ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

霧雨

2018-05-31 04:21:11 | 短歌





音もなく 降る霧雨を 君の目の わけをとはざる いひわけとしき





*これも、ツイッターで、ほかの歌人さんに挑戦したときの歌ですね。ツイッターではいろいろな歌人や団体に挑戦していますが、今のところ返事をくれるひとは数えるほどしかいない。

大方は無視して通り過ぎていきます。歌を詠う人なら、下手でも歌で返すのが礼儀のはずだが、それをやってくれる人は滅多にいません。

相手が素人でも、挑戦されれば歌で返さねばならないのが歌人です。

なんで返してくれないのか。それはもうできないからだと判断するしかない。実際、彼らはできないのです。歌人として名をたて、それなりの歌集は出しておきながら、こういうきつい技というのができない。歌で挑戦されればすぐにそれに応えて返事をするという、あきらかに修練を必要とする技術ができないのだ。

早詠み、という技術はあるんですよ。相手の歌に反応して、言葉をとり、それを頭のなかで組み替えて、おもしろいことばをはめこんでみるのです。頭で考えていてはできない。手品に近いですね。歌詠みの技術で詠むのです。歌の意味は後からついてくる。

そういうことは、歌会などの経験で身についてくるものだと思うのだが、今の歌壇というのはそういうものではないらしい。

おそらく歌合せなども、事前に調整してやっているのでしょう。だからとっさに詠むことができないのだ。

表題の歌は、挑戦した歌人のツイッターのヘッダー画像から思いつきました。静かな水をたたえる湖のほとりの森の風景、という感じの画像でしたね。静かな雨が降っていそうだった。そこで霧雨、という言葉が浮かんで詠んでみたのです。

現代の歌人という人種は、こういう挑戦に応えようとしない、いつも逃げてばかりいる、という思いを、こんな感じで詠んでみたのです。

さあ、こたえてくれるのいいのですが。

今の時点では、返事はありません。






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あざむきのくぼみ

2018-05-30 04:19:37 | 短歌





あざむきの くぼみに苦き 乳を汲み さかき目をする 子にかへされぬ





*これは、インスタグラムでの活動の中で詠まれた歌ですね。ご存じの通り、インスタグラムでは、心を惹かれた作品に、歌を送ることにしています。

表だっての反応は少ないが、送ってさしあげた人たちにはかなりよろこばれているようだ。ですが中にはこのように、少々きつい歌もあります。

これは確か、ある陶芸家の作品に送った歌でした。白くてそっけない形の小さな器がいくつか並んでいた。昨今流行りの、シンプルで品のよい感じの作品ですが、何か痛いものが染みついていた。

はっきりとは言いにくいですが、盗作に近い匂いがしたのです。

ですから表題のような歌を詠ってみたのですが。詠われた人には、なんとなく伝わったのではないかな。

あざむきの香りのするくぼみのある器に、苦い味のする乳を入れて進めてみたら、賢そうな目をしている子供に、こんなのいらないと言って返された。

子供というのはあなどれません。痛いところで大人のしていることを見ている。そしてかなりきついところを見抜いていたりする。

見くびっていると、時に痛い一撃を食らったりする。

嘘をついていても、いずれだれかに見抜かれてしまいますよ。いえ、もうだれかに見抜かれているかもしれませんよ。

いずれ苦いことになりきる。

もう嘘は通用しなくなる。なんのために馬鹿がそれをしているのかを、人間はもう知っている。

自分がつらいのだ。嘘でなければすべてに勝てないと思っているのだ。だからあらゆる姑息な方法を使って、自分をいいものにしようとする。彼は自分を立てるために、どうやら人ひとりをつぶしているようだ。

しかし本当の人間は、馬鹿な人間につぶされても、見くびっていたらいつの間にかどこかでまたよみがえってくる。

自分の嘘のために利用していたものが、新たなものとしてまた芽生えてくる。

そのときにどうするつもりなのか。






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ばかもの

2018-05-29 05:16:58 | 短歌





月を見て あれとおのれを とりかへて あれにならむと おもふばかもの





*この時代の、美女のいじめにはむごい実相がありました。万人を数える人間が、美女ひとりをみんなでいじめると言う壮絶に陰湿な事件なのですが。ことが終わって、やっと落ち着いて風景を見られる今となって、わたしたちは、いろいろといじめに加わった人間に尋ねてみるのです。

