ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

上弦の

2016-11-30 04:21:30 | 






上弦の 月はガラスの 割れた猫     夢詩香






*上弦は、わたしたちがあなたがたのために制定した紋章です。愛を憎み、暴虐の果てに自分の半身を失ってしまったものだと言う意味です。

自分の愛する者を消すことは、自分を消すことにも等しい。あなたがたはそれをやってしまったのです。それがどういう現象をこれから引き起こしていくかということは、これからあなたがたが少しずつ学んでいくことです。

それではなぜ、あなたがたはあの人を、あれほど愛してしまったでしょう。形も生き方も美しいというだけで、なぜあれほど、煮え狂うほどまでに愛してしまったのか。

それは、女性というものが、神の美を表現するものだからです。

女性というものは本来、自分を半眼に抑え、自己の中核にある自分の玉座の席を半分ずらし、そこに神の心を招き入れ、神を愛しながら神を表現するということができるものなのです。

かのじょはその女性の使命が正しくできる人だった。ゆえのその姿に神性を感じて、あなたがたはあの人に激しく心惹かれたのです。

自己存在というものは、自分とは異質なものであるほど、強く心を惹かれます。

この世界にいる存在は、すべて神が創られました。ゆえにわたしたちは、神の元、同じ親から生まれた兄弟に等しい。どんなに違う存在でも、どこか似通っている。だが、神だけは、神が創られた存在ではないのです。

つまり神は、わたしたちが知っている存在の中で、最も異質な存在なのです。

ゆえにわたしたちは、だれもが激しく神に惹かれる。あの崇高な御美しさの中に、わたしたちとは最も違うものを感じるからです。

あの人の姿を、今思い出して御覧なさい。美しいのに、何かが決定的に違うと思ったでしょう。あれが、神の美なのです。覚えておきなさい。あれと同じ美を表現できる女性に出会ったら、今度こそは殺してはなりません。

おお、難しいですね。ちょっと本気を出しすぎました。明日は少し元に戻りましょう。








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しろてふは

2016-11-29 04:22:23 | 






しろてふは しろきがよいと 花はいふ     夢詩香






*シロチョウの写真がなかったので、シジミチョウの写真で代用です。許してください。

なんのことはない句ですが。

昆虫という生命活動は、ほとんど神がおやりなさっている事業です。この地球世界にいるすべての昆虫の生命は、神のお印です。

彼らにも独自の霊魂はあるのですが、それはまだとても幼く、複雑な生命活動をやれるほどにはなっていません。ですから彼らの生は、ほとんど神がおやりなさっているのです。昆虫にも個体によっていろいろな運命はありますが、どれもほとんど画一的です。強い個性はまだ発生していない。みな、神がおやりなさっているからです。

だからと言ってそれが、痛いものだというわけではない。神がおやりなさっているがゆえに、その存在には大切な意味が灯る。

蝶々は神さまの手紙などということを、かのじょは言っていましたが、それは真実です。蝶々という生命活動を、あなたがたに見せることによって、神はあなたがたにずっと重要なことを教え続けているのです。

シロチョウは白い。その白さを認め、愛している。それが幸福なのだということを、神はシロチョウの生によってあなたがたに教えるのです。

自己存在の幸福は、自分が自分そのものであることを喜ぶ自由を獲得することから始まります。その自由は初めから与えられているのですが、存在の幼い頃はそれを知ることができない。ただ愚昧ゆえに自分というものの存在そのものにおびえ、それが怖くて苦しいことをしてしまい、その恐ろしさにまたおびえ、自分という存在から逃げようとする。

自分で自分という存在を侮辱することほど、苦しいことはありません。自分で自分を犯すことなど、できるはずもないのですが、人間はいつもそんなことを繰り返しているのです。愚昧の闇に自分を譲り、馬鹿なことをして、自分を馬鹿にしてしまう。辱める。

