愚弄てふ 汚き棒を ふりまはし わが世きはめし ましらなるかな
*これを書いている今日は9月6日です。どうやら、別にやっていたブログがばれたようなので、これをあげてみました。馬鹿な人が何とかして調べたみたいですね。実に、人間の馬鹿男というのは、目障りなこぶをつぶすためには、最大限の最大限の努力をするのです。
徹底的にやる。せん滅作戦という感じですね。どこまでもどこまでも、やりすぎるほどにやれば、痛い奴を殺せると思っている。
近寄りがたい美人も手に入ると思っているのです。
だがそううまくはいかない。馬鹿というのにも限界がある。やりすぎて、その限界の壁を超えれば、やってもやっても何にもならないということになってくるのです。
表題の歌は添島揺之の作ですが、まあ訳さなくても意味はわかるでしょうが、一応やっておきましょう。
愚弄という汚い棒を振り回し、我が世の栄えを極めた、猿どもであることよ。
まあ要するに、影からいろんな汚いことをし、人を馬鹿にしまくって、自分の方はほめまくり、いいことにして、自分の人生を盛大に極めた、馬鹿みたいなやつがいたということです。
あなたがたも、かのじょをいじめていた奴らが、影でどんなことを言っていたか知っているでしょう。かのじょの作品については、どんな小さなところもついて馬鹿にし、徹底的にこきおろしていたが、どこにでもいそうな小さな馬鹿が書いた作品は、舌もとろけるような誉め言葉を言っていた。
馬鹿がやっているのはそういうことです。
ほんとうのいい才能にはケチをつけまくってだめにし、自分たちが安心できる馬鹿がやっている活動は、ほめまくるのです。それで、自分たちの方が絶対にいいということにしたいのです。
馬鹿は勉強などあまりしていませんから、まだ才能と言えるようなことは伸びていません。歌も詠めないし、小説などもうまく書けない。それを、霊的技術でなんとかして、それなりのことをさせ、そういう作品ばかりほめる。
人間が、本当の自分の才能で作ったよい作品には、目も向けないどころではない。敵意をむき出しにして、徹底的につぶすのです。
それでなければ、自分たちがいいことにはならないからです。
こわいですね。