橋本 治著「三島由紀夫」とはなにものだったのか
「小林秀雄の恵み」同様、なかなか、難しい課題に、橋本は、良く挑戦したものである。それにしても、良くも、これ程、膨大な三島の著作を、読み返したものである。こちらは、全部が、全部、読破したモノではないから、その論旨が、果たして、どうなのかは、自分が読んだことのある著作に関しては、ある程度、理解出来るが、そうでない部分は、とりわけ、同性愛的な部分に関しては、確固たる意見が持てないのも、事実である。その辺が消化不良を起こすことになるが、「戦後」という時代を考え直す時には、どうしても、この人物の著作と死に様が、余りにショッキングだったので、避けては通ることが出来ないことも、又、事実であろう。
未だ、学生だった頃、その日は、友人達と一緒に、ヘリコプターが、頭上を旋回する騒然とする市ヶ谷の防衛庁の門の前まで、人混みに揉まれるようにして歩いて行ったことを覚えている。
日本の知性の在り方に対して、要石のような存在の仕方をする、死に遅れた知識人、日本人は、ただ、馬鹿になっただけであると公言して憚らない時代の寵児、自分自身を嫌悪し、作家を拒絶した作家であると。代わりに、人間であることを辞めてしまったとも、、、、、、。豊饒の海=空虚とは、何を以てして、承知したのか?禁色から、金閣寺へ、そして、豊饒の海への内容の違い、とは、、、、、、、、。
生きようとする意思をストレートに肯定する小説とは思われなかったが、金閣寺は、作者を死に至らしめるような小説ではないと、作者に、生きようと思わせたし、生きられると思っていたと。しかしながら、生きようと思ったが、それは無理だと、どこかで、何かが、変容した。何かが起こったのであると、禁色は、潜在的な同性愛者の存在を明確に表するものではないと、三島は、主人公の分身なのか?
豊穣の海(春の雪、奔馬、暁の寺、天人五衰)は、他者と関わりたがった小説であると。一人の三島と転生したもう一人の三島=他者という構図なのか?禁色の中の三島は、南である自分に転生を遂げてしまうが、豊饒の海では、生き残った片割れの三島が、敗北してしまい、その転生の結果、別の人物(=他者)がもう一人の三島の前にあらわれるという構図であると、果たして、暁の寺は、桜姫東文章の書き直しであろうが、そんなことよりも、実際に、バンコクでチャオプラヤー河の水上から見た暁の寺(ワット・アルンラーチャワラーラーム)は、早暁の下では、もっと、崇高な景色に、きっと、見えたのではないかと思う。輪廻転生の難解なる議論の展開には、やや、疲れる。
同性を決して知らなかったとは言いがたい三島は、同性愛を語らなかったし、書かなかったと、
それが、時代の流れで、生きていた時代背景であったと、三島は、自らを幻想文学にしないために、自刃したのだろうか?終焉を知らせるリアルな文学の作者として、作品に殉じて、自殺したのか?
仮面の告白に書かれた内容を事実とする為に、作者である自身を「虚」としてしまったと。
裏返しの自殺:フィルムの逆廻しのように、崖下から、崖上へ逆戻りする「生の回帰」であったと。
「死者の自殺」である。死の領域を放擲したが、「生に値する生」ではなく、仮構であるとしか言えない「実体のない生」であったのか?「虚」はここから始まったのか? それとも、時代に忠実に生きた為か?
同性愛は、芸術家のみに、許されると、、、、、。今日のお姉系の露出は、一体、どのように理解したら良いのか?芸術の一かけらすらも、見られないが、、、、、、。三島は、同性愛をもっと、知ろうとする読者に対して、芸術という支柱の「その先」を語らなかったと、実際、この辺になると、もう良く分からない、、、、、。
仮面の告白の「断絶」、「断層」とは、一体何だったのか?