それが自己存在の罪であり、恐ろしい苦しみなのです。

自己存在はこの苦を味わわないで生きることはできない。だがそれは、いつか必ず乗り越えられる苦でもあります。
あなたがたはその過程において、自己存在が決してやってはならないことがなんであるのかを学ぶのです。

それは自己存在が自己存在を辱めることです。自分で自分を馬鹿にすることです。人間にはそれをすることができる自由もある。だがそれをすると、果てしない苦悩の堂々巡りが始まり、自己存在はとうとう消滅を願うようにまでなってしまう。

馬鹿とはこういうものです。愚昧の闇に浸りこんで、真実をわかろうとしないから、いつまでも苦しみ、その苦しみを世界にぶちまけて、あらゆることを駄目にしてしまうのです。

シロチョウのように、真っ白な心で、愛を受け入れなさい。自分を受け入れなさい。それだけですべてはうまくいく。

神は、すべての存在を、よきものとして作ってくださっているのです。






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雁の声音

2016-11-28 04:24:23 | 短歌






北にゆく 雁の声音を 忍び聞き また来るものと いふ浅はかさ






*今わたしに歌を提供してくれている友達は、少々気取って歌うのが好きらしい。他のものならもう少し直截に表現するところを、ひねるところが彼らしい。

雁は冬鳥ですから、行くというより、今頃はそろそろ来ている頃でしょうか。彼らが北に帰るのは、春の頃でしょう。

「がん」とも読みますが、ここではもちろん「かり」と読んでください。

歌の意は、北の国に帰っていく鳥の声を、影から聞いていて、きっとまた来るものと思っていたら、そう甘くはないということなのですが。

今は当然だと思っていることが、いつまでも永遠に続くとは限らないということです。

雁だとて馬鹿ではない。いつも行く水が汚れて来たり、周りの環境が変わってきたりすると、違うところに行ってしまうことがある。

また、不幸にも絶滅してしまうなどということも、考えられないことではない。

あなたがたは、かのじょが奥に引っ込んで消えていったとき、多くはすぐに帰ってくるだろうと思っていたことでしょう。実はかのじょ自身もそれを思っていた。彼に自分を渡しはするが、早期のうちにまた自分が戻れるのではないかという、淡い期待も抱いていた。

だが、甘くはなかった。自分があのまま倒れてしまうなどということは、かのじょは考えてもいなかったのです。

愛を信じて、ひたすらにやってくれる人ですが、限界というものは、どんな存在にも必ずあるのです。

あなたがたはそれを、肝に染みつけなければいけません。あなたがたが無理な暴虐をやりすぎれば、消えてなくなってしまう愛もあるのです。そしてそれは、二度とは帰って来ない。

失うということの重大性を、あなたがたは深く学ばねばなりません。そして、二度と同じことを繰り返してはならない。

この世界には、決してやってはならないことがあるのです。決して言ってはならない言葉があるのです。

それは冗談ではなく、真の言葉で言う、「消えろ」という言葉です。

それは自己存在の永遠性を、真っ向から否定するのです。







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樹下に会ふ

2016-11-27 04:20:44 | その他






樹下に会ふ だいばだったと しっだるた     夢詩香







*書くまでもない教養ですが、しっだるたは釈尊のこと、だいばだった(提婆達多)は彼を殺そうとした人間の名です。

提婆達多が釈尊を殺そうとした動機は、もちろん嫉妬でした。他の人間は、釈尊の美しさに魅了され、ただぼんやりと追いかけているだけでしたが、提婆達多だけは嫉妬を感じ、殺そうとしたのです。

提婆達多の魂は、今でもそれに苦しんでいます。あれからもう何千年と経ったというのに、未だに多くの人間がそのことをついて、彼を責めるからです。あんな善い人を殺そうとしたのかと。

ここで話を少し変え、季語について語ってみましょう。

わたしの友達が言った通り、実はわたしが俳句を始めたのは、このブログを始めてからです。ここで発表した句の中では、一番最初のなずなの句だけが、わたしの作ではありません。あれは他の誰かが詠んで、ノートの隅にメモしておいたのを採用したのですが、それを呼び水に詠んでみると、泉の水が湧き上がるように、あっという間に百句ができてしまいました。