なぜそんなことをしたのかと。

みんなでひとりをいじめるなどということが、悪いことだとわからないはずはあるまい。なぜブレーキをかけることができなかったのか。なぜ、大勢の群れに飛び込んで、嫉妬に溺れてあらゆる愚かな所業をなしてしまったのか。

答えは何種類かありますね。男性はとにかく、美女といいことになりたいが、何もできなかったからだという。女性は、自分よりきれいだから、という意見が大方ですが、中にはこういうのがあります。

あの美人が、自分があれだったらいいのにという、理想の自分だったからだと。

まるごと、自分をあれと取り換えてしまいたいほど、憎らしかったのだと。

そういう女性は、あまり美しくないが、みなりをさっぱりと整えている女性が多い。気にしないふりをして、自分がそれほど美しくないことを激しく気にしているらしい。

ほんとうは、目もさめるような美女になりたいのに、なれないのです。

なぜなれないのかというと、暗いところであまりにも愚かなことをしているからです。自分に嘘はつけない。みなりをきれいすぎるほどきれいに整えるのは、陰で自分がやっていることが、あまりにも汚いからだ。

全員で美女ひとりをいじめている、そのやりかたが、恐ろしいほど汚いからだ。

なんて自分はいやなやつなのだろう。こんなものはきれいさっぱりと捨てて、まだ何も悪いことをしていない、清らかなあの美人と、自分を取り換えてしまいたい。

そういう人は多いようです。

だが自分を誰かと取り換えることなどできはしない。本気でそれをやれば、人の存在をまるごと盗んでしまうことになり、恐ろしいほど愚かなことになる。

天使をいじめ殺した汚い女が、清らかな愛で人類を救った天使の顔をかぶれば、これ以上汚いものはないのではないかというほど、醜いものになりはてるのです。

醜いを通り越して化け物になる。とんでもない嘘だからです。

逃げることのできない自分から逃げようとするからそんなことになる。

ほんとうに美しくなりたいのなら、自分の愚かさをすべて認めて、罪を償い、最初から自分をやり直すしかないのです。






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鉄鎌

2018-05-28 04:18:46 | 短歌





蟷螂の おのをまげては 鉄鎌と なりしあほうの 群れぞかなしき





*「蟷螂の」を「おのれ」にかかる枕詞のように使ってみた例です。この「おの」には「斧」と「おのれ」の両方の意味があります。

文語調ですが、大火の作であることは明らかにわかりますね。彼の歌というのは実によくわかる。異色というか、この突出した個性は実に楽しい。

わたしたちの活動を通して、いろいろと学び、歌を詠むのがうまくなってきた人はたくさんいるでしょうが、この大火の真似ができる人はなかなかいないでしょう。というか、する人は滅多にいないでしょう。

してもいいですが、大火以上のことができる人がいるとは思えません。

蟷螂が自分の斧を曲げるように、自分を曲げて、鉄鎌のような馬鹿なものになって、自分を失ったものの群れとなってしまった馬鹿者ほど、かなしいものはないなあ。

この歌は、「孤独」ということをテーマにみんなで詠んでみた歌の一つでした。この歌の前にかのじょの歌をもじった「さいはひに似し孤独の痛み」というのがあった。どんなに友達が少なくても、自分を裏切って大勢の仲間に入るよりは、孤独でも本当の自分でいるほうが幸せだという意味です。

かのじょは生きていた頃、友達はほとんどいませんでした。この時代は、人間はほとんど全部が自分を裏切ってしまった人ばかりでしたから、ほんとうの自分で生きていたかのじょには、ともだちがほとんどできなかったのです。