それが書かれた昭和23年は、(奇しくも、私の生まれた年である)、戦後間近で有り、これまでの人生の在り方と対比しながら、新たな自分の人生を生きるということが、要求されていた時代、そういう模索がなければ、戦後という時代は、未来に向かって動き出せなかった筈であると、今日の状況は、では、どうなのであろうか?
そういう先の答を出さなかったのが、三島由紀夫である、言いにくい告白を事実とするために、自分自身を「虚」にしてしまった三島に、それを望むのは、酷かもしれなかったが、やはり、答を出して貰いたかったと、その問いを、「戦後」という時代は、そのままにして、やがて、一切の虚無と直面して、死を選ぶ。何故、自身を虚にしたのか?という問いと答は、とてつもなく、重大である。
戦後民主主義をまるで、その鏡の裏表のように、或いは、印画紙のように、対比して見せた、或いは、対立とある種の共感を得た安田講堂での「全共闘との討論会」でも、今になって思えば、どこか、消化不良の「隠し球」があるような、結局、その答は、最終的な「自刃」という形での回答提示しかなかったのか?今にして思えば、戦後の引きずってきたものが、その時に、初めて、裁ち切られたのか?だからこそ、その時に、当時の我々若者は、衝撃を受けたのか?当時提起された「言葉の責任と行動」という重い課題は、今でも、胸に突き刺さったままである。まるで、松下村塾の塾生達が、師の松蔭の生き様に触発されたかのような衝撃、死後に読んだ「天人五衰」も、本当に、それらの回答になっていたのだろうか?今でも、永遠の謎であろう、、、、。今日の日本を、維新ブームを、三島だったら、どのように、一刀両断するだろうか?本当に、戦後は、もう終わったのであろうか?重い課題を引きずりながら、それでも、残された我々は、生き抜かなければならないし、考え直さなければならない。
今回の書評は、腰折れならぬ、筆折れの状態で、途中で、ギブ・アップというところだろうか?本来の著作を全て、読み込んでおかないと、何とも、コメントのしようがないのも、厳然とした事実であろう。
「小林秀雄の恵み」同様、なかなか、難しい課題に、橋本は、良く挑戦したものである。それにしても、良くも、これ程、膨大な三島の著作を、読み返したものである。こちらは、全部が、全部、読破したモノではないから、その論旨が、果たして、どうなのかは、自分が読んだことのある著作に関しては、ある程度、理解出来るが、そうでない部分は、とりわけ、同性愛的な部分に関しては、確固たる意見が持てないのも、事実である。その辺が消化不良を起こすことになるが、「戦後」という時代を考え直す時には、どうしても、この人物の著作と死に様が、余りにショッキングだったので、避けては通ることが出来ないことも、又、事実であろう。
未だ、学生だった頃、その日は、友人達と一緒に、ヘリコプターが、頭上を旋回する騒然とする市ヶ谷の防衛庁の門の前まで、人混みに揉まれるようにして歩いて行ったことを覚えている。
日本の知性の在り方に対して、要石のような存在の仕方をする、死に遅れた知識人、日本人は、ただ、馬鹿になっただけであると公言して憚らない時代の寵児、自分自身を嫌悪し、作家を拒絶した作家であると。代わりに、人間であることを辞めてしまったとも、、、、、、。豊饒の海=空虚とは、何を以てして、承知したのか?禁色から、金閣寺へ、そして、豊饒の海への内容の違い、とは、、、、、、、、。
生きようとする意思をストレートに肯定する小説とは思われなかったが、金閣寺は、作者を死に至らしめるような小説ではないと、作者に、生きようと思わせたし、生きられると思っていたと。しかしながら、生きようと思ったが、それは無理だと、どこかで、何かが、変容した。何かが起こったのであると、禁色は、潜在的な同性愛者の存在を明確に表するものではないと、三島は、主人公の分身なのか?
