ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

はるかなる時

2018-06-30 04:19:48 | 短歌





ほしからぬ ものはすてよと しほさゐの かなたにきこゆ はるかなる時





*これはインスタグラムで、ある投稿写真に差し上げようと思って、やめた歌です。

その投稿写真はあるリゾートホテルからのながめなどを写した組み写真でした。南の美しい海がベランダ見えていた。かたわらにはおいしそうな飲み物の瓶をきれいにいれた籠があり、ハイビスカスの花が添えてありました。

贅沢なバカンスうんぬんと書かれていたような気がしますが、見ていると、あまり痛い感じがしなかった。写真には普通それを見る人間の感情が染みつきますから、いいなと思ったり、行きたいなと思ったりすると、その感情が写真にしみつくものなのだが。

それがあまりなかったのです。

つまりはもう、人間はそんな贅沢なホテルになどとまりたくはないのです。自分がそんな贅沢をするために、どれだけの人が我慢や苦労をしてくれているかということを、わかるようになってきたからです。

人間もいつまでも子供ではない。王侯貴族のような暮らしがつかの間でも楽しめるようなホテルで、贅沢なバカンスなどすごしたくない。それよりは、いいところでいいことをして働いて、人生を自分を高めることにつかっていきたい。

そんなことを考えるようになったのです。

欲しくないものはすてなさいと、潮騒の彼方から聞こえる。はるかなる時がすぎたのだ。

もう永遠に、過去の世界とは決別する。そういう時がやってきたのだ。人間は楽をするために生きているのではないと、人間はわかったのです。

学び、向上するために生きることが幸福なのだと、わかってきたのです。






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闇にも色

2018-06-29 04:21:04 | 短歌





ぬばたまの 闇にも色は あるものと 出で来ぬ人は 身をこそ見ざれ





*今、ツイッターでの短歌は、スランプの真っ最中です。インスタの方はそうでもないのですがね、ツイッターで詠もうとすると、何だか歯切れが悪い。思うようにいいものが詠めません。

馬鹿がこの存在の活動を邪魔しているからです。ツイッターでのわたしたちの活動が痛いらしい。ですから、大火のつぶやきも、以前ほど歯切れがよくありません。

この項を書いているのは6月10日ですから、これが発表される頃にはどうなっているかわかりませんが、今はとにかく詠むのにとても苦しんでいます。

こういうことはよくあることです。馬鹿というのは人の邪魔ばかりしていますから、他人が何かいいことをしていたり、いいことになっていたりすると、吸い付くように飛んできて邪魔をするのです。

自分はまだ何もいいことをしていなくて、全然いいことにならないからです。嫉妬に振り回されるものは悲しい。結局人を邪魔することしかほとんどやらなくて、苦いことばかりになるのに、やめられない。

闇の中にも色はあるものと、そこから出てこないものは、自分の姿も見ないのだ。

全部を言わなくてもわかりますね。馬鹿はいつでも、現象的刺激に夢中になって、自分という者を見ないのです。それでいつも馬鹿なことばかりしている。

人の邪魔ばかりしているから、自分が醜く小さくいやなものになるのだと、何度言われてもわかろうとしない。人の邪魔をして人がいやなことになるのを楽しみにして、そんないやなことばかりしている。

そんな自分がいやで、また人が妬ましくなり、人の邪魔をする。

際限のない回転地獄です。

ここから脱することができない限り、馬鹿は苦しみ続ける。

今わたしたちはスランプの真っ最中ですが、馬鹿の目的はこんな状況に嫌気がさしてわたしたちが活動をやめることです。馬鹿は他人が自分よりいいことになるのがいやですから、他人がいいことをしていれば邪魔して必ずやめさせようとするのです。

ですが、わたしたちにはわかっている。続けることをやめさえしなければ、トンネルの出口をぬけ、また新たな段階が始まることを。

スランプもいい経験です。自分を見返す機会になる。いろいろあがきつつも、楽しんでみましょう。






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おほぞら

2018-06-28 04:19:17 | 短歌





おほぞらは 神のすみかか 青深み そこひもしれぬ 心ぞ見ゆる





*「青深み」は「青が深いので」と訳します。「み」は接尾語で、形容詞の語幹などについて、原因、理由を示す語を作ります。

「空高み」といえば、「空が高いので」という意味になります。文字数が少なくて大きい意味を載せられるので、覚えておくと便利ですね。

大空は神のすみかだろうか、青が深いので、底も知れない心が見えることだ。

確かに、神はよく空にいらっしゃいます。そういうことも、もう感性の開けたあなたがたにわかることでしょう。空があきれるほど深く、高く感じるときなどには、空に神がいらっしゃることが多いのです。