だがかのじょは自分を裏切ることなどできませんでしたから、自分を裏切った人の友達など欲しくはなかった。自分を裏切るくらいなら、ひとりでいるほうがよい。野原にいけば花がいる。この世界にある、美しいほんとうの愛を食べて生きていれば、人間の友達がいないことなど、それほどつらいことでもない。

そんなかのじょが憎くて、大勢の仲間と一緒にあなたがたはあらゆる邪魔をしたのですが。そういうあなたがたが孤独ではなかったかと言えば、どうでしょうか。

今、あなたを愛して助けてくれる友達はいますか? たったひとりでも。

かのじょにはいました。見えない世界に、わたしたちのようなものが。たくさん。

自分を信じて、みんなのためにたったひとりで苦しいことに切り込んでいった、かのじょを深く愛している友人が、たくさんいました。






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2018-05-27 04:18:48 | 短歌





玉を見せ より来るものは おほけれど 月はすずしく すぎてかへらず





*自分の好みの美女を見ると、とにかく馬鹿な男は欲望を抑えきれないようだ。欲しくてたまらない。だがだれも正面から声をかけることができない。だから裏でいろいろな方策を練る。

あなたがたが美女を手に入れるためにやったことは、実にあさはかなことだが、いい男をちらつかせてひっかけようとするくらいのことでした。

女ならば、それなりのいい男を見せればよってきて、夫をないがしろにして浮気でもするものだろうと、軽く考えていた。

だからたびたび、色男をかのじょの周りにちらつかせて誘おうとしてみたのだが。はっきり言いましょう。かのじょは全然気づいていませんでした。

女性ならば、いい男を見ればはっと気づくものでしょうが。男はそういうのに、興味はありません。事実、あなたがたも、男だったら、美男になど興味ないでしょう。美女には激しく興味を持つが。

かのじょもそんな感じでした。興味のないものには気付かない。視界に入っても小石のように認識しない。わからないからです。

男が発するある種の性的サインは、女性でないと気づかないのですよ。かのじょはあれで魂は男ですし、それも性欲のないという種族の男ですから、そういう方面は、はっきり言って全然だめなのです。

だからあなたがたのしかけた罠にことごとくかからなかったのです。

あさはかな失敗ばかり繰り返しましたね。三度くらい失敗すればわかりそうなものだが。ほかの女性だってかからなかったでしょう。なんで自分の方が間違っていると気づけないのか。

要するに、女性がそんな軽いものでなければ困るからなのです。美女を手に入れられる方法が何もなくなる。そんな見方に固まって、真実に心を開こうとしない。

思い通りにならない恋に怒り狂って、とうとう女性を滅ぼしてしまった。

馬鹿な男の伝説は、永遠に伝えられていくでしょう。






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真鍮の蓮

2018-05-26 04:20:05 | 短歌





真鍮の 蓮をたたきて 鳴る音を きんといひては くらゐを買ひぬ





*これは、ある出版社に挑戦したときの歌ですね。いろんなところに歌で挑戦していますが、これを描いている二月下旬の現在、歌を返してくれた人はいません。

それどころか、わたしたちをブロックしてくる人も現れた。一応言っておきますが、ムジカの私撰歌集をブロックしたらやばいことになりますよ。これは、すべての天使がやっている媒体ですから。これを拒否すると、天使のすべてを拒否することになる。

要するに、人類の天使全員に、自分のために何もやらなくていいと、断ったことになるのです。

天使が人類のためにどんなことをやっているか、何も知らないわけではありますまい。かのじょ一人が完全にいなくなっただけで、世界が様変わりするほどの影響があるのだ。

それをすべて断ってしまったら、きついことになりすぎるのですよ。

まあ今さら言っても仕方がありませんが。

人間、自分を守るためだけに動いたら、ろくなことはないということなのです。

真鍮は貧者の金とも言われますね。金に似ているが金ではない。それで蓮の花のような立派なものを作って、それをたたいてみたら、きんとなる。それを金だと偽って、人の世の位などというものを買ったのだ。

お判りでしょうが、かなり侮辱していますね。真実を言いぬいているとは思いますが。実際これを差し上げた出版社は、偽物の歌人を多くとりあげていました。何もわかっていないように見えた。意味もよくわからない歌でも、適当にほめていればいいものになるという、昨今の風潮にどっぷりと浸かっているようでした。

