柴犬の やはらかき背の 赤さかな 夢詩香
*俳句というものの、短歌との違いは、短い情愛の感覚を詠むとき、胸に切り込んで来られるかのような情感を感じることですね。愛犬の背中を撫でているときというのは、そのやわらかさが気持ちよく、幸福な気持ちになるものだが、そういう何気ない幸せというものを表現するとき、短歌では冗漫になるような気がします。
かのじょは一匹の小さな雌の柴犬を飼っていました。とても美しい犬で、毛色は明るい茶色で、小鹿のようにはねている姿がかわいかった。澄んだ目が一心に自分を見てくれる。散歩をするときは尻尾を振ってついてきてくれる。風の中を一緒に歩いている時は、自分を導いてくれるかのように、先に歩いてくれていた。目指す先はもうわかっている。いつもの道を、犬は知っている。
それが夕時から朝方かというのは、その時々の事情によって習慣が変わったが、かのじょはあの犬と散歩をしている時がとても幸福だった。自分の情感に素直に従って生きることができる。自分を本当に愛してくれているものと、歩くことができる。
周りにいる人間は、口ではあたりのいいことを言っていても、目はいつも違うことを言っていた。人間が自分に対してどういう思いを持っているかを、かのじょは知っていたが、はっきりとわかるのが嫌で、いつも目をそらしていた。そういう自分を他人が見る目が、またちくちくと痛く、かのじょはこの世界で生きているだけで、どんどん傷ついていった。
そういう人生の中で、愛する犬と一緒に散歩するときだけが、心の縄を解いて自然に自分になれるひと時だったのです。
その愛していた犬が死んだとき、かのじょの人生はほとんど終わったのだと言っていい。もう誰も、本当に自分を愛してくれる人間は、この世界にはいないのだ。たとえ誰かが自分を愛してくれることがあるとしても、それはたぶん、未来のことだろう。自分が死んだ後のことだろう。そういうものだ。
この世界に新しい愛を持ってくるものは、たいてい、生きている間はほとんどだれにも愛してもらえない。それまでの世界を覆さねばならないという使命を果たそうとすれば、あらゆる人を苦しめてしまう。それでもやらねばならないのがわたしたちというものだ。人間の愛など、最初から期待してはいない。
本当の幸福をこの世界に持ってくるためには、それまでの幸福を壊さねばならない。そのとき浴びる反動を覚悟して、やれるものではないと、天使の仕事はできません。
だが、そういう使命を持った者にも、愛は必要だ。人間は愛してくれなくても、犬や楠は愛してくれる。その愛を頼りながら、神の愛の真をひたすら信じて、あらゆることをなしていく。阿呆にならねばできないとは言うが、その阿呆になるとは、愚昧の闇に自分を溶かしていくということではない。現実世界での計算など放り投げてしまうということだ。
やっても何もなりはしないのに、愛のために働くだけで幸福だと言って、すべてをやり、何もいらないと言って死んでいくことができる。それが幸せなのです。
馬鹿にはわかりはすまい。
わたしは、重い使命を背負って生きねばならなかったあの人の、あの寂しい人生に、ひと時でも寄り添ってくれたあの小さな犬を、ことのほかほめたいと思う。あの柔らかくも美しい毛の色は、まるで人生の明りのようだった。
とても暖かい。