昔は、神などいないのだとか、いてもはるかとおい次元を超えたところにいるのだとか、そういう考えが多くありましたが、今ではわかる。神はいつでも、すぐそばにいてくださるのです。

人間をいつも見ている。そして人間のためになんでもしてくださっている。

それはとても大きな、ありがたい愛なのです。

神はわたしたちの御親です。神が、わたしたちをつくってくださったのです。それゆえにその愛はあまりにも深い。わたしたちを誰よりも深く愛してくださる。

その愛を、馬鹿にしてはいけません。愛を馬鹿にしすぎると、神の愛をも馬鹿にしていることになる。そうなればもう、神の愛の限界を超えることもあるのです。

人間は悪さをしすぎると、神の堪忍袋の緒をちぎってしまうこともできるということを、覚えておかねばなりません。この時代、本当にそんなことをしてしまった馬鹿な人間が相当にたくさん出ましたから。

あまりにも大勢の人間で、ひとりの美人をいじめるなどということをしたら、神の愛の限界も破るのです。美女は人類を救うことを夢みて、貧乏な生活に耐えながら、懸命に努力していたからです。

人類を救うことは神の夢でもあり目的でもあります。その手助けをしていた天使を馬鹿にすることはもはや、神を敵に回すことなのです。それを馬鹿はやり切ってしまった。ゆえに、馬鹿は人類の救済を邪魔する敵対分子になり果ててしまったのです。

やり直すチャンスは何度も与えられていたが、それも全部無視した。ゆえにもう、彼らは神の愛の下にある世界にはもう、いられなくなったのです。

空を見ればいつもそこにいた、あの美しい愛の中で、生きることはできなくなったのです。






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甘き夢

2018-06-27 04:20:12 | 短歌





甘き夢 人はうたてと いひつれど 無きは悲しき 白飴の月





*愛の甘い夢など、人は愚かだと言ったけれど、なければ悲しい、あの白飴の月。

かのじょは女性に等しいというほど美しい男でしたが、その顔にふさわしい心で、すべての人類を救いたいなどという甘い夢を描いていた。実にそれは甘い。人類の現実はたまらないほど厳しいのだ。でも、かのじょはその夢を捨てられなかった。

愛で人類を救うなど甘い夢だと、あなたがたは思ったでしょうが、しかし愛以外に人類を救うことはできない。物質計算だけでは、何も救うことはできないのです。

全部は無理かもしれないが、かのじょが生きていれば、できるだけたくさんの人を救おうとして、あらゆることをやってくれたろう。その結果、必ず、救われる人間の数は増えたに違いない。そういう人の存在価値を、まるごとばかにするから、愚かなことになるのです。

その人がいれば、できたであろうあらゆることがなくなってしまう。天使も、あの人がいれば動いてくれる人が動いてくれなくなる。たったひとりいなくなっただけで、空気が半分になったかと思うほど、世界は窒息しそうに苦しくなるのです。

愛を甘いなどというのは、あなたがたの悪によって愛がやすやすと滅ぼされていくのを、経験的に見てきたからだ。だが愛は滅びはしない。またよみがえってくる。愛で、悪に溺れる魂を助けたいと思う存在がいる限り、愛はよみがえってくる。そういう人がいなければ、この世界はあまりにもつらいことになってしまう。

しかし、悪にしびれている霊魂は、そんな愛の美しさがたまらなくいやで、それをとうとう一ミリの塵も残らないほど滅ぼしてしまった。そして何もなくなった。

一つの愛を消し尽くしたこの傷は、永遠に人類の霊魂に残っていくでしょう。そしてその喪失を補うために、あらゆることをしていかねばならない。

消失した存在の価値をすべて償うために、永遠に近い年月を、人類はやっていかねばならないのです。






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あだの狸

2018-06-26 04:19:56 | 短歌





いつはりに なれてまことが 虚仮に見え あだの狸の 袴をあがむ





*今日は一年前のツイートから持ってきました。

「虚仮」とか「あだ」とかいう二文字で意味の深いことばは便利なのでおぼえておきましょう。「あだ(徒)」は誠意がないとか、はかないとか、無駄だとかいう意味だ。「虚仮(こけ)」は実体がないとか、愚かなこと、という意味だ。