それを皮肉ってみたのだが、何も返事はなかった。歌が結構秀逸だっただけに、残念です。

歌集を出したいと思っていたが、今の出版社に期待しても無駄なようだ。

それが時代というものでしょう。






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わかたけ

2018-05-25 06:36:55 | 短歌





わかたけを あみてちひさき 籠をなし 星をかはむと いひし君はも





*これは、かのじょのこの歌を下絵に詠まれた歌ですね。覚えていなさるでしょうが、いくつかあるのでここにすべてあげてみましょう。美しい歌です。


ゆふづつのみづにおつるをひろひこよ余は若竹の玉籠を編む
墨のごとき泥にこもりしその星をひろひし君の白きひたひよ
われの目の高さの肩によりそはむその若き背の花のごときなれば
ふれむとしてふれぬその手のかたへにて星飼ふ籠を窓につるしき


美しいですね。これは田舎の小さな家で一緒に暮らしているかわいらしい夫婦のことなど想像して詠われた歌です。かのじょにはこういうところがある。やさしい女性となって、かわいい人間の男の妻とでもなれば、こんなこともしてあげたいという、じつにかわいい夢だ。


あのきれいな宵の明星が水に落ちている、あれを拾ってきてください。わたしは若竹で籠を編みますから。

ふたりできれいな星を飼いましょう。


後の、「瑠璃の籠」のタイトルにもつながった歌ですが。これが男性と思えないでしょう。かわいらしい。彼にはこういうやさしすぎるところがある。

女性そのものと言った顔になってしまったものですから、彼は女性にも男性にも恋をされてしまうのです。それを無下に馬鹿にすることもできない。できるなら、かわいい恋人になって尽くしてあげたいと思う。

そんなことを考えるほど、やさしい人なのですよ。

あまりにかわいらしすぎて、目眩がしますか? あなたがたなら、こういう歌を詠われたとき、どう返すでしょう。

返歌を請うてみたいものです。わたしたちは何度かあなたがたに挑戦するが、返ってきたことはほとんどない。まあ仕方ないとは思っていますが、寂しいという気持ちは拭い去れません。

ですから今日は強いて願いましょう。かのじょのこれらの歌に、どうか返歌を詠んでみてください。できるならそれをわたしたちのもとに送ってほしいが。あまりわがままは言わないことにしますか。

かわいらしいこの歌に、人はどんな歌を詠ってくれるでしょう。






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根無し草

2018-05-24 04:19:38 | 短歌





根無し草 枯れゆく身をも 忘れむと くるしくあふぐ うつろなる空





*この項が書かれているのは、平昌オリンピックが行われている最中です。金メダリストがふたりほど出ましたね。

しかしニュースで見るメダリストの顔は苦しそうだ。笑ってはいるが、表情が引きつっている。もう感覚の進化したみなさんには、何が起こっているかわかるでしょう。

そう、彼らはみなに見破られているのだ。馬鹿者がどんなずるをして、あんなものになっているか、すべてを見破られている。そして、身の周りからあらゆるものが消え始めている。

世界中に冷たい目で見られている。だのに途中でやめることができない。マスコミのお追従でさえ恥ずかしくてたまらないのでしょう。ゆであがった蛙のような顔をしている。

ヒーロー、ヒロインをつくるために、馬鹿が作ったかっこいい肉体が、みっともないなどというものではない。あからさまに、ずるをしているのが見える。

この時代、漫画のように長い足をした人間があふれ出ましたね。それははっきり言って、西洋人みたいにかっこよくなりたいという東洋人のわがままなのです。東洋人は普通、もっと胴が長く足が短い。それがいいというものなのだが。

自己存在の幼い頃にはだれでも必ず、ほんとうの自分の姿を嫌がる時がある。それで妙なことをすることがあるのだが。この時代はそれがみっともないほどおかしいことになった。