句は今でも増殖しています。やり始めると面白い。俳句というものの命は、短い言葉の中に込められた象徴性だと感じる。何かをやってみたいという情熱が湧いてきます。

ブログを始めてから、ネットの歳時記というものがあることを知って、覗いてみましたが、正直、あまりよいものとは感じませんでした。面白そうな言葉もありましたが、こんなものに縛られていては、好きなことができなくなると感じ、早々に読むのをやめてしまいました。

季語というものにも、俳句読みにとっては意味があるのでしょう。制限というのは人間のやる気をつくときもある。だがわたしにとっての制限は、17文字だけで十分だ。

冒頭の句に、季語があるかどうかは知りませんが、季語を気にしていては詠めない句です。この句には、釈尊の愛をこめたかった。あの人こそが、一番、提婆達多を心配しているからです。

今は彼の元に来ることはできない。だがいつか、地上で再会し、あの子と許しあいたいと。彼はそう願っている。

その深くも麗しい愛を、17文字に込められるというのが、楽しい。







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ばらの根を

2016-11-26 04:20:42 | 







ばらの根を 盗むさゆりの あさはかさ     夢詩香







*「さゆり」の「さ」は、名詞や動詞や形容詞について、その意味を強めたりする言葉です。「若々しい」という意味を添えることもある。「さおとめ」とか、「さわらび」とか。動詞では「さまよふ」などがありますね。

ここではただ、七文字にするために「さ」を入れただけです。句の意味は、そんなことをしなくても自分は十分に美しいのだから、ほかの人の美しさを盗んだりなどしなくてもよいのにという意味なのですが。

そういう芝居を花にしてもらおうと思うとき、ばらの根を盗むようなお馬鹿さんの役を誰にしてもらえるかということを考えました。

すみれやなのはなやさくらには頼めない。彼らは潔すぎる。痛いことはしたくないと強く思うでしょう。いろいろと考えて、ああ、ゆりの花ならやってくれると思ったのです。

奥ゆかしい花ですから、自分を下げることなど何でもない。あなたがたに教えるために、自分の花びらを少し汚すことくらいはしてくれる。だから、ゆりの花に頼んだのですが。

そこはそれ。一文字足りない。それはたぶん、花の苦しみを、誰かが助けなければならないということでしょう。

「さ」の字は、そのために必要なのです。

みんなのために恥ずかしい思いをしてくれる花の気持ちを、見るだけにしておいてはいけない。だれかが彼女に何かを着せてあげなければならない。その場所を開けるために、一文字足りないのだ。

麗しいですね。

ゆりの花が二文字なのは、消えていきそうなほどはかない花だからなのでしょうか。だから、必ず誰かが助けてくれる。助けずにいられなくなる。

誰かのことを思い出します。







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香箱

2016-11-25 04:27:27 | 短歌






白猫の 香箱に棲む 鳥の音を やはらかに編み 寝床をつくる







*今日も短歌です。最近わたしの句がきついので、わたしよりは少しやさしいものが作った歌を、とりあげています。

かのじょは一時期、白い猫を飼っていました。シロと名付けて愛していた。だが、夫が猫嫌いなので、家に入れて飼うことができず、夫の目を盗んでは、裏口を訪ねてきた猫に、あまりものを与えて養っていた。

時々、猫が家に入ってきて、暖かい家の中に住みたそうな態度を見せるたびに、かのじょは無理にでもそれを追い出さねばならないことを、苦しんでいました。

愛するものに、つらい仕打ちをせねばならないことはつらい。そんな気持ちも、あの夫にはわからないのだ。

自分の妻に、猫を飼うことも許してやれない。そんな男が偉そうにしているのは、猿にも劣る。

馬鹿な男だ。

おっと、また強い感じになりましたね。少しは自分を抑えようとしてはいるのだが、どうしても出てしまう。

猫が前足を自分の体の下に入れて、行儀よく座っている姿を、「香箱を組む」ということを、知っている人はたくさんいます。猫ブームですから、そういう知識は知れ渡っている。香箱は香合ともいい、香を入れる容器のことです。美しい表現ですね。

