬して、この名前をずっと使っていきます。

それはそれとして、わたしは別に、夢詩香の名も使っていきたいですね。句集や歌集を編むときは、澄よりも夢詩香を使ってみたい。なんとなく、青城澄ではできない仕事を、夢詩香にやらせてみたいのです。

ムジカの当て字で、よくある名ですがおもしろいことができそうだ。

これからもここでは、夢詩香でやっていきましょう。活動が広がっていくたびに、何かが起こってくるでしょう。







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猫の恋

2017-03-17 04:27:05 | その他






よばふこと かくもやすきか 猫の恋     夢詩香







*「猫の恋」は春の季語だそうです。これは、かのじょが若い頃の教養として知っていたので、わたしも使いました。季語には時々おもしろいものがありますね。例えば「竹の秋」というのは春の季語だそうです。竹は、春に葉を散らすからだそうです。中には「龍淵に潜む(りゅうふちにひそむ)」という季語もあるらしい。中国の故事には、龍は春分に天に昇り、秋分に淵に潜むというのがあるそうです。そこから秋の季語になったそうですが、これをどうやって575に詠むのか、興味深いところです。

わたしの俳句の流儀は季語を気にしないことですが、歳時記も読み込んでみればおもしろいものが見つかります。

それはともかくとして、最近は春の頃になっても、猫が恋をして互いを呼び合う声を聴かなくなりましたね。

要するに、猫の飼い方が現代的に進歩して、飼い猫はほとんどもう若いうちにみんな去勢されてしまうからです。猫は一度にたくさんの子供を産む。どんなにかわいくても、みんな飼うのは不可能ですから、どうしてもこういうことをしてしまうのですが、やはり悲しいことではないと言い切ることはできません。

猫だとて恋をしたくないわけがない。肉体の中で、春を告げる何かが呼び覚まされると、ああ、誰かに会いたくなる。かわいい女に、好きな男に会いたくなる。恋の嵐の中で、何もわからなくなって、ただ愛し合いたい。肉体を結んで、快楽の中で溶け合いたい。いやらしいなどと言ってはいけませんよ。自然の中で行われる交合の中にある美しい喜びを、馬鹿にしてしまうから、人間のセックスがとめどもなく汚くなるのです。

わたしたちは、セックスの喜びを感じることができないので、あなたがたのようには恋を楽しむことはできないが、あなたがたの魂が、恋の中に美しく酔うている姿を、愛しています。なんとかわいらしいのかと思っています。まだ小さくて若いというのに、互いを愛して、いいことをしてやりたいという素直な気持ちに自分を明け渡している時、あなたがたが感じている幸福は、美しいと言ったらない。

セックスの喜びを感じることができる魂を、神に頂いていることを、感謝してください。

だが、猫というものは、好きだと思ったら正直にそれを表現できるが、人間はそうではない。恋の中で、相手を好きになって馬鹿のようになってしまうことが、相手に負けることだと感じて、どうしても素直になることができない。そういうものは、馬鹿なことをして、自分の方が偉いことにしなければ、恋をすることができない。だから、余計なことをたくさんして、恋をややこしいものにしてしまう。

権力を作って、金をかき集めて、恋を支配しようとする。大仰な大義名分がなければ、一番好きな女とセックスをしたいだけなのだという気持ちを、ごまかすことができないと思い込んでいる。

愚かなことですね。

動物としての違いもありますが、猫に、恋に素直になる態度を学ぶこともいいかもしれませんよ。本当はもっと簡単なものなのに。まっすぐに好きだと言えばいいだけなのに。ただそれだけのことができなかったから迷ったのだということが、苦しすぎるほど、人間は遠いところに来てしまった。

もうそろそろ、来た道を戻っていきましょう。







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空耳を

2017-03-11 04:19:03 | その他






空耳を 恋ひて探しぬ 君の声     夢詩香






*久しぶりに俳句です。今のところ、俳句を詠んでいるのはわたしだけなのです。ですから作品の数も少ないので、どうしても短歌の方に偏りがちになりますね。ほかの人にも詠んでほしいのだが、どうしても気分は短歌の方に向くらしい。

俳句では、痛いことが言えないそうですよ。

だがわたしは結構俳句が好きです。短い言葉で、小さな釘を刺すように、人の心の痛いところをつけるのがいい。

あの人は、美しい声をしていましたね。覚えている人もいるでしょう。40を過ぎたおばさんだというのに、少女のような声をしていたでしょう。なぜと思いますか。小さな子供のころから、ほとんど心が変わっていなかったからです。

人間は大人になると、なんとなく大人の声になってきます。どことなくしわがれてくる。低くなってくる。痛い感じがする。いろんなことをやってきて、口調に、どことなく苦いものが混じって来る。

それが大人っぽくなるってことなのだと、みな思ってきたのですが。本当は、悪いことをせずに、正しいことを守って生きていると、大人になってもそんなに声は濁らないのですよ。

澄んだ声は、澄んだ心から出てくるのです。

ですから声が濁っている人は、心も濁っているのです。馬鹿なことをしてしまい、未だにそれをきれいにしていないのです。何も知らないふりをしているが、自分のやったことはそうやって、みんな表に出てくるのです。

きれいなことを考えて、きれいなことをしているから、あの人の声はあそこまで澄んでいたのです。聴いていたら、たまらなく夢中になってしまったでしょう。いつまでも聴いていたかったでしょう。あの人はそう言う人。元から馬鹿なことができないという人ですから、男の人だというのに、声が女性のように澄んでいるんですよ。

あなたがたは、そういうあの人を、焦げるくらい愛していたのです。今ならわかる人もいるでしょう。

だが、その声も、もう聞こえない。肉体はまだ存続しているし、声帯も同じなのだが、霊魂が違うだけで、声の響きはまるで違う。決して、あの人の声ではない。

試練の天使もわたしもそれなりに美しい声の持ち主ですが、全然自分とは違う形に入っているので、どうしても自分にならないのです。自分で聴くのも時々嫌になるほど、今は妙な声になっています。本当は、こんなことをするのは、間違いだからです。

本当の自分の形の中にいることが、最も美しいのに、今は歪んだ形の中にいてでも、やらねばならないことがあるから、やる。あなたがたもいつか、こういうわたしたちの苦しさもわかってくるでしょう。

空耳でもいい。もう一度あの人の声を聴いてみたいと思うのは、わたしも同じです。かわいらしい声だった。愛していた。

だがもう、二度とあの声を聴くことはできないのだ。







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