細く長くしすぎて、バランスをくずし、人間ではないような形にさえなったものがいる。それを、感覚の進化した人間の目に見られている。

自分をいやがり、ほかのものになろうとあがきまくってきた人間が見た、究極の姿と言えましょう。

神の愛からちぎれた、根無し草のように、そんな偽物の人間は枯れていく。どこにもいくところがない。

自分をよいものにするためにあふれるほどついてきた嘘が、本当の自分に帰る道を、大きくふさいでいるのです。






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高ひばり

2018-05-23 04:19:40 | 短歌





高ひばり 春の栄えを たたへつつ あをぞらに溶く なきがごとくに





*残念ながら、今わたしたちが住むこの町では、春のひばりの声を聞くことができません。住宅が多く、海が近いからでしょう。

だがかのじょが幼い頃住んでいたところでは、よくひばりの声を聞くことができた。春の田んぼにはレンゲが咲く。その淡い春の美しい風景の中で、空が鳴いているかのようなひばりの声を聞いた。

あまりに高く飛んでいるので、その姿は空に溶けているかのように見えない。飛んでいるひばりの姿を認められることはほとんどない。だからまるで空が美しい声で鳴いているかのようにさえ思えた。

だがひばりは確かにいるのだ。この青空の中のどこかにいて、空の代わりに鳴いている。人間がまだ知らぬ高い愛が、人間に何を語りたいのかを、知っているかのように。

だから人間は、ひばりの声を聞くと、ひきこまれるように耳をすましてしまうのかもしれない。だれかが自分に何かを教えようとしているかのようだと。

ひばり自身は何も知るまい。知らないうちに、鳥は自分自身を神にささげているのだ。神の中に溶けて、自分がないかのようになっている。そして高みを飛びながら鳴いている。その声がどれだけ、時に苦しい世の中ですさんでいく人の心を、明るみに導いているかも知るまい。

自分を高い愛にささげるということが、どんな幸福であるかということを知っている者は、春のひばりの声に、神のほほえみを感じるのだ。

そしてこの世が、どのように繊細微妙で偉大な愛で作り上げられているかを知る。

人間が生きることを助けるために、神がどのようなことをしてくださっているのかがわかる。

わたしたちはあまりにも深すぎる愛につつまれている。






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竹の丈

2018-05-22 04:19:04 | 短歌





たけのこの 竹の丈をぞ うたひては 足らぬ丈こそ よきとほめしか




*やあこれは秀逸ですね。また大火の作です。あまりにおもしろいので、暗記してしまった人もいるのではないでしょうか。

「たけ」が重なっておもしろい。「しか」は過去の助動詞「き」の已然形で、「こそ」に対応する係り結びです。

筍が、竹の高さを歌って、その高さに足らぬことがよいと、だれかがほめたよ。

まあなんとなくわかるでしょう。これは現代の短歌界の現状を皮肉った歌です。

何だかよくわからない歌がたくさんある。適当に思わせぶりを詠んだだけのような気がするが、批評家が麗しいことを言い募って、すばらしい作だとほめあげる。

そんなものかと思いつつ読んでいるが、しかしそういう作はあまり心に残らず、すぐに忘れてしまうものだ。

批評家が言うほどいいものかという疑念はわくが、それをはっきりと口に出す勇気もない。だから周りに合わせて相槌を打ったりするのだが。

楽しくない。そんな雰囲気に合わせて自分も詠わねばならない感じがして息苦しい。

今の短歌界では、自分らしさを豊かに打ち出した歌は詠えないのです。そんな作品を発表すれば、必ず嫌な奴に目をつけられてつぶされるからです。

だがもう、そういう時代もそろそろ幕が落ちるようだ。みな、世間の嘘の姿が見え始めてきた。

ミミズが地上に迷い出てきてのたうち苦しんでいるような、妙に苦しい歌人の歌を読むよりも、表題の大火の歌のような作を読んでいるほうが気持ちいいでしょう。なんでかしらすっと覚え込んでしまったりする。

わたしたちの歌集にはそれはたくさんの歌がありますが、なぜか、読者が暗記しているものは、大火の歌が多いのです。






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