そのかわいらしい形の中にも心がある。その心が、家の中で暖かく住みたいと言っている。その心を感じて、あの人がやわらかな寝床を作っている。

小さな箱の中に、古い座布団やタオルを敷くだけでいい。それだけで猫は喜んでくれる。

だが、そんなことさえ許してもらえなかった。無念というにはあまりにもきれいな涙だが、捨ておいては悲しすぎる。

そういう気持ちが、この歌を詠ませたのです。







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辻君を

2016-11-24 04:22:15 | その他







辻君を よそふ鯰の 恨みかな     夢詩香







*辻君とは、辻で男の人の袖を引いて、春を売る女性のことです。

昔から女性は、暮らすことができなくなってくると、こんなことをせざるを得なかった。なぜなら、社会で生きることのできる力を、男がどんどん奪ってくるからです。

前に女竹の句でも言いましたが、女性は今でも、その責任や仕事に見合うだけの報酬をもらえていない。ただ毎日家事で家族に尽くしているだけでも、それなりのものはあっていいはずなのに、当然だという顔をされて、男に養われているやっかいものだという扱いを受けている。

これは不当です。

男は、こういう女性の働きを奪い、全部自分のものとして、自分の稼ぎにしているのです。それで女性に恩を売って、男の権威を保とうとしている。どんな馬鹿な男でも、女よりはえらいのだということにしている。

毎日会社で働けるのも、女性が家で家事をしているからですが、それさえも男はなかなか認めようとしない。これははっきり言って、盗みです。

いつまでも支払わないでおくわけにはいかない、罪なのです。

社会の常識をバックにして、偉そうにしている男は、そのうち運命に引きずり落されます。あまりに男が何もしようとしないので、そろそろ、神が口を出してくるからです。

厳しいですね。本当のムジカはこういうことを言う男なのです。かのじょのようにやさしい女性ではない。女性の振りをしていろんな活動をしていくつもりでしたが、長く持つはずもありませんね。

辻君に化けて、鯰が恨みを晴らそうとしている。男はいい気になって女性を買うかもしれないが、そうなると馬鹿なことになる。よくそういうこともありました。鯰は水の生き物だ。男に虐げられた女は、よく水に身を投げた。

深い水の底に沈んだ恨みが、鯰になってまた陸に上がって来る。

男の人は気をつけなさい。







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鷦鷯

2016-11-23 04:21:20 | 短歌







春駒を 駆りて岩戸を 訪ぬれば 錠前の枝に 鷦鷯が住む






*今日は短歌です。これもわたしの作品ではありません。夢詩香の名前を書かないものは、みんなそうだと思ってください。

「鷦鷯(しょうりょう)」は、ミソサザイのことです。馬を駆って春の野をゆき、あの人が眠っている岩戸を訪ねてみれば、戸にかけてある錠前の掛け金に、ミソサザイが巣を作っていたと。

美しい情景ですね。

こういうことわざがあります。

鷦鷯、林に巣くうも一枝に過ぎず。

ミソサザイが、林の中に巣をつくるには、一枝あれば十分だということです。要するに、人は自分の分にあった家に住むのがいいという意味です。

友達が一人か二人しかいないのに、大きな客間が五つもある邸宅に住んでいても、なんの意味もない。小さなアパートの六畳間の一室くらいあれば十分だ。だのに人は、なぜか大きくてきれいな家に住みたがる。

そんな風に、自分に不似合いな家に住んでしまうと、十分に手入れができなくて、中がとても荒れたりしてしまいます。誰も友達は来てくれないから、掃除なんてしても仕方ないと、人は思う。そうすればほとんど何もしなくなる。