嘘ばかりの世界になれて、本当のことが馬鹿に見え、誠意のない狸の袴をあがめる。

こんなことはよくありますね。今の世界は、嘘の方が本当らしく見えるものですから、誠意のない嘘ばかりの芸能人のサインを神棚にあげたりしているなどということがよくある。

かのじょも一時期、新興宗教に凝っていた時がありました。三十代のころ、何か高いことが勉強したいと思っていたかのじょは、あることをきっかけにある宗教グループに入ってみたのです。教祖は一見、とても個性的で誠実な人のように見えた。

おもしろいことをやっていそうでしたしね、宗教グループのうたい文句を信じて入信したのです。最初のころは、その教祖に夢中になりました。なんでもその教祖の言うことが一番のような気がして、熱心にやっていた。だが、いつか、教祖の行動に疑問を感じるようになり、ある日突然やめてしまった。

結局のところ、その教祖の言っていたことはほとんどが嘘でした。かのじょはその経験から別のことを深く学びました。真実の振りをする嘘がどんなに上手に嘘をつくか、その嘘を守るためにどんなことを裏でしているか、ということです。

嘘というのは、自分を本当のことにするために、実にうまく、裏で汚いことをやっているものなのです。だから人はよく、本当よりも嘘の方がよく見え、本当を捨てて嘘に走ってしまうのだ。

あなたがたも、そうでしたね。偽物の美女があまりにもよくできていたから、本物の美女をみんな殺してしまった。男の思い通りにならないというだけで、馬鹿にして殺してしまった。

そんなものがいなくても、ほかにも美人はいると思っていたのです。男は馬鹿みたいな、計算のしやすい美人のほうがよかったのです。ですが、感覚が進化して、そんな美人の正体がどんなものか、自分を美女にするためにどんなことをしているかがわかったら、一斉に逃げた。

あだの狸とは良い言いようだ。誠意も何にもない、人を化かしている狸のようなものの、袴をあがめる。要するに、偽物の美人のはいているソックスのようなものをあがめている。

そんな情景が、この世界のあちこちにありましたね。今も見かける。

しかし、そんなものの馬鹿らしい正体もだんだん見えてきた。この世界で踊っている嘘たちは、真実を見抜く進化した人類の目にさらされている。

さて、これからこの世界はどうなっていくでしょう。






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たかどのの人

2018-06-25 04:20:06 | 短歌





たかどのの 人をおもひて 月影を 汲むごときにぞ むなしかりける





*「ぞ」~連体形の係り結びです。もうこういうのは自然にできるようになりますね。繰り返し練習していくと、特に気をつけなくてもすっと語尾が連体形になるでしょう。

たかどのに住む人に恋をして、それは月の光を器に酌むように、むなしいことですよ。

高殿の人というのは、特に高殿に住んでいるひとのことではなく、思うても届かない人のたとえです。この場合はかのじょのことを意味しますね。あの人に恋をしていた男は多いが、誰も届かなかった。

田舎に住んでいる普通の主婦で、少し乱暴なことをすれば手に入れられそうな気もして、様々なことをやってみたが、結局誰も何もできなかった。

見えない徳分というものが、どんな力を持っているかということを、人間は何も知らなかったのです。

かのじょは人類を救うために、これまであらゆるよいことをしてきてくれたので、かのじょを助けてくれる存在がそれはたくさんいたのです。見える世界にはほとんどいなくても、見えない世界にはそれはたくさんいた。だからそういう加護が働き、かのじょに手を出そうとしていた男をことごとく邪魔していたのです。

そのように、良いことを積み重ねていけば、いずれ不幸になりたくてもなれないという段階が来るのです。それを幸福の絶対安定状態というのだが、人間はこれを何も知らなかった。世界が愛のみでできていることすら知らず、悪の優位性を信じてあらゆる馬鹿をやりまくった。

たかどのに住む人というのは、そういう法則上の高みに登った人のこともいいます。愛の世界では、霊魂が幼いうちは悪と不幸の風にさいなまれる日々があるのだが、様々な良いことを積み重ね、進化していくうちに、存在として善の絶対安定の状態になっていくのです。それゆえにこそ、この世界は絶妙なバランスで存在することができるのです。

地球は、ちょっとやそっとのことで滅びるほどなまっちょろいところではない。絶対安定のすばらしい存在である神が、すばらしく大勢で支えている世界なのです。

人間の浅はかな悪で、そんな美しいものを崩せるはずがないのです。






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きみのうれひ

2018-06-24 04:19:34 | 短歌





花と見て こてふとひきぬ ものいはぬ きみのうれひを すはむとはして





*これも、インスタグラムでの活動の中で詠んだものですね。日本の画家さんの作品に寄せて詠んだものです。いつも、不思議に魅力的な女性の絵ばかり描く画家さんです。

わたしたちが探し出した作家さんには、色んな人がいますが、歌を詠みやすいひとと詠みにくい人はいますね。なんとはなしに、わたしと相性が合うのか、この作品をさしあげた作家さんには、よく歌をさしあげています。