豊穣の海(春の雪、奔馬、暁の寺、天人五衰)は、他者と関わりたがった小説であると。一人の三島と転生したもう一人の三島=他者という構図なのか?禁色の中の三島は、南である自分に転生を遂げてしまうが、豊饒の海では、生き残った片割れの三島が、敗北してしまい、その転生の結果、別の人物(=他者)がもう一人の三島の前にあらわれるという構図であると、果たして、暁の寺は、桜姫東文章の書き直しであろうが、そんなことよりも、実際に、バンコクでチャオプラヤー河の水上から見た暁の寺(ワット・アルンラーチャワラーラーム)は、早暁の下では、もっと、崇高な景色に、きっと、見えたのではないかと思う。輪廻転生の難解なる議論の展開には、やや、疲れる。
同性を決して知らなかったとは言いがたい三島は、同性愛を語らなかったし、書かなかったと、
それが、時代の流れで、生きていた時代背景であったと、三島は、自らを幻想文学にしないために、自刃したのだろうか?終焉を知らせるリアルな文学の作者として、作品に殉じて、自殺したのか?
仮面の告白に書かれた内容を事実とする為に、作者である自身を「虚」としてしまったと。
裏返しの自殺:フィルムの逆廻しのように、崖下から、崖上へ逆戻りする「生の回帰」であったと。
「死者の自殺」である。死の領域を放擲したが、「生に値する生」ではなく、仮構であるとしか言えない「実体のない生」であったのか?「虚」はここから始まったのか? それとも、時代に忠実に生きた為か?
同性愛は、芸術家のみに、許されると、、、、、。今日のお姉系の露出は、一体、どのように理解したら良いのか?芸術の一かけらすらも、見られないが、、、、、、。三島は、同性愛をもっと、知ろうとする読者に対して、芸術という支柱の「その先」を語らなかったと、実際、この辺になると、もう良く分からない、、、、、。
仮面の告白の「断絶」、「断層」とは、一体何だったのか?
それが書かれた昭和23年は、(奇しくも、私の生まれた年である)、戦後間近で有り、これまでの人生の在り方と対比しながら、新たな自分の人生を生きるということが、要求されていた時代、そういう模索がなければ、戦後という時代は、未来に向かって動き出せなかった筈であると、今日の状況は、では、どうなのであろうか?
そういう先の答を出さなかったのが、三島由紀夫である、言いにくい告白を事実とするために、自分自身を「虚」にしてしまった三島に、それを望むのは、酷かもしれなかったが、やはり、答を出して貰いたかったと、その問いを、「戦後」という時代は、そのままにして、やがて、一切の虚無と直面して、死を選ぶ。何故、自身を虚にしたのか?という問いと答は、とてつもなく、重大である。
戦後民主主義をまるで、その鏡の裏表のように、或いは、印画紙のように、対比して見せた、或いは、対立とある種の共感を得た安田講堂での「全共闘との討論会」でも、今になって思えば、どこか、消化不良の「隠し球」があるような、結局、その答は、最終的な「自刃」という形での回答提示しかなかったのか?今にして思えば、戦後の引きずってきたものが、その時に、初めて、裁ち切られたのか?だからこそ、その時に、当時の我々若者は、衝撃を受けたのか?当時提起された「言葉の責任と行動」という重い課題は、今でも、胸に突き刺さったままである。まるで、松下村塾の塾生達が、師の松蔭の生き様に触発されたかのような衝撃、死後に読んだ「天人五衰」も、本当に、それらの回答になっていたのだろうか?今でも、永遠の謎であろう、、、、。今日の日本を、維新ブームを、三島だったら、どのように、一刀両断するだろうか?本当に、戦後は、もう終わったのであろうか?重い課題を引きずりながら、それでも、残された我々は、生き抜かなければならないし、考え直さなければならない。
今回の書評は、腰折れならぬ、筆折れの状態で、途中で、ギブ・アップというところだろうか?本来の著作を全て、読み込んでおかないと、何とも、コメントのしようがないのも、厳然とした事実であろう。