そして、悲しいことが多くなる。大きな家に、友達の代わりに、違うものが訪れてくるからです。

人間も、ミソサザイのように、十分に自分の力で温められる家に住むのがいい。

だがそんなミソサザイに、錠前に住まれてしまうと困る。小さな錠前の掛け金を、枝だと思って住んでしまったミソサザイの、ささやかな家を壊すわけにもいかない。その小さな巣にはもう、かわいい卵が産まれている。

これではとても中に入っていけない。

訪問者は仕方なく、花を戸の前において、愛のことばをささやきつつ、馬を返して帰っていくのです。







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ほととぎす

2016-11-22 04:22:05 | 







盗む子は かひなを折らむ ほととぎす     夢詩香






*強い句ですね。女性ではなかなか詠めない。今日の句はムジカの自分を強く前に出しています。今までは女性を演じていましたから、かなり遠慮していたのです。

泥棒をするような子は、腕を折ってしまうぞと、花が言っている。そういう句です。実際、ホトトギスという花は、サクラやタンポポなどと比べると、とても厳しい花です。これくらいのことを言っていても不思議ではない。

いるか星の句を予定より早く出してしまったのは、かのじょのような女性の演技をしていることが、わたしに少々つらくなってきたからでもあります。あの人は甘すぎる。わたしもできることはやりますが、やはりあまり長くもたなかった。

ここで、あの人の昔の歌を引用してみましょう。





おくやまに 石切る人の その夜の 深き眠りに ひそみたき百合





2008年の作品です。山の奥で働いている石工が、疲れ果てて眠っている夜の夢に、ひともとの百合となって潜んであげたい。

やさしすぎるでしょう。あの人はこういう人なのです。

あなたがたは、こういうかのじょの甘いやさしさが好きなのです。可憐だ。今にも消えていきそうなほど、はかなげなのに、存在している。

そういう人だったでしょう。

だが、こういうやさしさだけでは、人間の指導はできない。時には、悪い子の腕を折ってくれるような、厳しい存在も必要だ。

そうでなければ、あなたがたはいつまでも甘えて、何もしようとしない。

わたしは、かなり、そういうこともする星です。

ですが、ここではそれをできるだけ抑えていこうと思っています。

明日は調子を戻して、少し優しいものを選んでみましょう。







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猿法師

2016-11-21 04:25:36 | 雑句







猿法師 蛇のゆまりを 酒と飲み     夢詩香






*「ゆまり」は小便のことです。

わたしたちが読む歌には、よく「糞(くそ)」という言葉が出てきますね。あまりあなたがたは使わないでしょう。汚い感じがするし、詩的ではない。

だが、わたしたちから見れば、あなたがたはうれしそうに糞を食っているなどということを、平気でしているのです。それはどういう意味かというと、食うても何もならないもの、非常に臭くて汚くて困るもの、そういうものを、いいものだと信じ込んで、嬉しそうに食べているのです。

狸に化かされて、饅頭だと思って馬糞を食べているようなものです。目が覚めて気が付けば、自分が何をしていたかを知って、驚きますよ。その日もそう遠くはない。狸というが、自分を化かしているのは、自分自身です。

蛇が小便をするかどうかは知りませんが、そういうものを、おいしそうに飲んでいる男性はよく見かけます。

おそろしく醜い女性を、美人だと信じ込んで、いろいろなことをやっている。彼女を口説くために、ふんだんに金と暇を使う。そんな人と結婚してしまえば大変なことになるというのに、焦りに焦る。

ハイレベルなよいことだと信じてやっていることは、やればやるほど馬鹿になるということだ。いずれは自分で掃除しなければならない、汚い糞尿の海になっている。だがまだ、気付いている人はほとんどいない。

厳しいですね。わたしも今日は、かなり自分を出しています。一昨日までの記事は、ちょっと芝居をしていました。少々おちゃめだけれど、俳句はうまい普通のおばさんというキャラクターを作って、それを演じていました。

これからは少し男っぽくなってくるかもしれません。わたしの正体は、実はかなりの美男です。









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