シロツメクサの冠をかぶった少女の口元に、モンシロチョウが止まっていると言う、とても魅力的な絵でしたから、歌がすらすらと出てきて、表題のようなものができてしまいました。

歌をしあげるのに、1分ほどしかかからなかったのではないかな。

どういう感じかというと、まずくちびるにとまった蝶を見て、それでくちびるを花に見立て、蝶が何を吸うために来ているのかと考え、くちびるのかたちから、ものいはぬかなしみ、ときて、かなしみでは字があわぬからうれひにして…と、この間ほぼ1分。わたしたちは頭の回転が速いのです。

別に気後れすることはありません。人間の脳というのはすばらしいんですよ。記憶力も回転も、鍛えようと思えばどんどん鍛えることができる。ものいはぬ、は五文字のストックとして頭の中にずっと記憶されているのです。そんなことばが、頭の中にたくさんあって、痛い時に、すらっとでてくる。そういう回転が、頭の中にできてきます。

最初はなかなかできませんが、練習していくうちにできるようになってきます。人と比べたりしないで、自分の進歩を喜びながら、いろいろと練習していきましょう。たくさんの歌を詠み、いろんなことばをくっているうちに、自分の中に歌詠みのシステムができてくる。

最初は形から、心は後からついてきます。すべてをやろうとしなくていい。そんなことは不可能ですから。手に触れることをかたっぱしからやっていけばいいのです。

そうすれば、どんどん、できる自分になっていけます。

自分はできないからと馬鹿にしないで、こつこつとやってみましょう。






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からころも

2018-06-23 04:20:47 | 短歌





からころも 着るうつせみの いつはりを などてまもりて われとかたるや





*今日も一年前のツイートからとりましょう。積み重ねが役に立つのはこんなときですね。やってもやっても何も反応がなく、甲斐なきことのように思えても、やらずにいられなかったからやってきたのだが、そういう積み重ねが、のちにいろいろと役に立ってきます。

ツイッターを初めてまだ一年余りですが、それはたくさんの歌を詠んできた。そのうちの一つから、今日もとりあげましょう。

「唐衣(からころも)」は「きる」や「たつ」「かへす」などにかかる枕詞ですね。基本的なものですから覚えている人もいるでしょう。ちなみに唐衣とは中国風の衣服のことです。普通枕詞は特に訳さなくてもよいが、この場合は意味が生きてきますね。

外国の服を着るように、うそを空蝉のように着込んで、なぜそれをかたくまもって、それが自分だと語るのか。

この場合の空蝉は枕詞ではなく、単純に蝉の抜け殻という意味です。空蝉の偽りとは、ぬけがらのような嘘という意味です。そんな嘘をいまだに着こんで、どうしてそれが自分だというのか。

みな、本当の自分が痛いのだ。だから、むなしい嘘をかぶって、それが自分だと思いたい。今の世の中、そういう人ばかりを見ます。わたしたちはたいてい家に閉じこもってもっぱら詩文など書いているが、たまに買い物などに出かけて世間を見ると、そういう嘘をかぶった人間ばかりを見る。みな、ほんとうの自分を生きていないのです。

そんな嘘の自分を生きていることが苦しくないのかと言えばそうではない。本当はとても苦しい。だからいつも彼らは他人ばかり見ている。他人も嘘をついていると思うと安心できるからだ。世間がそうならば自分がついている嘘にも安心できるのです。ですが時に、まさに正直な自分一本を生きているような人間に出会うことがある。

そうすれば人はまるで狂ったようにその人を攻撃し始めるのです。あまりにも、嘘で生きている自分がつらいからです。そういうことから、陰湿ないじめが生じる。いじめは学校だけで起こることではない。人は自分がついている嘘が痛いなどというものではないから、常にその痛さを攻撃性に燃やして、だれかを探しているのだ。

美しいものが憎い、という人間の底辺にこびりつく嫌な感情は、嘘をついて守っている自分の中の嫌な記憶から発している。なぜ嘘を守ってそれを自分だと言うのか。それは自分があまりにも愚かなことをしたからだ。全部否定してすっかりきれいな人間になりたいのに、それができないからなのだ。

何回も言ってきたことだが、なかなかに世間を変えることは難しい。人間は今も嘘を頑なに守っている。

しかし積み重ねは、これからもずっとやっていきましょう。






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ゆみはり

2018-06-22 04:19:16 | 短歌





をしどりの 憂きとこそいへ ゆみはりの 浮くごときなる つまをらざれば





*今日も一年前のツイートから持ってきました。

「憂きとこそいへ」は係り結びですから、已然形で終わっていても、意は終止形と同じです。これはよく現代人が勘違いするので確実に覚えておきましょう。よく命令形の意と間違うからです。もちろん、命令形に近い形から、終止形の意を強めているのです。

おしどりは、かなしいといいますよ、弓張り月が浮いているような妻がいなければ。

おしどりは、つがいが仲がいいことで有名ですね。おしどり夫婦などというと、とても仲がいい夫婦のことを表します。しかしなんで仲がいいかと言うと、たがいが円満な人格だからではない。人間には欠点が誰にもありますから、その欠点が好きだ、というくらい好きだということでしょう。

弓張りは、弓張り月の略です。半分に欠けた月のことですね。それを、大きな欠落を持つ人間の人格にたとえているのです。半分も欠けているほど、欠点の大きなパートナーだが、いないと悲しい。

なぜなら、もうパートナーは自分の一部だからです。いなくなれば、自分が半分いなくなるほど、寒いのです。

そんな風に、人は人を好きになることがあるのです。

それは性別を持つ人間の、深い喜びでしょう。愛するものを、まるで自分のように愛することができる。いつもそばにいることが当たり前でいないことが考えられないほど深く愛している。

そういうパートナーをつくることができたひとの幸せはどんなものでしょう。

欠点が嫌だからと言って、人をまるごと否定してしまうのは、悲しいことですよ。欠点があるからこそ人間はかわいい。愛しやすい。自分もまた、欠点の多い存在ですから。

完璧で円満な人格など目指そうとしたら、嘘をつき続けていなければならない。そんなことで苦しむよりは、自分の欠落を受け入れて、人の欠落も受け入れて、互いに助け合って愛し合っていく方が、どんなに幸せでしょうか。






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徒労の丘

2018-06-21 04:20:09 | 短歌





いはをおひ 徒労の丘を のぼりつつ ふるさと思ふ 凡庸の罪





*シジフォスの神話では、神の怒りを買ったシジフォスは大きな岩を背負って山を登らねばならず、登り切った途端に石は転げ落ちる。永遠にその徒労を繰り返さねばならないという。

神話とはよく人の生を導いてくれるものです。わたしたちが人間世界を追い出されたものたちが向かう世界のことを、シジフォシアと名付けたのはこの神話によるのだが。そこは神が何も創造を行わなかった何もない世界です。

石と砂ばかりがあり、水はない。空には日月星もない。ただうすぼんやりとした光があり、すべては見えているだけ。

永遠の黎明の世界と言っていいでしょう。

そこでは人間は、神が与えたものをすべてはぎとられ、ぼんやりとした存在のまま、永遠にほとんど何もせずにいるのです。何かをしようにも、何もないからです。

なぜそんなことになったのか。それは何もしなかったからです。人間はみんなこんなものだと、凡庸の闇に甘えて、神になんでもやらせて、自分ではいいことは何もしなかった。それどころか、いいことをしたものからいいものを盗んで、自分だけをよいことにしてきたからです。

そういう凡庸の罪が、シジフォスの野という何もない世界への入り口を開き、彼らはそこに永遠に住むことになる。

永遠ということばにも含みがありますが、そこは、今はないのといっしょです。人間にとっては永遠に等しい。神にとってはそうではなくとも。

非科学的だとか言う言葉に逃げてはいけませんよ。科学というものは実に狭い世界の真実しか知らないのです。現に科学は、人類の感性の進歩の正体をつかむことができない。科学的な方法ではそれを説明できない。それなのに人類は実際、目で見るだけで見えないものの声を感じることができるようになったのです。

神の知っている世界は、あまりにも広く、人間の常識を超えているのだと思いましょう。人間はまだほとんど何も知らないのです。それなのに馬鹿なものたちは、何でも知っていると勘違いしてあらゆる愚かなことをしている。

悪さをする方が勝ちだということが、どんなに小さい知恵かと言うこともしらず、あらゆる悪さをしてきた。

神に偉大な権力があるということすら知らずにきた。

彼らはその権力の執行によって、永遠に、人類と決別させられるのです。






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